今回はいっぷくからのありがとうさんの2023年08月09日の記事を紹介します。
「現実が変わらぬなら」
悪魔的な心は誰の心の中にも、多かれ少なかれ存在していますが、人間の欲望、自我の心は、
宇宙神から自由意志を与えられているために、その心は、神の心にもなれるし、残酷な悪魔の心にもなれます。
自分だけでなく、自分の我欲のために人までも陥れ、その精神を堕落させ、悪魔的なものに、
してしまうような人や組織、動きも実際に存在します。
それを無意識にやってしまう人も大勢います。
近年は、人間性の劣化が非常に激しく
・自分さえ良ければ
・今さえ良ければ
・お金さえ儲ければ
という人々も増えてきたと言われています。
また恐怖感に縛られて無意識に、そちらの方向へ進もうとする者もいます。
九分九厘、もうだめかと言う時に、神々の大どんでん返しがあるとも言われますが、
神々も私たちを助けたくとも、私たち自身の心にその準備が整っていなければ出来ません。
神々でさえも、私たちの自由意志を尊重するからです。
私たちは自分では何もせず、ただ他人や、大きな力や神々に頼り、自分では何もせず、依存してしまうのではなく、自らの意志で心を純粋にする必要があります。
誰か(他人や神々)に寄りかかり、頼り切るのではなく、自分の足で、しっかりと大地に立つ必要があります。
そのためには、一人一人が、ご自身の中にいらっしゃる神さまと繋がる必要があります。
感謝の気持ちを持つことで、周りの人々と
・思いやりを持って
・お互いの違いを許し
・助け合い
・励まし合い
・笑顔で
・ともに生きていく
必要があります。
その時に、神々の大どんでん返しは
・その心を純粋にした人たち
・依存の心を捨て、自ら進もうという人たち
に対し、大きな恩寵となって降り注がれることでしょう。
美しい波動に変わろうとしている地球とともに、進んで行けることでしょう。
心を清め、内なる神々と繋がるということは、今の時代、それほど大切なことだからです。
では、今日は「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な渡辺和子さんの言葉をご紹介します。
<転載開始> 転載元
女子学生たちと五十年以上接していて気がつくことは、この年頃の人たちの多くが、
愛に必要なのは、すばらしい対象に出会うことだと考えていることです。
それも決して間違いではないのですが、その対象が「すばらしさ」を失った時(病気やケガ、挫折)にも、果たして愛し続けることができるかどうか、ここに「愛の本質」が問われています。
・健康だった相手が病気になってしまった時も、
・前途を嘱望(しょくぼう)されていた相手が挫折にあった時にも、
その人を愛し続けることができるかどうかは、私たちが自分の中に、「愛する力」を養い育てているかどうかに、かかっているのです。
ふだんからピアノの練習もせずに、立派なピアノを見つけさえすれば、上手に弾けると思ったり、絵を描く練習もせずに、ひたすら美しい景色を探している人にも似て、ふだんから「愛する」練習をしないで、素敵な人との出会いを待っていては、いけないのです。
愛する力を育てるためには、まず私たちが毎日の生活の中で「当たり前」と考えていることや、人、物を「有り難い」と、感謝の気持ちで受けとめることが大切です。
マイナスの価値しかないと思えることや、不幸、災難、苦しみにさえも意味を見出して、
これまた「有り難い」と感謝できる時、私たちは愛すべきものを随所(ずいしょ)に持ち、
愛し難い人さえも、その人の存在そのものの価値を認める、愛深く幸せな人間になれるのです。
<転載終了>
何か素晴らしいものさえ手に入れれば、きっと自分は幸せになれる。
殆どの人がそう思っています。
安直で、自分では何もせず、おいしい果実だけを得ようとする、依存の心です。
これは、生きていく姿勢そのものに直結しています。
・子供の成績が良ければ、愛する
・子供が不登校になったから、愛さない
・何か手に入れたら、感謝する
・何かしてもらったら、仲良くする
全部が、
・自分の思い通りに人が動けば、愛する
・自分の思い通りに動かなければ、嫌う
・先に何かを得たら、何かする
・自分から、親切や優しさを出すと損をする
そのような意識です。
まるで地獄の亡者のようですね。
そこには、
・自分は礼儀正しく
・言葉きれいで、
・正義の側に立ち
・悪を糾弾しており
・自分は報われるべき存在で
・その権利がある
・大事にされて、あたりまえ
そのような心が底流にあります。
ですがこの地球は、そのようにできてはいません。
生老病死、四苦八苦。
まさに思うようにならないのが、この世の中です。
希望を持って結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。
「何か素晴らしいものさえ手に入れれば、自分は幸せになれる。」
そのように、他に依存するように考えていた人たちは、そこで挫折し、苦しみにとらわれることでしょう。
愛する家族に対する熱も冷め、もしかしたら苦痛や憎しみの対象に変わるかもしれません。
これらは、人のせいではなく、全て自分の心の持ち方、物事のとらえ方の問題です。
渡辺和子さんは仰います。
「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきても、そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をして欲しいのです。
どうしても咲けない時もあります。
雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。
その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。
次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。
現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。
いい出会いにするためには、自分が出会いを大切にして育てなければなりません。
思い通りにならないことを経験した時、心にポッカリ開いた穴から、これまで見えなかったものが見えてくることがあります。
希望には叶わないものもありますが、大切なのは心に希望を持ち続けること。
相手を信頼するのは98%にし、あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておくこと。
「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練に感謝すること。
私たちは、神さまが置いて下さったこの場所で、たとえ辛く苦しくとも、幸せを見つけることが出来ます。
神さまは、「その場所で幸せを見つけるのですよ」と、私たちを、今の場所に置いて下さいました。
辛い日々は、必ず笑える日につながっています。
目の前の現実は変えられません。
ですが、その起きている現象には、本当は「良い」も「悪い」もないのです。
全てニュートラルの形で現象は起こっています。
そこに「良いこと」とか「悪いこと」と色を付けるのは、私たちの心の捉え方だけです。
そして実際は起きている現象全て、私たちの魂の成長のために、目の前に現れてくれています。
私たちが、それに気付き感謝して受け入れた途端、その現象は、もはや役割を終えたわけですから、目の前から消え、記憶のかなたに忘れ去られてしまうでしょう。
私たちの人生はその事の繰り返しです。
ですから、どんなことが目の前に起きても、心配せず、しっかり受け入れて、感謝しニコニコ笑っていれば、それで良いのです。
それがブッダが教えてくださった「般若心経」の真髄です。
ご縁のある方に届きますように。