今回も「いっぷくからありがとう」さんの2021年01月11日の記事を紹介します。
すごい父に拾われた
皆さんは、鎌田實さんをご存知ですか?
東京医科歯科大学医学部卒業後、諏訪中央病院へ赴任し、30代で院長となり、潰れかけた病院を再生させた方です。「地域包括ケア」の先駆けを作り、長野県を長寿で医療費の安い地域へと導いた方です。
また特筆すべきことは、鎌田實さんは、主に心の在り方を中心に書籍やメディアに出演され、多くの人々に光をもたらしました。
今日は鎌田實さん自身が語った生い立ちをご紹介します。
<引用開始> 引用元
ぼくは拾われた子どもです。終戦5年目の1950年、生みの親が捨てた1歳のぼくを、亡き父、岩次郎がもらってくれた。37歳、諏訪中央病院の副院長だった時に、偶然、その事実を知りました。好きになるのに40年もかかったけれど、岩次郎という男の存在がぼくの核をなしています。
岩次郎は青森県花巻市(現・黒岩市)で貧農の末っ子として生まれ、小学校しか出ていない。18歳で上京し、公営バスなどの運転手で生計を立てます。バスの車掌だった母のふみと結婚しますが、居を構えた東京都杉並区の家は6畳二間と3畳、お勝手。はじめはお風呂もなかった。
ぼくが小学校に上がる前、母が僧坊弁狭窄症(そうぼうべんきょうさくしょう)という 心臓病を患います。入退院を繰り返した先は、日本で唯一の心臓病専門病院だった、東京女子医大付属日本心臓血圧研究所(心研)でした。
《心研は55年に開設。51年に日本初の心臓手術を行った榊原仟(しげる)教授が所長を務めた。日本の心臓外科は黎明期だが、最先端の治療を求めて全国から患者が殺到し、榊原教授が大半を執刀した》
50年代、往診こそ頼めても、貧しい人が高度な医療を受けるのは大変でした。国民皆保険になるのがぼくが中学生になる61年だし、もちろん高額療養制度もない。岩次郎は、朝8時から夜まで、長い日は1日15時間も働きます。切りつめても切りつめてもお金は母の治療費に消える。 疲れ切って帰り、夕食をつくれない夜は、ぼくを連れて近くの定食屋へ。
ぼくはいつも、おかずに一番安い野菜炒めを選びました。上京した同郷の苦学生を狭い家に置いてあげたりもした。
でも、ぼくが運動会の徒競走や試験で一番になっても、岩次郎は決して褒めてくれない。全力を出し切っていないって見られた。だからこそ、旅券申請のために取り寄せた戸籍で、父親の欄に別の名前を見た時、衝撃だったんです。血のつながっていない岩次郎が、ぼくを育ててくれていた。
心臓病の母を抱えた あの貧しい暮らしの中で、「拾ってやった」とか、恩着せがましい言葉を一度も口にせず。泣き言も言わず、弱音も吐かず。岩次郎は苦難から逃げなかった。
苦しい時ほど、その苦しみを横に置いて、誰かのために生きようとした。がんばって、がんばって、全力投球で、最後は個人タクシーの運転手を70歳くらいまで務めました。
すごい人に拾われたって思います。12年前に亡くなった岩次郎は今も、ぼくの内側でどんどん大きくなっていくんです。
<引用終了>
ここにも、神様のなさり方が顕著に出ています。後に、多くの人の心を救うことになる鎌田實さんさんの人間性は、貧困で苦しくとも、実直で、思いやりがあり、何事も投げ出さず、不平不満、愚痴を言うこともなく、まじめにコツコツと、家族のためだけに生きてきた頑固な父の姿から培われました。
神さまは、そのすべてを見越し、父を用意し、鎌田さんを縁で結び、血のつながりはなくとも、貧困、病気の家族という試練を与え、心を強くし、弱き者の心を感じる心をはぐくみ、
鎌田さんを世に出しました。
そして、その後、多くの人の心に明かりを灯すことをさせたのです。今、自分の置かれた環境それにも深い深い神様の配慮が込められています。
置かれた場所、その場所で、その環境の中で綺麗な花を咲かせて御覧なさいと。