2018年5月31日木曜日

1321「祈り旅2」2018,5,31

 次に真言宗の口羽和尚の施餓鬼供養です。中心に座してほら貝を吹き鳴らして始まりました。



 施餓鬼供養に付いては以下の様にあります。
「餓鬼とは、生前に悪行を行って亡者の世界に落とされた魂や身寄りがなくこの世をさまよっている魂のことで、飢えに苦しんでいる魂と言われています。
 そんな餓鬼たちに食べ物や飲み物をお供えすることで、供養することを施餓鬼というんです。さらに、餓鬼の供養をすることで、徳を積むことができ、自分にも救いがあるとされています。」
 口羽和尚は是まで多くの施餓鬼供養をされてきています。そのことに付いてホロトロピックワ-ルドin名古屋で2014年にお話をされた内容を照会します。

「私はずっと施餓鬼供養を行ってきました。東日本大震災の後は、東北を何度も訪れています。金華山沖では、水に溶ける紙に描いたお地蔵様を海に流すという地蔵流しの供養をしました(4年間で24万枚)。すると海は穏やかになり、漁師さんも経験したこともないような凪になって多くの方々が成仏した証がありました。
 迷っている霊を成仏させる儀式が、施餓鬼供養です。甘茶を茶漬けのようにむすびにかけて供養すると霊は喜びます。実は、古神道も万霊供養をとても大切にしていました。もちろん呼び名は施餓鬼供養ではありませんが、同じようなことをしていたのです。施餓鬼供養をすると、現実面でもさまざまな変化があります。学校・病院・会社などの人間関係のトラブルがすっと解決することもあります。それまで意地悪だった人が急に優しくなったという話はよく聞きます。意地悪する人は、迷っている霊の影響を受けていることがあります。施餓鬼供養をすることによって、霊魂の渇望が満たされると霊は穏やかになります。ちょうどおなかが空いて苛々していた人が、ご飯を食べると満たされるように。
 2年前、アメリカアリゾナ州で施餓鬼供養をしてきました。ホピ族は「日本に初めての原爆が落とされる」という予言を伝承してきたことで知られています。原爆を造るときは、たくさんのアメリカインディアンがウランの採掘に駆り出されました。後年、そのときの被爆がもとで亡くなった方も多くいます。私はその供養をするように導かれました。グランドキャニオンで法螺貝を吹いて供養しました。
 歴史の中では、多くの先住民族が過酷な状況におかれてきました。日本も例外ではありません。日本人は、たくさんのアイヌの人達を殺しました。和平に見せかけて呼び出した挙句、毒殺するような手段も用いました。日本で伝えられている歴史は、日本からみた歴史です。アイヌにはアイヌの歴史があり、それは全く違う視点から語られる歴史です。日本人はアイヌを殺害し、北へ北へと追いやりました。その大地を私たちは「東北」と呼んでいます。東北(艮(うしとら))という方角は、風水思想では鬼門に当たります。あえて鬼門を意味する言葉を用いるのは、虐殺されたアイヌの霊魂を封じ込める目的があったのでしょう。東北は、たとえば「奥羽」と呼ぶべきではないでしょうか。
 ところで、青森から岩手にかけては、一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と「戸」のつく地名が点在します。「神戸」「水戸」などもそうですが、地名に「戸」とあるのは、先住民族の怨念が封印されている場所です。なお、先住民族が虐殺されたのは、奥羽だけではありません。かつて九州南部に住んでいた人たちは、熊襲(くまそ)と呼ばれて、大和朝廷に制圧されました。
 私は、アイヌとヤマト、平氏と源氏といった、対立するものの和解を生涯にわたって進めていきたいと思います。
 明治維新の時、神仏分離、廃仏毀釈、修験道廃止が行われ、寺や仏像が焼かれたり壊されたりしました。それまでは神宮寺や別当寺などのように神仏混合で日本の国力・文化力が高いレベルで保持されてきていたのです。これがなければ、国宝・重文は今の3倍あったろうと言われています。しかし、数多の真言・天台宗などの僧侶が、国家神道に変われと拷問によって殺害されたことは、タブーで知らされていません。殺害された人数は定かではありません。裏には欧米列強の策略があります。日本の国家文化力を弱め、領土化を目的としたものです。
 出雲出身の高僧で真言宗の雲照律師が、死を覚悟で明治天皇に会見を申し込み、説得され解令となりましたが犠牲大でした。
 このあと、日本は、数々の国外での戦争に突入していくのです。大アジア解放、独立の大義はあったものの、膨大な戦死者を出していくのです。敵味方を超えて・・・
 第二次世界大戦後、日本の首脳は、明治の廃仏毀釈が間違いだったと反省されたと聞き及んでいます。中国の文化大革命も似たようなことでしょう。
 いつの時代も、殺戮の時を経てきた人類の業(ごう)。万物の霊長といいながら、人間以下と扱う、牛・豚・魚を食べる人間のあさましさ。遺伝子1個も作れぬ人間。太陽、空気を無料で頂き、水、米、野菜、樹木、花等のおかげを頂きながら生きていることを感謝し、人や自然、周りの一切の者・物が喜ぶ人生を送りましょう。」

