私は先頭で林道を進みましたが、何故か後続に問題が発生しました。分岐を何故か右に進んでしまったようで、電話で確認が入り、途中で引き換えして到着出来ました。
暫く待っても最後の1台が来ません。歩いて道を下って行くと、スリップしています。先に到着した2台は4輪駆動車でこの車だけFF車でした。結局、車は諦めて神社まで数百m徒歩です。
私たちが来るのに難儀している間に、神社前では中山さんが舞って居たようです。全員揃ったところで、神社前であわ歌を響かせました。
最初に中山さんが音を発して私たちが続きます。最後に、あ~の音を出して左回り3回です。その時のお言葉です。
「あ~あ~あ~あ!あ~あ
伝え来たりたるなり。この伝え、こんだるえ。
するするするりこ すんだらるらり
ひるつる すんだら ひるらるり
夢に現るこの世界、新たなるなりを、大きなり。
皆々全てが知らぬなり。この身もその身も、晴れ渡る。
大いなる仕組みを、この響きに乗せ来る時に、備えるはこの響き。
この地も一つの大き地ぞ。
この地由来の大きなる飛び来る鳥が渡り来て、遥かなるを導く。
さあさあこれより進みましょう。」16:50
神社脇の渓流も心地よい流れです。この十二神山は珍しい名前です。その由来等は以下のようです。
「十二神山は、宮古市と山田町の境界の重茂半島最高の山で標高731メートル。
十二神山の由来については、古文書に「豊間根の東には薬師十二神立ち賜う。御本尊は唐金にして八寸五分なり」とある。古文書「閉伊豊間根村東山之本記」より山の中央に薬師如来が鎮座し、山の凸凹の一つ一つに、薬師如来を御護りする神々が鎮座する。即ち、十二の神々(十二武神)が鎮座されていることから、この名称がつけられたものと考えられる。」
「この地方は、平安朝初期の延暦、大同年間頃より薬師如来信仰が盛んになったといわれている。それは、エゾ討伐で有名な坂上田村麿将軍の守り本尊は薬師如来であり、将軍は各地に戦勝 祈念のため薬師如来を祭祀ざれたといわれている。
将軍は高丸を神楽岡に、悪路丸を膽沢にて討ち、残賊を閉伊村に断滅して、偉功をたて凱旋するに当たって永く後世への記念として一社を創建したといわれている。小山田薬師神社には大同二年七月銘にて平城聖代ノ臣坂上田村磨造之との棟札が今猶保存されている。
本町豊間根字名田の宝珠院に鎮守薬師堂が、また長内の奥には十二神薬師神社がある。(これは元十二神山頂に鎮座されていたが、進駐軍駐留により現在地に遷座されたのである)」
「重茂半島の南部に連なる十二神山(標高731mm)はその名が示すように薬師如来を守護する十二神将に由来した山であり、山岳修験の行場として古くから女人禁制の山だったという。山に祀られた神社の縁日には、男たちが朝早く起きて、女には一切手を触れさせずに赤飯のむすびやお散供(さんごう)など神様に供えるものを作って、暗いうちに松明かしをつけて草鞋ばきで十二神山に登ってお参りしたという。
そんな縁日のある日、あるイタコが「私は女でも神を拝むイタコだから」といって、人の止めるのも聞き入れず十二神山に登っていった。ところが途中まで行ったところで、十二神の怒りに触れ女は石にされてしまったという。その石は今も残っているとされ、豊間根の麓から登る細い山道にその道を塞ぐような格好で鎮座し、よく見ると女の人が坐っているような形に見えるという。
これと同様の逸話は宮古の黒森山(黒森神社)にもあり、両山とも修験の山で女人禁制だった歴史がある。また、女人を近づけない理由として賭博などが開かれていた可能性も考えられる。
また、十二神山頂上には沼があり、八郎太郎という大きな主が棲んでおりその八郎太郎は空を飛んで秋田県の八郎潟に引っ越していって八郎潟の主になったという伝説もある。現在の十二神山は航空自衛隊レーダー基地があり一般の立ち入りはできない。」
下る頃は陽が翳り始め、鬱蒼とした林道では既に宵闇です。急いで下り国道45線まで戻り、暫し休憩の後の今日の宿、大船渡市三陸町綾里にある廣洋館に向かいます。