立石神社の本殿の後ろにご神体の巨石が鎮座しています。ご神体の巨石は高さ17メートル、周囲11メートルと言います。中山さんには車で立石神社向かって進んで近づいて行く時に、とてつもない巨大なそそり立つ岩山が目の前に現れたそうです。それは相当前の時代の様相の様です。このあたりは陸地が出来る時の造山活動が盛んな所だったのでしょう。
冬で森の木々の葉は落ちて、神社裏の山の斜面が良く見えます。そこにはそこかしこに巨石があります。真北を差して三角錐のように巨石が重なり伸びています。以前、夏に訪れた時に木々が生い茂り、裏手の巨石には気が付かずにいました。
ここで中山さんがお尋ねになったところ、次のお言葉がありました。
「そこに降り来た光は(柏手)
天下だる響きに乗り来た光なり。(柏手)
大いなると見たり。
この地のここは、大きなる岩に囲まれたる山、この地の大きなる岩の壁、
永き時を経て崩れしもの。
これよりもこの地に在るを良しとしたり。(柏手)
あい分かりたり。北よりの力受け、響きと共にあられませ。ありがとう。(柏手)
うおーん」16:12
ここは中山さんのご覧になった様に大きな岩の壁があり、長い年月で巨大な岩山が崩れて来ているのでしょう。
夕暮れが迫ってきましたのでもう1か所のところはキャンセルしてここで巡りは終了にしました。身体も冷えたので温泉に入ってほっこり、温まって仙台に帰る事に成りました。
そう決めて車を走り出したら中山さんに次の言葉がありました。
「外三郡誌に在る岩をご存知ですか?」
外三郡誌とは「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」の事です。これは「古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされていた、いわゆる和田家文書を代表する文献。ただし、学会では偽作説が確実視されている。」と言われるものです。その内容はウイキぺディアによると以下です。
「古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていた、という内容である。また、アラハバキを「荒覇吐」としたうえで遮光器土偶の絵を載せ、アラハバキのビジュアルイメージは遮光器土偶である、という印象を広めたのも、本書が「震源」である。
同書によれば、十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地(津軽・北海道・樺太など)に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、満洲や中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアとの貿易で栄え、欧州人向けのカトリック教会があり、中国人・インド人・アラビア人・欧州人などが多数の異人館を営んでいたとされる。しかし、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)または1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。」
いずれにしてもそこに登場する岩を知っているかとのご下問です。立石の巨石を巡ったことが引き金になっているのでしょうか。このことは4月に予定されている「下北・津軽の巡り」の訪問先に関するものです。
直ぐに思い浮かぶ岩は五所川原市にある「石塔山大山祇神社」(せきとうさんおおやまずみ)です。しかしここには中山さんは既に訪れています。いろいろ話しているうちに津軽半島の十三湖近くの靄山(もややま)ではないかと言う事に成りました。
その直後の次のお言葉がありました。
「たよりた、たよりた、皆々へ。
集まり来たれ、便り来た。
拙き皆々集まりて、響かせ聞かれよ、この便り。
はるけき道へと参り行く。大きな便りぞ。
皆々へ写すは元元、元なる便りだ。
便り来た。この北に在る皆々へ嬉しき便り参り来た。
集いて響けこの時に。」16:38
この言葉は我々が訪れる地はその岩は靄山山頂に間違いなく、その靄山で皆々が集い、待っていると言う事の様です。なんというお示し、仕組みでしょうか。
今回4月から8月に向けて東北の北、青森から主に日本海側、秋田県、山形県の山や巨石などのポイントを巡り、そこにネットワークを作り上げることが計画されています。
漠然とした中に計画するにあたり、是までも以下の様なお言葉がありました。
先ず2015年1月3日に長野での諏訪での儀式に参加してその時に、4月の陸奥の巡りについて打ち合わせ、相談させて頂きました。その時のお言葉です。
「是よりの大きなる動きは、この国の成り立ちに係る大きなる地なり。
その事知らせる場に立ちて、響かせれば、元の元へと参る道開かれ行くなり。
北の地にあるは古き岩、古き時にこの地固まりた始めを辿り、
その地にある大きなる教え知りて下されたし。
待ち望みて久しきなるなり。」
「許されよ、大きな過ち。更なる進みは、今この時なり。
はっきり申す。
移す光にて動かぬ事。物、人、地全て。」
「離れております多くの方々、皆々起し、是よりの光を受けて、回されませ。
外れてあるは
鼻の先。
崖の上。
陽だまりの丘。
下りたる先。
波激しき崖。」
更に2015年1月19日にも4月からの陸奥の巡りについて以下のお言葉がありました。この日は中山さんが翌日20日に、福島の南相馬のあわ歌会に向かう為に、前日夜に仙台に宿泊されることに成り、お会いしました。そこでも陸奥の巡りの事も相談させて頂いていました。
「だんだん だりこ だんだらり。
船こぎ渡りたその昔、ふるふる ふらりろ 篩いはこの地生みて早めて、
その事の大きなるを知りたれば移して参る。
行く道を定めたその地に降り行きて、大きなる輝きの地と致すなり。
全ては思いを定めて下され。必ず成して参ろうぞ。光の大力付きて行く。」
どうやら行く道を定めることで、その地に降り来て大きな輝きの地に成りそうです。
更に次のお言葉もありました。
「お頼み申します。
来る五月の三日より、五日の間に起こる事、この地が新たに成り行く始めを定め行く。
この時、大事は彼の石ぞ。
懇ろに祭り上げ、十分なる光と成り行かれますように、構えてご用意願います。」
このお言葉は5月3日から5日間、5月7日まで大和農場の白石を大事に、懇ろに祭り上げる事が求められています。これを受けて私達も自ずとその期間は大和で過ごすことに成りそうです。中山さんも日程を調整して下さり、5月6日には大和にお越し頂けることに成りました。
20日も南相馬からの帰りに仙台に立ち寄られましたのでお会いしていろいろお話しさせて頂きました。