黒石寺に付いては以下の様な記載があります。
「天平元年(729年)、東北地方初の寺院として行基が開いたとされる。東光山薬師寺と称していたが、延暦年間(782年〜806年)兵火により焼失。その後大同2年(807年)に坂上田村麻呂により再興され、嘉承2年(849年)円仁(慈覚大師)が中興して現在の寺号となったとされる。もとは修験(山伏)の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。重要文化財で平安時代初期の在銘像である木造薬師如来坐像や、選択無形民俗文化財の黒石寺蘇民祭で知られる。」
「蘇民祭(そみんさい)は、岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りである。1000年以上の歴史を持つと言われる。岩手県内では毎年1月から3月にかけて複数の蘇民祭が行われ、岩手の蘇民祭の名称で国の選択無形民俗文化財として選択されている。その中で最も著名なものは日本三大奇祭ないし日本三大裸祭りの一つに数えられることもある奥州市の黒石寺蘇民祭である。」
この黒石寺には是まで再三訪れてきていますが、中々動かず、頑なに拒否をされていた経緯がありました。しかし前回の9月11日に訪れてようやく大きな謎、課題が紐解けました。黒石寺ではなく本家本元はその裏山の大師山の黒石でした。
今回も、その後のご挨拶も含めて、大師山を登り、中腹にある黒石を目指しました。山道の前方は太陽の光に導かれるように輝いています。一汗かいて身体は活性しました。
「戻り来たるは、元なる真。
この地球が持ち来たりたる大きなる真。
宇宙それぞれ皆々進み行く、それぞれの理(ことわり)あり。
この宇宙に在りて、この地球大いなる真を発して進みて、稀なる星が皆々に大きなる気を発し行き、共に進むが理なれば、半場にして、その思い砕けたれば、この宇宙の在り様無くす事となる。
大き御許の憂いを戴してここに在り。
知らせて伝えて道正す。」9:55
何とも宇宙規模の壮大な意図がここに秘められていて、これから知らせ、伝えて道を正すとあります。
次の目的地は遠野市宮守町にある稲荷穴です。早池峰山の南にある大麻部山の南西側にあります。稲荷穴に付いて以下の記載があります。
「菅原進著の「アイヌ語地名考」 に「おおまぶ山」は地元の方言で「おおまんぶ山」と呼ばれ、その意味は「岩穴のある山」ということであると伝えられており、これをアイヌ語で解読を試みると「おおまんぶ」とは、=アィヌ語の「オー・マク・ウン・ペ」の転訛で、その意味は、 =「深い・奥・にある・洞窟泉」であります。 したがって、これに「山」を加えて「おおまんぶ山」とすると、その訳は、=「オー・マク・ウン・ペ・シルで、その意味は、 =「深い・奥・にある・洞窟泉の・山」ということになります。
ここの「稲荷穴」の前にこれらの「神」が祭られたのはいつからかと申しますと、その始まりは遠い縄文時代からだったと想像されます。ここでは、紙面の都合で縄文時代や弥生時代についての話は割愛するとして、少なくとも、現在の「稲荷神社」や「水神」の原形は古代エミシの時代にすでに存在していたのではないかということだけはつけ加えて置きたいと思います。」
「遥かなる伝えは、この年の内にしっかりと出だして、この身に伝えます。
来る年には幾多の事事、皆々様、共々のご用意あり。
大いに働きて、この地変え行きましょうぞ。