今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年01月30日「希林さんのできた訳」と2024年02月03日「愛語」の2つの記事を紹介します。
「希林さんのできた訳」
樹木希林さんは、若いころから内田裕也さんと共に法華経の「希心会」と言う会に属していたそうです。
大変良心的な会で、一世帯の月会費が、たったの100円。
希林さんは、旧芸名は悠木千帆でしたが、その名前をオークションに出品し、新しい名前、希林の名は希心会の一字を受けたのだそうです。
日本では、敗戦後、占領軍の指導のもと、日本人の精神的支柱を破壊するために、宗教的なものは、全て否定され、忌み嫌うものとされて来ましたが、そんなことは決してなく、もし悪いところがあるとすれば、それは
・お金儲け、
・全面依存させ、精神の自立をさせない(一生の金づるにするため)
・他の考えを認めず、攻撃する
などに陥れば、非難されてしかるべきですが、古くから日本に根付いていた信仰の心は
決して悪いものではないと思います。
世界の常識では、誰でも、信仰する教え・考えを持ち、多くの日本人のように「私は無宗教です」などと言えば、人格を疑われるほどです、
さて、希林さんですが、若いころからブッダの教え「法華経」を信じていたからだけでなく、
その素晴らしい考え方、生きる覚悟は、どうも、ガンを患ってから身に付いたようです。
次にインタビューの記事をご紹介します。
10代、20代の不登校・ひきこもり当事者とともに、樹木さんに3時間のインタビューをした『不登校新聞』の編集長・石井志昂さんが追悼の思いを込めてつづっています。
<引用開始> 引用元
石井:私が取材したいと思ったのは、映画『神宮希林』のなかで、夫・内田裕也さんについて 「ああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる」と話していたからなんです。
これは不登校にも通じる話だな、と。
樹木:あの話はお釈迦さんがそう言ってたんです。
お釈迦さんの弟子でダイバダッタという人がいます。
でも、この人がお釈迦さんの邪魔ばっかりする、というか、お釈迦さんの命さえ狙ったりする。
お釈迦さんもこれにはそうとう悩んだらしいですが、ある日、ブッダは「ダイバダッタは
自分が悟りを得るために難を与えてくれる存在なんだ」と悟るんです。
私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。
ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。
人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。
今日、みなさんから話を聞きたいと思っていただけたのは、私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからだと思います。
もちろん私自身がダイバダッタだったときもあります。
ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく、受けとめ方を変える。
自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。
受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。
石井:そう思うきっかけはなにかあったのでしょうか?
樹木:やっぱりがんになったのは大きかった気がします。
ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。
腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。
でもね、それでいいの。
こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。
若くても不自由なことはたくさんあると思います。
(=自分の自由にならないことは沢山ある)
それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。
でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。
それが大事なんじゃないかと思うんです。
<引用終了>
全身、ガンに侵され、そうなったら誰でも、自分のいのちと向き合うしかありません。
そんなことでもない限り、私たちは自分は何のために生まれて来たのか?
考えないかもしれません。
希林さんは、内田裕也さんという、ダイバダッタに出会い苦労し、ガンというダイバダッタに出会い、人生を深く味わい、そうして、人生の奥深さ、醍醐味を身につけたのかもしれませんね。
私たちの人生で出会う、一見不幸な出来事
・事故
・病気
・別れ
・貧困
・死
それさえも、私たちの人生を輝かせてくれる舞台装置に過ぎません。
悩み苦しみ、呪いの言葉で、 相対するのではなく、感謝の心で、望みたいものですね。
そうしてこそ、このような不幸に見える出来事も、私たちの魂にとって意味のある出来事に変化します。
ちなみに、提婆達多(ダイバダッタ)は生きながらにして地獄に堕ちた悪人の代表とされていましたが、経典の提婆達多品において、提婆達多こそ実はブッダの前世において師であったと明かされ、未来において、その成仏(仏・悟りを開くこと)を保証されています。
樹木希林さんにとっての、内田裕也さん。
皆さんにも、そんな
・自分の思い通りにならない
・目に障る
・言うことを聞かない
・自分の理想とはかけ離れた言動をする
・自分の思う「普通」や「当たり前」とは違う
のようなご家族はいらっしゃいますか?