口羽秀典さんプロフィール:延命寺(高野山真言宗)第27世住職 伝燈大阿闍梨 高野山大学卒 22年間で約2万回に及ぶ施餓鬼供養を行う。(合戦地、原爆被災地、震災地、日本の霊山・聖地などの供養を含む)環境NPO法人「江の川鮭の会」理事長等さまざまな社会活動に参加。

2018年5月30日水曜日

1320「祈り旅1」2018,5,30

 2018年5月19日から日本列島祈りの旅がありました。私は昨年の青森の祈りの旅に引き続き、今年も部分参加でしたが岩手の祈りの旅に行ってきました。東京での「祈り」の講演会から2週間でしたので、今回は果たして如何になるのかと楽しみに仙台を出発しました。
 生憎の空模様です。車で東北道を北上し、集合場所の水沢江刺駅に定時より少し遅れて到着です。既に沢山の人が集まり、間も無くバスに乗り込む所でした。
 案内には
「アシリ・レラさん、口羽和尚さん、天外伺朗さんと行く~ 東北・岩手縄文の聖地を巡る祈りの旅~ 映画「つむぐ」の監督吉岡敏朗さんがドキュメンタリー映画を撮影」
 今年は東北・岩手に燦然と輝く蝦夷の英雄、アテルイの聖地や、縄文人の聖なる神々の降臨場であり、祭祀の場であったストーンサークルで祈りを捧げ、北上川源流(大河の一滴)、巨石、民話の里遠野などを巡ります」とあります。
 
 しかし前日18日に事務局からアシリ・レラさんが身内の不幸があり急遽参加出来ないと連絡がありました。後で伺ったらその日に実のお兄様が亡くなられたとのことでした。レラさんのお弟子さんの花巻在住のSさんの先達で旅はすすめられることになりました。
 集合場所で事務局の方々に挨拶をしていると秋田のSさんが声を掛けて来ました。よもや参加されているとは、思いがけない嬉しき出会いになりました。

 最初の目的地は水沢江差駅の目の前の出羽神社です。大型バスは出羽神社のある羽黒山山頂までは登れません。県道の鳥居から皆さんは徒歩で20分程歩かれます。私は事務局のHさん、Iさんの2人を乗せて出発しました。車で登ると5分ほどで到着です。しかし、お昼のお弁当の受け取りで再度水沢江差駅に戻り、神社に引き返した時には、皆さん到着して何やら儀式の用意をされていました。



