今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月11日の「徳を積む意味」と2024年02月15日の「最強の言葉」の2つの記事を紹介します。
「徳を積む意味」
このブログでも何度も角度を変えて、徳を積むこと、それも、陰徳を積むこと。
そして宇宙の法則である、与えたものが、受け取るもの、というお話をしていますが、
今日は、浜松医科大学名誉教授の高田明和(あきかず)さんのお話をご紹介します。
<引用開始> 引用元
何か他人に尽くし、それがその人に感謝されなくても、
私たちの業に貯金されますから、そこから褒美が返ってくるのです。
運がよくなり、評判がよくなるのです。
これは、他人に嫌なことをした場合も同じです。
私も他人の悪口をいったことがあります。
不思議なことにそれが回り回って、自分の耳に返ってくるのです。
まるで一周回ったかのようです。
そしてその悪口が本人に聞こえたかのような結果になりました。
その人と私の関係が悪くなったのです。
それが「悪因悪果(あくいんあっか)」です。
このように、人の行い、人の言葉というのは、因縁の渦の中で回り、
最終的には全て自分に還ってくるのです。
偶然助かったとか、
あれが起こったら大変なことになったのに起こらなかった、
などと胸をなで下ろした経験はないでしょうか。
一方、その大変なことは別の人には起こっているのです。
だから、自分にそのことが起こらなかったと安堵するのです。
じつはこれは、私たちがなした徳の結果がこのように表れたのだと思っています。
何か他人に尽くした時に、すぐにお礼をいわれ感謝されるのと、
万一の偶然に、奇跡的に助かるのとどちらがよいでしょうか。
もちろん後者でしょう。
このように考えると、自分が他人にしたことが、
他人にはあまり理解されず、感謝もされないけれども、
徳を積んだおかげで、自分や家族に不運が起きない方が
はるかに恵まれていると考えないわけにはいきません。
ですから、「恩を仇で返された」などと怒ることはないのです。
恩を与えたその人などはたいしたことはないのです。
もっと重要なことで、幸運に恵まれた方が どのくらいよいかわかりません。
何かをする時に相手に感謝を求めるよりも、それが自分の幸せになると考えるべきです。
<引用終了>
宇宙の法則
投げかけたものが返ってくる
投げかけないものは返ってこない。
愛すれば 愛される。
愛さなければ 愛されない。
嫌えば 嫌われる。
嫌わなければ 嫌われない。
裁くものは裁かれる
裁かないものは 裁かれない。
意地悪をすれば、意地悪をされ
蔑(さげす)めば、蔑まされ
罵(ののし)れば、ののしられ
強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される
許すものは 許される。
許さないものは 許されない。
施せば 施される
優しくすれば 優しくされる
笑顔を向ければ、笑顔が帰る
助ければ、助けられる
励ませば、励まされる
勇気を与えれば、勇気づけられる
感謝すれば、感謝される
誰かに何かして欲しいことはありますか?
・優しい言葉をかけて欲しいですか?
それなら誰かに優しい言葉をかけてください
・笑顔を見せて欲しいですか?
それなら誰かに笑顔を見せてください
イエスの語った言葉で一番大切な言葉。。
「イエスの黄金律」と言うものがあります。
そこにはこう書かれています。
「自分がしてもらいたいことを、
他の人にも、同じようにして あげなさい。」
これは何も独りよがりの善意の押しつけをしなさいと、言っているのではありません。
自分の目の前にいる人が、今何を必要としているか、想像力を働かせて察しなさい。
そして、その通りにしてあげなさい。
そう、仰っているのです。
この中で、何か、ご自分でも、できそうなことがありましたか?
ただ、自分がして欲しいことを、
周りの人にして差し上げるだけなんです。
自分がして差し上げる相手は、身近に居る、誰でも構いません。
巡り巡って必ず自分に帰ってくるようになっていますから。
投げかけたものが返ってくる、投げかけないものは返ってこない。
「最強の言葉」
皆さん、この言葉ご存知ですか?
