2016年11月18日金曜日

761「陸奥三陸3」2016,11,18

―― これまでは、お釈迦さまなど宗教的指導者の教えを実践するなら、問題は起きないはずだ、と考えられてきました。しかし、いまの社会を見ると、その考えは果たして正しかったでしょうか。
 私たちは、すべてをとりしきる存在に「神」という名をつけました。その存在、または「神」は、精妙な振動を私たちに送ってくる。しかし、人間の波動がじゅうぶんに高くないので、人間はそれを受けとめきれない。だから修行して自分を高めよう。……というのが、これまでの考え方です。
 けれど、もしそうだとしたら、受けとめきれない人間に、受けとめられない方法で伝えようとした側にも、過ちがあるといえないでしょうか。
 輪廻の中で、自分が意識できないところまで背負ってこの世に生まれ、わけのわからないまま生きて、さらに上乗せされたカルマをもって、あの世に還る。それを延々と繰り返してきたことについては、たしかに、私たち自身にも責任があります。
 けれど、そもそも仕組みじたいが間違っているのですから、私たちの罪も仕組みの過ちも、ともに帳消しにしなくてはなりません。
 私は「あわうた」を歌いながら、「この仕組みはおかしい。いったん帳消しにしてください」と申し上げつづけました。すると、2009年4月15日に、こんなメッセージを受けとりました。
「かたじきなきことなり 多くの皆々 この地にありて 永きに渡りて 重き荷背負いて進みて来られること まことに ご苦労でした ここに我ら その大きなる元となりておるもの お詫び申すなり」

―― 人間はもともと、まことを持っています。とらわれやこだわりを外してみると、ほんとうの自分に宿るものが見えてきます。私の受けたメッセージには、こうあります。
 「みなみなそれぞれ、ご自分の光をかざして進まれよ。何ごとも頼る必要なしぞ。しっかりこの今見つめて 生き生きと楽しく 嬉しく、参りてくだされ」

 いままでは、神に仕えることで神に助けていただくという、ピラミッド型の社会でした。けれど、おおもとと一つになり、ほんとうの自分に還るなら、自分自身が神といっしょになりますから、神に頼る必要がなくなります。
 自分の「思い」によって、いまここに、さまざまなことが起きている。それらを見せられるたびに、自分の「思い」を確認しながら、区別・差別することなく、ただ「わたしはわたしです」という生き方を貫いていくことが、まことの道へ繋がって進んで行けるのではないかと思います。