 口羽和尚は御神木に向かって経を上げていました。

 この出羽神社には何度も訪れていますが、以下が神社の紹介です。
「7世紀、8世紀はヤマトとエミシの相克の時代で、724年に多賀城を、759年に雄勝城をヤマトが築いたが、780年には海道エミシの伊治公呰麻呂が雄勝城を奪い、多賀城を焼き滅ぼした。
 内陸の北上川流域では、族長アテルイのもとに大部族連合が結成され、およそ20年の間に、5万、10万、4万と3回にわたり送り込まれた政府側の大軍に、堂々と渡り合うエミシの軍隊が組織されていた(高橋富雄:辺境)と考えられる。
 水沢地区の戦争は789年で、ヤマトの紀古佐美が5万の軍勢を進めたが、水沢江刺駅東方の羽黒山に400人の兵をひそめていたアテルイは、紀古佐美軍の退路を断って攻撃した。ヤマト軍の戦死者は20数名だったが北上川におぼれる者が1000名を超えて大敗した。
 現在、羽黒山には出羽神社があり、すぐ横の小高い丘にはアテルイとモレを顕彰する碑が一般からの寄付金で建てられ、また、地元民の奉仕で発掘調査もおこなわれ、当時の遺品が見つかっている。
 その戦いの主戦場が「巣伏」で小さい記念公園がある。ここは「跡呂井地区」でアテルイにかかわる地名である。丘の上には「たんぼアート」見物用のやぐらが建てられている。
 その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には胆沢扇状地の北部に胆沢城を築いた。兵力だけでなく民力の消耗もあり、この年にアテルイとモレは講和に応じて平安京にのぼったが、危険人物として処刑された。
 この一連の経緯をヤマトによるだまし討ちとする説もある。二人の魂は成仏を拒み、怨霊となって悲痛な声を上げながら都の空を飛びまわったともいう。
 ゆかりの枚方市の片埜神社では毎年慰霊祭が行われ、また、田村麻呂の創建の清水寺にもアテルイとモレの顕彰碑がある。
 アテルイにちなむ地名の跡呂井が水沢にあり、モレ(モライ)には母体(モタイ)地区が前沢にあり、アテルイの甥、人首丸にはヒトカベ地区があり、いずれも奥州市内の地名なのでアテルイ一族は奥州市を中心に統治していたエミシの豪族であろう。」

 神社本殿の脇に焚き火が設えています。皆さんが揃った所で祈りが始まりました。先ずSさんが行うアイヌの儀式の祈りです。使われた聖水が皆さんのところに周り、お供え物の食べものも頂きます。しかし祈りの内容は分かりません。





2018年5月29日火曜日

1319「祈り9」2108,5,29

 最後は演者とゲストが登壇してパネルディスカッションですが、ゲストお沢山の方々なので自己紹介を兼ねてお話頂き、後は会場からの質問への応答になりました。主だった部分を紹介します。


・はせくらみゆきさん
 祈りの旅を知りました。浮かばれていない存在は見たくないと思っていましたが、相手の方が私たちの祈りによって光に還元して行くことは素晴らしいし、私たちの暮らしそのものが祈りだと思う。ケーキと思うと、フォールを切り分けて食べますが、分離したものもフォールも美味しいのが良いかなと思います。

・船戸崇史さん
 消化器外科をしていて分離していて統合していなかった。ブラックジャックが格好良かった。如何に綺麗に切り分けるか、未だ西洋医学でしていて、必要でしますが、しかし統合の考えを持っていない。癌も悪いとみなして切り取って治すことをおかしいと思っていなかった。病気とは生き方がおかしいと伝えてくれるメッセージと気付く為に10数年かかりました。そのことは天外塾で教わったことです。

 以下は質問に答えてです。
・天外伺朗さん
 自己顕示欲なくなると統合が進み、統合の最後が政治になります。独立したもので後期自我、シャドーの分身エネルギーで動いていて、政治も統合して次へ行く。人の為の社会システム出来ていて、次の世代の人が進化するシステムに変わります。

・アシリレラさん
 祈りは形が関係なく、心から入る事が大事です。私は4回死んでいるが、それを追い返したのは先祖だった。この地上に生きとし生きる者、生まれた人に誰一人無駄は無い。心があれば神仏が加護してくれます。

・天外伺朗さん
 生きている事のベースは身体、生命エネルギーで快食、快眠、快便が大切です。その上の3つのこと、歌い、踊り、祈りが大切です。今、その祈りが一番不足している。80年代にはディスコブームがあり、その時に日本は凄い勢いがあった。全員が祈りをすることが大事です。お布施だけでは駄目です。

・アシリレラさん
「幸せは、今生きている事」、と感じた時、それが幸せ。満たされているかどうかだけ。健康で今幸せと思うこと。それを自分で掴む事です。

・真栄田苗さん
 先祖からいのちを頂いている。いのちを繋いでくれた方々にありがとうの気持が祈りです。まずやってみる。まだ不安と思う時、もう一度する。何度も繰り返しすることで先祖が受け止めた時、ありがとうの気持か自分に伝わった。その時に達成感が来るのです。

