22年ほど歌ってきて、歌い方はそのときどきで変わってきています。最初はただ声を発しているだけでしたが、やがて五七調のリズムをつける歌い方になり、そして音程を上げていく歌い方になりました。いまは一音一音のばし、ボーンと響かせるような、原点に返った歌い方をしています。
以前は、私ひとりで歌うようにというメッセージを受けていましたが、2009年4月15日、「これよりこのこといっさいをなしとなして、新しく道ひらく」と告げられ、だれもが歌っていいことになりました。私の歌い方はサンプルであり、みなさんにはどんな歌い方でもよく、ご自分の響きを出していただきたいです。
「言霊とどう違いますか」というご質問を受けることがあります。言霊とは、言葉にそれを発する人の意が乗ることではないかと思います。同じ音でも、驚いて「あ」というときと、下心があって「あ」というときと、ぜんぜん違う音になります。
いっぽう、ただひたすら歌うときは、その音に本人の意は乗っていないと思います。では、何が乗っているのでしょうか。何かが乗っているのか、ほんとうに何も乗っていないのか、わかりません。ただ、「あわうたを歌うときは何も思わず、ひたすら音を出すようにしてください」と、私はみなさんに申し上げています。
―― 「あわうた」と出合って5か月ほど経った1994年12月、とつぜん手が動きだして絵を描き、「こういう家に入れ」というメッセージを受けとりました。
そして翌年1月なかば、「この地が動く」と告げられました。
メッセージにぴったりの家を見つけて引っ越したのが、1月17日、「あわうた」を歌い、朝食のときテレビをつけたら、阪神大震災のニュースが映しだされていました。その日は、「見ておきなさい。これは人災だ」というメッセージを受けて、なにもわからないまま、ずっとテレビを見ていました。本来は、あれほど人が亡くなったり火事になったりするものではなく、ただ「戸が開く」という意味だったそうです。
「あわうた」を歌い始めて10数年間は、メッセージに導かれるままに、ひとりで全国を回っていました。最初は、東京23区を一つの区につき二か所ずつ、一か月以内に歌って回るよういわれました。それから、熊野の雨降山など、日本神道でたいせつなところなども廻ってきました。
歌いに行った先では、「光が来ている」という感覚くらいで、何か特別なことが起こるわけではありませんでした。ただきれいな夕日を見ながら帰るようなことが続くうち、たいせつなのは「何もない」ことだ、と気づきました。私が歌うときは、「何もない」ところに、みなさんをお連れしているのかな、と思います。
見えたり聞こえたりする方は、そこにつかまったきりになることも多いようです。けれど、それは本質的なことではないでしょう。「何もない」という心境になるには、実際に体験しないと難しいかもしれませんが、人間は、ほんとうは「何もない」世界を共有できるのだと思っています。
―― 体をふくむ、すべてのものは振動しています。思いが変わると、体のなかの細胞の振動も変わります。あまりに激しい振動、たとえば怒りや不安の振動が続くと、病気の原因にもなります。「あわうた」を、澄んだ音で平らかに、すーっと歌えるなら、その人の振動はゆるやかでしょう。
振動という意味では、地球じたいも揺れています。私たちの思いが振動として地球に伝わり、地球の揺らぎといっしょになって、その揺らぎが激しくなるほど、暴風や地震がもたらされることになります。
これからの時代、私たちは、自分から出る振動をゆるやかにおさめることが、よりいっそうたいせつになってきます。昔は戦った相手を神社に封じこめ、おまいりすることによって鎮めてきました。けれどいまは、宇宙レベルで振動が激しくなっていますから、私たちはよほど心をひとつにして、振動をゆるやかにしていかなくてはなりません。
「あわうた」は、慣れてくるにつれて、歌いながら他のことを考えてしまったりしがちです。すべて歌って15分ほどですが、自分の心をきちんと保てるか試すには、よい方法だと思います。
「あわうた」は単純ですし、どなたにでもできますが、やればやるほど、もっともっと、というところが出てきます。呼吸法や瞑想に似た効果もありますが、それを目的としているうちは、「ただ歌う」という境地になりません。ただひたすら歌ううちに、心の中が調って、毎日が安心になっていくのです。