宝暦の宗教家、牧庵鞭牛と道路開発
「牧庵鞭牛は宝永7年(1710)に和井内の農家に生まれた。出家し仏門に入った年齢は諸説あるが、延享4年(1747)に37歳で橋野村林宗寺の六世となっている。以後禅宗の僧として住職を努めた鞭牛だったが、宝暦5年(1755)に起こった南部藩の大飢饉の惨状に生活道路の重要性を痛感、林宗寺住職を引退し、隠居の身となり天明2年(1782)に没するまでの三十数年間を道路開発にささげた。
鞭牛の開削した道路は現在の国道106号線である閉伊街道をはじめ、当時の南部領内の重要道路に立ち塞がっていた難所開削で総延長距離は400キロにも及ぶとされる。鞭牛は自ら工事施工にあたり陣頭指揮をとっていたほか、工事に必要な資金や労力の調達も行っていた。また、工事や供養のひと括りとして宝暦12年(1762)山田袴田に六角塔を建立しているが、その間の各工事は完成後に建立された道供養碑の日付から憶測すると、もの凄いスピードで進められており、この時期の鞭牛は1箇所に集中してではなく各地区を移動しながら同時進行で工事していると思われる。また、領内の難所を次々と開削してゆく鞭牛に対して明和4年(1767)南部藩では年間15貫文の扶持を終身保証している。当時は各時代、情勢により変動相場ではあったが1貫文は約、銭4千文であり、4貫文で金1両とされていた。これに鞭牛の扶持を当てはめると毎月約1・25両を得ていたことになる。
このことから鞭牛は道路工事や難所開削を代官所から南部藩へ積極的に働きかけていたと考えられる。また、工事に伴う木材調達や施工に伴う伐採によって産出した木材などの処理や申請などが行われていたはずであり、名僧鞭牛のもうひとつの側面は嘆願書や申請書など各種証文作成に長けた事業家であったという面も考えられる。また、托鉢などの宗教活動による資金集めや、時の豪商、豪農に招かれての先祖供養や筆の披露などもあったろう。」
浮金山十三仏霊場へは雨で足元の悪い中、ジグザグに大きく迂回する女坂の山道を皆さんで15分程登りました。しかし元気なSさんは一人、男坂の急峻な直線の参道を登りましたがきつかったようです。巨石が林立していて、それぞれに名が付けられているようですが定かでありません。多くの奇岩、巨石がありますが全部巡って10分程の様ですが今日は天候が悪いので巡りは無しです。
最初の大きな岩の切れ目にある行場の様な「父の胎内」に中山さん、Oさん、地元のKさん、そしてこの霊場の絵図を拝受したKさんが入ってあわ歌を響かせました。
「度重なりたる苦難越え行き、皆々への思い、大きなり。
伝え行くぞ、これよりも。
皆々一つ、共々、遥かなる道を照らし行く。
ありがたき。」15:01
胎内で響かせ、多くを頂いたKさんは果たして如何だったのでしょうか。下り道は滑ります。慎重に脚を運び無事に下山出来ました。日を改めて再度ゆっくりと訪れたいものです。
この浮金山十三仏霊場を紹介した月刊「みやこわが町」2010年6月380号に記された一部を紹介します。
「生と死にみる修験の概念」 ~新たな力をまとって現世に生まれ変わる~
修験の概念の基本は現在の自分に自ら苦行を課せ、一端仮の死を体験した上で、再度法力を身にまとって生まれ変わるというものだ。仮の死は高い山の断崖の上から身を乗り出したりして、死と隣り合わせの恐怖を擬似体験することだ。
そして再生とは洞窟や巨大な岩の割れ目を産道に見立て、その狭い道を通りぬけることによって新たな誕生とする。十三仏にある行場・母の胎内、父の胎内とはまさに胎内潜りで、新たな再生を意味する。また鍾乳洞などは地下が冥府へつながり、再度地上へ戻ることで死後の世界を疑似体験し再生することを意味する。
ちなみに日本人の宗教概念の中には、一端死んで再生するという概念は多く、結婚式での花嫁の白装束も以前の生活や旧姓の自分が死に、新たに再生する意味が込められている。