・秋山佳胤さん
 食べていないのでなく、エネルギーを頂いています。祈りに集中している時、ハッピーでどこにも繋がっている。明け渡すのは止められない世界です。自分が生命を頂いていることへの感謝、愛を放射する喜びからくる循環、プラーナで生きる愛の循環で生かされています。万全に保護されている、宇宙の愛、地球の愛に育まれている、と安心すると物質に拘らない。食べないと制限をかけると分離になります。

・はせくらみゆきさん
 食べない選択の時、光が固まったものが食べもので、地上バージョン、天地バージョン、それぞれを合わせて、食べる為に生きる事から自由になること。食べなくても死なない。エネルギー性で見ています。

・天外伺朗
 分離から統合へ。良い悪い、正義、悪からも離れること。虐殺したサイドのものも上がっていない。葛藤の強い人、虐殺している。その人の怨念も残っている。

・アシリレラ
 53歳で癌になりビックリした。向こうの世界に行って戻ってきた。皆、神様の子供で死んだら神様の所に戻る。普通は20年だが自殺は50年戻らない。今のいのちを寿命まで全うすること。自分の心が満たされていればそれで十分なのです。

 以上で講演会は終わりました。今年の祈りの旅は5月19日から岩手県を巡ります。果たして如何成りますでしょうか。

2018年5月28日月曜日

1318「祈り8」2108,5,28

 サイコセラピーで死は究極の癒しと言っていました。死神と呼ばれた女医が「死んで良い人が死ねない,人の心残りがある。その人が死ぬ直前に統合する。」と。今日参加して下さっている船戸クリニックの船戸崇史さんは看取りの名人です。自然死の100%は統合されて亡くなっているのですが、それ以外は統合されないでネガティブなエネルギーが残るのです。それが自縛霊です。

 祈りでしていることは生きた人にやっている事と同じことです。生きている時に統合出来たら楽になります。それが「明け渡し」です。浄土真宗で「妙好人」という方がいます。唱名で悟りを開く方々です。鈴木大拙も妙好人には叶わないと言っていますが、知識が入ると明け渡しが出来ないのです。

 湯河原に「ご縁の杜」という所があります。以前は旅館深沢と言っていました。そこは料理で人気でしたが、旅館の主が料理人と上手く行かなくなったのです。その主は天外塾に参加していましたが、料理人に辞めてもらい、2016年1月4日に宣言して、2月4日からリトリートに変えたのです。その結果、一切の不安がなくなり全てが良い流れで進みました。このように葛藤を手放し、明け渡しをすると上手く行くのです。そして2018年1月のホワイト企業大賞を受けました。
 しかし私(天外)は全然明け渡しが出来ていないです。明け渡しは天外塾では女性しか出来ていません。男性で妙好人は要ますが、まだ明け渡しは出来ていないのです。

 母なる大地を分離から統合へ向かうようにする。文明人は土は単なる土くれと思いますが、インディアンは母なる大地と言います。大地を生命の源と言います。しかし私たちはそこと自分は統合していないのです。そこを統合にもっていかないと人間も統合しないのです。
 これまで私たちは分離する必要があったのです。明治以降、教育で戦士を育てることを行ってきました。終戦後は復興に戦士を育てる事が必要だったのです。そして日本は成功し、復興してきました。今は富国強兵からテーマは変わっています。そして教育も分離から統合へ向かってきています。祈りの旅をおこなうことで、母なる大地も分離から統合へ向かっています。」

 天外さんのプロフィールです。
 天外伺朗:本名、土井利忠。1942年、兵庫県生まれ。工学博士(東北大学)、名誉博士(エジンバラ大学)、元ソニー上席常務
 東京工業大学で電子工学を専攻した後、ソニーの研究所で先端技術の開発・研究に携わる。フィリップスと組んだコンパクト・ディスクの共同開発者。近年はエンターテイメントロボット・アイボ、ヒューマノイドロボットの製作責任者としても知られている。その経験より技術評論、人材開発論にも健筆を振るう。 
 ソニー・インテリジェンス・ダイナミックス研究所(株)所長兼社長などを歴任。現在「ホロトロピック・ネットワーク」、「天外塾」、「フロー・インスティチュート」、「ホワイト企業大賞」、「日本列島祈りの旅」などを主催。