「断じて行えば、鬼神も之を避く」
断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。
と言うことだそうです。
私は、これを「ありがとう」の言葉を常に口にして、
感謝の心で生きている人のことだと思います。
「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、
どんな人が、
・蔑み(さげすみ)、
・陥れ(おとしいれ)
・危害を加え
・足を引っ張る
ことができるでしょうか?
それでは、歴史研究家の 河合敦さんのエッセイをご紹介します。
<引用開始> 引用元
赴任先は知的障がいを持った生徒が通う養護学校で、僕が初めて受け持った子供たちとの出来事です。
その日、子供たち10人、担当の先生3人で、小田原に遠足に行きました。
お昼になり、昼食を食べるお店を探したのですが、どこも13人の団体は入れず、
ようやくあるお店お蕎麦屋さんに入ることができました。
2階の座敷に通され、女性の店員さんが注文を取りに来ました。
ところがメニューに写真がありません。
子供達は言葉が喋れなかったり、字が読めなかったりするので、僕が一つひとつ説明していたら、その店員さんは忙しかったんでしょうね、プイと下へ降りちゃったんです。
僕はその態度にすごく腹が立ちました。
ようやく注文が決まり、別の店員さんに頼みました。
待っている間、僕たちは畳の座敷にそのまま座らされていたので、
座布団はないかなと押し入れを開けたら、ありました。
僕はそれを出して配り始めました。
そしたら最初の店員さんが血相を変えてやってきて、「これは使わないでください!」と私からひったくり、
別の場所から持ってきた座布団を投げつけるような乱暴さで生徒たちに配り始めたのです。
さすがに僕はブチ切れて、一言、言ってやろうと口を開きかけたその時、
座布団を受け取った勇太(仮名)が「おばさん、ありがとう」と言ったんです。
そしたらほかの子供たちもみんな「ありがとう」「ありがとう」と言い始め、
言葉が出ない子は手を合わせて頭を下げたのです。
その光景を見た時、僕はもうグッときてしまいました。
すると、その店員さんは人が変わったように急に優しくなったんです。
それまで忙しくて心に余裕がなかったんでしょうね。
13年後、勇太が亡くなったことを知らせるお母さんからの手紙が来ました。
その中に、葬式に参列された方のコラムが同封されていました。
その方は、13年前に僕が書いたエッセーのことに触れた後、こう綴っていました。
『・・・勇太が発した「ありがとう」の一言で、食堂の店員も河合先生も、
その場にいた皆が、とても和やかな気分になったという。感動した。
そうか、勇太はそんなこともしたのか、と。
そこに知的障がい者たちの素晴らしさを見た。
白木の棺の横に大書きしてあった「ありがとう」の意味もよくわかった。
息を引き取る直前、何か言いたそうだったので、
お母さんが「ありがとう、なの?」と聞いたら、勇太は頷いたそうだ。
勇太は心から「ありがとう」と言える若者だったのだ」
それを読んで僕は涙が止まりませんでした。
僕の書いたエッセーがずっと彼の家族の支えになっていたんです。
彼は30年という短い生涯を終えたわけですが、
「ありがとう」という言葉は、これからも彼の家族を支えていくと思います。
<引用終了>
どんなに敵意むき出しの人であろうと、自分に向けた「ありがとう」という言葉に
心を動かされない人はありません。
神さまは、人間の本能の中に
・ありがとうと言われると(感謝されると)、嬉しい
という仕組みを入れてくださっているからです。
感謝の心、「ありがとう」の言葉は、
自分の心も安定させ、不安を払しょくしてくれます。
安心感をもたらしてくれます。
何故なら、その言霊の生み出す、波動空間に自分自身が包まれ、
無意識の内に
神さまと
・仲良くなった
・融合した(一体化した)
・神さまに愛されている
・宇宙が味方してくれている
そう気付くからです。
皆様が、内なる神さまに気づき、お幸せになりますように。