3、唯我主義
サタニズムの根幹は自己中心的であり利己主義です。ならば唯我主義も推奨されてしかるべきと思われますよね。しかし、この場合は2の虚栄からの地続きなのです。
己の本質すらまだ認知できていない身でありながら、どうして唯我主義、つまりただ我のみの境地をショートカットして得る事が出来ようか、という意味になります。もっと正確に申しますと唯我主義という考え方ですと我以外には何も存在しないことになってしまいます。
自己中心主義というものも同様で、己を利するということは、己以外は利さない、ということであり、これにもちゃんと自分以外が存在するのです。しかし唯我主義はただ我のみ、ということになりますから、これは実は私以外は存在しないことになってしまいますね。
つまり唯我主義からは自己中心も利己主義も生まれ得ないということなのです。つまり唯我主義という考え方はサタニズムでは有り得ないということになります。つまり、ひとりのみしか見ていない幼稚な考え方であり、そこには一切のひとつが考慮されていないことであります。
(自分より劣った者に自分の意志や感性を押し付けるのは、悪魔主義にとって危険である。他人に自分と同じことを要求するのは間違っている。悪魔主義者は「受けたことを返せ」という言葉を実行しなければならないが、その際、だれもが自分と同じだという安易な幻想に陥らないよう気をつけなければならない。哲学者にとってユートピアは必要であるが、残念ながら(マキャベリにいわせれば幸運かもしれないが)それはまだ遠い話なのだ。)
4、自己欺瞞
己で己を欺くということですね。つまり本音ではなく、建前を己に対して用いるという、神、創造主、宇宙への冒涜となります。
(これは悪魔の九つのステートメントの一つだけれど、ここに挙げる必要のある大罪である。こんな厄介な代物を背負い込んではならない。自己欺瞞が許されるのは、それを自覚して楽しんでいるときだけで、その場合は自己欺瞞とはいわないのだ。)
5、群れに従うこと
圧倒的多数に阿(おもね)ることです。阿るとは相手の機嫌をとって気にいられるようへつらうことです。また、付和雷同であり、そこには利己主義も自己中心主義も当てはまりません。群れに従うということは、個人の存在を末梢することであり、それは己がいなくなっても誰も困らないということです。
それは宇宙であり創造主である自己に対する巨大な背徳であり、己がムラ社会の一員に甘んじることを許容する逃避でもあります。
(これは利益をもたらす限りにおいては個人の欲望を満たすものである。しかし、集団には愚劣が伴い、構成員に対して非個人的な要求をする。集団の気まぐれに振り回されないためには、良い主人を選ぶことが肝要である。)
6、見通しの欠如
これは5の地続きになっています。圧倒的多数に阿てしまう己は自己判断能力を自ら去勢します。その結果、己の生きる道を己自身で判断することを放棄します。つまり、どうやったって先を見通すことなどできなくなるということです。
また、己を構成する身体のこと、歴史のこと、哲学のことなど、あらゆる思想を放棄したのであれば、その視線に映える社会とは、なんと難解で複雑で理解しがたいものであるとなります。
つまり眼前の世界の行く末も歴史も未来もわからないということです。このような状態で物事の行く末を見通すことは不可能です。己の近未来すら大まかに見通せない者が、サタニストなど自称することは決して許されることではないのです。
(これは悪魔主義に多大の苦痛をもたらす。自分が誰で何なのか、自分の存在が何を脅かすのかなどについての展望を失ってはならない。私達は毎日歴史を作っている。歴史的社会的な見通しを持とう。それは小魔術にとっても大魔術にとっても重要なことである。全体をよく見極めて部分を組み立てよう。集団の意見に左右されてぐらついてはならない。彼らとはまったく違った立場にいることを忘れてはならない。)