 1997年より、理想的な死に方につながる光り輝く日々を追求する人たちのためのネットワーク「マハーサマーディ研究会」を主宰するが、活動の展開の中で、2004年2月「ホロトロピック・ネットワーク」へと名称を変更し、「魂と意識の成長」「ホロトロピック・センター構想」を掲げる。全国各地での講演活動の他、ケーナ演奏を導入した瞑想指導を行なっている。趣味として、ジャズクラブではサクソフォーンを演奏。  
 2000年8月、米国ミネソタ州パイプストーンで開かれたサンダンス会場でチョクトー族の長老セクオイヤ師より聖なるパイプを譲り受け、儀式を経て正式なパイプホルダーとなる。2004年8月、カナダ・マニワキ居留地で開催された「Circle of All Nations Spritual Gathering」(先住民の聖なる集い)に招待され、大長老ウィリアム・コマンダ氏よりパイプの祝福を受ける。またパイプホルダーとして日の出のセレモニーに参加し、長老としてのスピーチが高く評価される。  
 著書に『人材は不良社員からさがせ』『「超能力」と「気」の謎に挑む』『意識は科学で解き明かせるか』(以上、講談社ブルーバックス)『ここまで来た「あの世」の科学』『未来を開く「あの世」の科学』『般 若心経の科学』(以上、祥伝社)『理想的な死に方』(徳間書店)『意識学の夜明け』(風雲舎)『宇宙の根っこにつながる生き方』『幸福な人生の秘密』(以上PHP研究所)『「あの世」と「この世」の散歩道』(経済界)『大きな森のおばあちゃん』(明窓出版)、『深美意識の時代へ』(講談社)『宇宙の根っこにつながる瞑想法』『光の滑翔』『運命の法則』(以上飛鳥新社)他多数。


2018年5月27日日曜日

1317「祈り7」2108,5,27

続きまして天外伺朗さんのお話です。

 「岐阜の洞戸でビジョンクエストをしました。その時にサポートしてくれた神主さんがアイヌは虐殺されていて、魂を上げないで封印されている、戸の名が付くところはその所だと、と教えられました。あまり気にも留めずにいました。
 その2年後に、口羽和尚と剣山に登りました。ポピの予言が5枚の石版に彫られていて、その3枚は持っているが2枚は他にあり、5枚揃うと地球の浄化は始まると言われています。また北イスラエルが滅んだ時にアークが剣山に埋められたという伝説があります。
 ポピの長老が剣山に来る事に成っていてそこに参加することにしていたのですが、彼らが来れなくなり中止になりました。でも私たちは剣山に登りました。その時にアイヌの封印を解く啓示が来たのです。
 私はあの世の話を本に書いていますが、量子力学、深層心理学の先の事を書いている理科系の者です。霊のいるあの世とは別の事だったのですが、残念なことにそのような啓示が来てしまったのです。

 祈りの旅は2016年からのスタートとして、2015年にキックオフの会を真栄田苗とアシリレらと東京で計画していました。日本には過去にその国が滅んだ後に世界のトップクラスの人達が来ています。世界中に太陽信仰があり、太陽の登る方向に逃れてきたのです。出雲族はアーリア人に攻められたドラビタ族ですが、それを大和王朝が滅ぼしました。
 その封印を解く祈りの旅を北海道から始めて、北から南へ進める予定で、久高島は琉球王朝以前からあるのでノロの真栄田苗さんを、アイヌのアシリレラさんにも来てもらい講演会をする企画が、流れてしまったのです。それで私のCD発売の集いを変わりにしたが、キックオフが止められてしまいました。そこには何らかのエネルギーが働いている、とインディアン流に解釈していました。

 5000年以上に渡りこの地で行なわれた虐殺が封印されていて、それは凄いエネルギーです。歴史は勝者サイドによって書き換えられています。アイヌは口承で伝えられています。出雲では家系に伝わっていて外伝出来ないのです。歴史が隠蔽されている中で見つけて、祈りの旅をして行くのです。北海道から久高島までするキックオフが中止された。タブーがあったがもうその時代でないと思った。
 インディアンの系統の祈りは感謝だが、2016年の北海道の祈りの旅は上手くいきました。儀式の後に日輪が出てそこに鷹が飛んだのです。シャクシャインが本当に死んだら日輪が出て鷹が飛ぶと、その事を前夜にレラから聞かされていたのでした。

