「七大宇宙がサポートするが、来年の事は、今繋がっている存在、私に繋がり90数日の存在が言っている。これまでいろいろ伝えたが、しっかり出来る人が少ない。
これから元々やっていた、岩、山を通して伝えることをする。そこを通した通信を受けるのは人間だ。
それによって私たちの中にいる小さいレベル、細菌、麹などが変わって行く。変な波動が伝われば、変な菌に変わって、やがて自分を食らう様になる、のと一緒だ。それは人間にとって怖いことだ。しかし嬉しいという感情になっているとそれは起きない。
しかし、ただ嬉しがっていて大丈夫か?それだけではコントロール出来ない。怒った方が良い場合もある。それを言う役目の人が大事だ。ヒッピーの様に、楽しい事で全て良い、と言っていたが、それでとんでもない事になった。」
「想いを定めるとは、どういうことか。
揺らがない自分を作っておくこと。これで変わって行くと思える自分を作っておくこと。
あわ歌も変わって来た。それへの反応が激しく、それにやられていると思って、私(中山さん)に魔が付いていると思ってしまう。
あわ歌をやっているから良いという事ではない。」
最初の目的地はホテルから程近い、平泉町の達谷窟毘沙門堂です。以下の様な紹介があります。
「この達谷窟は、別当・達谷西光寺にあります。お寺なのに鳥居があり毘沙門堂は神域で、達谷西光寺境内とは厳格に区別されていました。別当は毘沙門天に仕えるのが勤めとされたため、檀家が一軒もなく葬式をしないという珍しいお寺。
お寺に伝わる「毘沙門堂達谷窟縁起」によりますと、以下のような由来があります。
約1200年も昔、この地に悪路王・赤頭・高丸などと呼ばれる蝦夷(この頃の朝廷の人達が東北の人を指した呼び方)が、この窟に塞を構え乱暴な振舞いでこの地の良民を苦しめていました。国府も抑えることができず、時の天皇・桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下します。悪路王達は3000の兵を率いて駿河国清美関まで進みましたが、坂上田村麻呂が京を出発した知らせを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めました。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定。
坂上田村麻呂は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、そのお礼にと清水寺を真似た舞台造りのお堂を建て、108体の毘沙門天を祀り国を鎮める祈願所として「窟毘沙門堂」と名付けました。
この「悪路王」というのは、当時この地の軍事指導者だった「アテルイ」だとする説があります。アテルイは延暦8年(789年)、現在の岩手県奥州市付近に侵攻した朝廷軍を撃退しましたが、後坂上田村麻呂に敗れ処刑されました。」
何とも征服者側からの歴史であり、支配と怨念封じの為に毘沙門天を祀り堂を建てた、という意図ですから、これも致し方ないことでしょう。
お堂では朝の勤行が成されていますので中に入らずに、壁岩仏の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「さてこれより、この身を借りて伝え行くは、
来る時に、この地へと遠きなる光を送り行く。
遥かなるよりなり。
さんさら するらん ふむん たらりろ つるつん たらたんたり おんらる らりよられや?
響きを皆々発して頂き、その響きに合わせて送り行く。
この光に慣れて、それぞれの身が進みてご用意なさるを、ひたすらお待ち申すなり。
これよりは都度お知らせ申す。ありがとう。」8:45