それとも、同僚や友人に、そのような方はいらっしゃいますか?
そのような人こそ、ブッダの弟子だったダイバダッタのような人かもしれません。
・とっても嫌な人、
・顔も見たくない人
・会えば文句を言いたくなる人
・憂鬱になる人
・苦しみの種
かもしれません。
ですが、その人が居てくれるからこそ、悩み苦しみ、悲しみを味わうことになりますが、
ご自分の魂を揺さぶり、深く熟考を促し魂の深みを味あわせてくださっているのでは、ありませんか?
その人が存在するからこそ、
・生まれて来た目的
・生きる目的
・神様のこと
を深く考えるようになったのではありませんか?
まさにダイバダッタです。
ブッダは、この時悟ります。
この人は実は有難い存在だったのだと。
そう思えた時、魂の闇は明け、光が差し込み、悩みは悩みでなくなり、苦しみも、苦しみではなくなり、感謝の中に幸福な人生を歩めるのではないでしょうか。
この時、確実に、神々の大きな恩寵が動き出すことでしょう。
「愛語」
見える世界、見えない世界を含め、その世界のありさまを決めるのは、私たちの心です。
今日は、その心を美しくするために、
簡単にできる、「愛語」について書きたいと思います。
きっと、この愛語の精神でいる限り、宇宙からのサポートがふんだんに降り注ぎ、
私たちの所属する銀河が、今通過している大きな潮流に乗り、
ご自分も、そしてご家族も幸せになれることでしょう。
<転載開始> 転載元 小林正観さんの記事より
「愛語(あいご)」という言葉は、
良寛和尚が好んで使っていたと言われています。
良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。
「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。
だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。
それならいくらでもあげることができるから」
良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を
・あたたかい言葉
・やさしい言葉
・思いやりに満ちた言葉
にしたいと思っていたようです。
日本の神道には
「言霊(ことだま)」という概念があります。
「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、
私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、
相手に大きな影響を与える力(神)が
宿っていることを、忘れていたのかもしれません。
京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。
木像の口から細い板が出ていて、
その上に、小さな仏様が何人も立っています。
説明によると、
「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、
すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。
私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、
「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、
一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、
・あたたかいもの
・勇気づけるもの
・安らげるもの
・幸せを感じさせるもの
・喜びを与えるもの
にできたらと思います。
そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。
「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか…
芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。
「言葉には『神』が宿っている」という考えは、
「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。
だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。
人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。
<転載終了>
自分の口から出る言葉に少し気をつけて、良寛さんのように、
・あたたかい言葉
・やさしい言葉
・思いやりに満ちた言葉
を口にしたいものですね。
そうすると、その発せられた言葉は、神さまの波動を帯びていますから、
必ず相手のハートの中の神さまも共鳴します。
その結果、お互いの間に目に見えない良き共鳴現象が起き、美しいハーモニーを奏で、幸せになることができます。
私たちは、自分の心の中に在るものを、自分を取り巻く外の世界に見ます。
また、自分の心の中のものが、口から出ます。
ですから、自分の心に取り込むもの(見たり、聞いたりするもの)も
・美しい心の表現
・信じる心の表現
・優しい心の表現
・思いやり、助けいあいの心の表現
を見て、そして聞きたいものですね。
そうすれば、同じもので、私たちの心は満たされます。
逆に、興味本位で(面白いからと)
・人をけなすもの、おとしいれるもの
・人を疑う、疑心暗鬼のもの
・人を差別するもの、排除するもの
・怒りと憎しみに満ちたもの
からは遠ざかり、心に入れないようにしたいものです。
それらのことを、もし面白いと感じたのなら、静かに心を振り返ってみてください。
そこに邪悪なものは潜んでいないでしょうか?
そうすれば私たちの心のバケツは美しいもので満たされることでしょう。
美しいもので満たされた心は、それを表現しようとし、周りを幸せにすることでしょう。
そしてご自分自身も、世の中に美しい心の世界しか、見なくなることでしょう。
空海の言った「生きながら天国に住む」とはこのことです。
幸せは、神様がくれるものでも、何処かの誰かがくれるものでもありません。
自分の心が決めるものです。