2024年2月29日木曜日

3352「最後のプレゼント」2024.2.29

  今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月17日「最後のプレゼント」と2024年02月18日「小さな思いやり」の2つの記事を紹介します。


「最後のプレゼント」

私たち親は自分に子供が生まれた時、この子がどうか幸せに生きられますように、

そう願いました。 

そして自分が先に天に帰るときも、きっと、残されたこの子が、幸せに生きられますように、

そう願うのだと思います。 

子供が悲しみの涙を流していれば、自分の命に代えても守りたいと願うかもしれません。 

誰でも、何時かは天に帰るわけですが、今日は、沢山の読者の方々のためにも、子供にとって、親の死の持つ意味を、書いてみたいと思います。 

どうか、残されたご家族が、最後の親の愛を知り明るく健やかに暮らしていけますように。 

そうして暮らしていくことこそ、周りの人々と仲良く笑顔で暮らしていくことこそ、私たちを愛し、慈しんでくれた、親たちの一番の願いだからです。 

皆さんは、親が子供たちに最後に残してくださる、最大のプレゼントは何だと思われますか? 

家や車や、莫大な財産ではありません。 

それは、死です。 

「人は必ず死ぬ」このことは、誰でも知っている、当たり前のことです。

しかしそれは、現実に経験してみないうちは、にわか知識にすぎません。

親が死ぬときに、人は初めて本当に「死ぬのはどういうことか」 

切実な現実を痛烈に知って、私たちは「死」を学ぶことができます。

・人生は本当に有限なものだった。

・自分もいつかは死んでいく。

・この限られた人生を、何に使えば良いのか?

・何をしたら死に臨んでも満足がいくのか? 

鉄拳「振り子」 父と母の人生の物語です。 是非ご覧ください!!

目の前の親の死を、経験させていただくことで、様々な思いが、頭を巡り、 

深く、自分自身のこととして考えることができます。


また親の死ではなくとも、動物が好きなご家庭では・・・(参考元)

・子供が産まれたら、一匹の犬を飼おう。

・子供は犬と共に大きくなり、いろんな思い出を作るだろう。

・家族の一員であるペットは、子供たちに大切なことを沢山教えてくれる。

・彼らが少年少女になった時、犬は歳を重ね、やがてこの世を去っていく。

・その死をもって、子供たちに最後の教えを伝えるだろう。

・命を終えてゆくことで、共に生きて過ごした日々がかけがえのないものになる。

・終わりを知ることで、輝き出す命。

・ペットの死は、大切なペットからの、最後にして最大の、子供たちへのプレゼントである。

生前、死後を通じ、何百万、何千万人もの人々の魂を救った親鸞聖人は

4歳の時にお父さんを亡くされ、8歳の時にお母さんを亡くされています。

聖人は「波瀾万丈」という言葉がふさわしい一生を送られた方ですが、

まさに人生のスタートから激しい波が、聖人に襲いかかりました。

松若丸(のちの親鸞聖人)は、ついさっきまで温かい手で自分の頬をなで、

優しい目で語りかけてくれていたお母さんが、

たちまち目が閉じ、顔から血の気が引き、手は冷たくなり、帰らぬ人となっていった現実に

なんてあっけなく「死」はやってくるんだろう、と世の無常に愕然とされるのでした。

その時、松若丸は8歳ですから

・お父さん、どこ行ったんだろう。

・お母さん、どこへ行ったんだろう。

・お父さんに会いたい。

・お母さんに会いたい

とどんなに思われたでしょうか。

松若丸がさらに考え込まれたのは、自身の行く末でした。

お父さんが死に、お母さんが死んだ。

次に死ぬのは自分の番だ。

いったい自分は死んだらどこへ行くんだろう。

真剣に我が身の死んだ先を考え込まれ、真っ暗な未来に驚かれるのでした。

 

世の中には

・父親が死んでも、

・母親が死んでも、

・夫が死んで見せても、

・妻が死んで見せても、

・子供が先に死んで見せても、

すべて他人事と受け流し、自分はまだまだ死なないと頑として思い込み、

自分自身の確実な行く末に、目を向け、深く考える人は少ないものです。

ですが、松若丸は違いました。

両親の死を縁とし、我が身の生死の一大事に驚き、なんとしてもこの大問題を解決したいと、比叡山の慈鎮和尚の門を叩かれたのです。

この時、のちの親鸞聖人は、わずか 9歳でした。

私たちは、このように死から学ぶことが、大変多くあります。

時には、その後の人生を大きく転換させてしまう力さえあります。

親が子供たちに最後に残してくださる贈り物。

決して無駄にはできないものですね。 

皆さんには、お子様はいらっしゃいますか?

いない方は、ご両親はご健在ですか?

私たち親は自分に子供が生まれた時、この子がどうか幸せに生きられますように、

そう願いました。

そしてきっと、自分が天に帰るときも、

残されたこの子がどうか、幸せに生きられますように、そう願うのだと思います。

親と子、深い愛の絆で結ばれています。

私たちは、生まれる前に、お互いの魂同士で約束してきました。 

「家族になろうね」って。

人は必ず死を迎えます。

親の勝手な希望、価値観、プライド、世間体で、 

子供たちが、可憐な「スミレの花」を咲かせようと、この世に生まれて来たのに、

華やかな「バラの花」になれと、無理強いはしていませんか? 

私たちが嫌いな、あの人も、深く深く愛してくださった親御さんがいらっしゃいます。 

愛する子供もいらっしゃるかもしれません。 

世界中の人たちが、優しさと愛で包まれますように・・ 

悲しみの涙を流す人が一人でも減りますように。

 

 

「小さな思いやり」


神様が、神さま自身を知るために、神様に似せて作った人間の本能には

「人から喜ばれると嬉しい」というものがあるそうです。

この本能は、人間に与えられた本能であると同時に神さまの性質でもあります。 

 

ですので、ちょっとしたことに、笑顔で喜び、感謝する人は、相当、得な性格です。 

誰からも、愛され、みんなが味方になって、助けてあげたくなってしまいます。 

きっと神様も同じ気持ちです。

宇宙の仕組みや、神さまの行動の原則などが分かってくると、

日々の何気ない生活でさえ、楽しくなってきます。 

ありとあらゆるところに、神さまの働きを感じることができるからです。 

いつも傍に居ることが分かるからです。 

また、偶然が起きた場合も、

「どうせ偶然でしょ」とすまし顔で、冷たくあしらわず、

「まぁ凄い、面白いね」と素直に子供のように喜んでいれば、

神さまは、なおさら沢山の偶然を見せてくださいます。

神さまの声は、誰かの口を通してくることもよくあります。

また外応と言って 

・小川のせせらぎの音や、

・子供たちの笑い声、

・そよ風なども、 

神さまが私たちにプレゼントしてくださっているものです。  

そのように繊細な心で、神さまの働きを感じられるようになると、

もう全てのもの、事に感謝しかありません。 

神さまの働きに気付き、人が喜び、感謝すればするほど、

神さまは私たちの身近で、良きことを起こしてくださいます。 

ひすいこうたろうさんの記事 (喜び上手な人には運がやってくる)に、

こんなことが書いてありました。意訳します。 

<引用開始>

  

もし神様がいるとしたら、小さな幸せや、ささいなことでも、喜んでくれる人のために、働こうか、もっと喜ぶことをしてやろうかと思うのではないでしょうか?

それとは逆に全てを偶然と片付け、神様が、ちっぽけな自分(や、レベルの低いあなた)のために、特別なことをしてくださるはずがないではないか。 

そのように、偏った自己卑下(自分を低く低く見ること)や、他人卑下(他人を・・・)をして神様が、小さな幸せを見せてくださっても、ブスッとしてる人。 

頑な(かたくな)に、敢えて心を動かそうとしない人、どちらに神様は微笑むでしょうか? 

<引用終了> 

  

耳をすませて見て下さい、注意深く、周りを見渡してみてください。

あちこちに、神様からの贈り物があることに気づくでしょう。

また、いつもと違う 何かに気づいたなら、悪い予兆などとは考えず、 

是非それを  良き予兆と解釈して、よろこび、神様に感謝してみてください。

きっと ますます、恩寵に気付きやすくなると同時に

幸せが、雪だるまのように、どんどんと膨らんでくることでしょう。

感謝の種が増えてくることでしょう。

一見不幸に見える 

・死別

・病気

・事故

・貧困

などでさえ、私たちの魂を磨き、

光り輝かせる、研ぎ石の役割として神様が与えてくださったものです。 

私たちが、その出来事を 

・どのように受け取るか?

・どのような意味を与えるか? 

その違いだけで、天と地ほどの違いが出てきます。 

・小さな親切

・小さな思いやり

・小さな優しさ 

を感知できる感受性を持ち、 

喜び、感謝できる心を持ちたいものですね。 

私たちの周りには、気づかないだけで、それらが沢山 散らばっています。