 出雲の潜戸(くけど)は木村由紀のチャネリングでしました。今回、祈りの旅の本を出版しその続き、2冊目を今書いています。今回の本の9章で「分離から統合へ向かう」で難しい話を書いていました。この祈りの旅で一体何をしているのか。それは世界で起きている1つのことです。
 それは母なる大地が分離していることです。怨念は分離のエネルギーで、今私たちは分離のエネルギーで生きているのです。ハングリー精神、葛藤のエネルギーが分離エネルギーで、大体がそれを強く持っていて戦いのエネルギーに昇化して、のし上がっているのです。そして国会議員の9割がADHDです。
 会社も上層部程、葛藤のエネルギーが強いです。天外塾でフロー経営を伝えていますが、上手く任せられない、葛藤から、統合へ向かうことです。多くはネガティブのエネルギーを見ない様に分離しているのですが、自分の生命エネルギーのバーストラウマ、死の恐怖、抑圧された性欲があり、色々なトラブルを抱えています。

 私に価値が無い。私は愛されていない。私は一人ぼっち。私は生まれて来なければ良かった。の4つのレベルが強まっているのです。それで社会に出て行き、もしも価値は認められ成功しても分離の状態は変わらないのです。
 私が30代でエンジニアとして最高なことを行なって業績を上げたのですが、不安がありました。外の世界は良くても内側の方が統合出来ていなかったのです。それが今の社会の活力ですが、しかしそれだとフロー経営が出来ないのです。

2018年5月26日土曜日

1316「祈り6」2108,5,26

 しかし嫁いだものは島では神職に就けないのです。島で育ち、島の人と結婚した人しか神職に就けなかったのです。そうなので私に反発もあり、嫌がらせもありました。しかし、私が先祖と約束した事なので守ろうと思いました。
 1つ1つ教えてもらいました。そんな時にメッセージが来ました。アーマンは宿借りのことで、最初に地球に住んだ人は洞窟に住んでいました。そして色んな情景を見せてもらい、祈りの言葉を教えてもらいました。しかし、「人真似はするな。」と言われたのです。

 母はすでに他界していて指導してくれる人がいなかったのです。どう祈ったら良いのか、どう治せば良いのか、があったのですが、不思議にその場に座るとひとりでに言葉が出てきました。仲間の祈りの者達は、新しく移動して来た者が多いです。祈りが健康祈願などになり、本来の祈りと違うので真似をするなということか、と思いました。
 最初はチンプンカンプンで色んな言葉で理解不能でした。どう理解すれば良いのかと思い過ごしていました。そして、分かり易く現代用語に換えてくれとお願いしました。そうしたら、今は私たちの言葉で聞けるので分かるようになりました。先祖の言葉が下りてくる様になってきました。辛くしんどいと思うことがあります。先輩が1人欠け、減って来ていました。

 35神いるのですが毎月の祈りがあります。正月3か日は人間界の祈りです。最初は男、3日目から女の祈りで、男を女が守ります。3日過ぎ、その後は自然界、豊漁、水の安全などです。久高の祈りは地球規模です。7つの海の神々よと祈ります。7つの聖地に火を灯します。親の代から私の代をマロの時代。そして子、孫の時代として生命をかけて恵んでくれる自然の恵み。六つの手、八つの手、それは烏賊や蛸のこと。全てに感謝し恵みが耐えない様に正月にするのです。そこから漁が始まります。
 2月から男の子の健康祈願をします。久高に6つの貝塚があります。古いものは縄文のもの。男は生存率が低かったので守る祈りをします。西に向かって祈ります。「百代何時までも。」「千年万年、子々孫々耐えない様に。」と。
 3月は五穀豊穣。イバフー。アマミキヨ、シネリキヨが持って来たもの。私の家、大里家が第二尚家からノロ家になりました。
 4月は神様を迎えます。農耕の神。35のお供えをします。
 5月はあわの節句。アツタ貝塚は3500年前。今の久高島は2度目の島。1度目は30000年前に沈んでいる。今は標高15m。2人の人が降りて来た。海の中はサンゴで、それで今の島が出来てきた。祈っている時に見せてもらいました。
 6月、900年位前は6月が正月でした。マヤと同じです。
 7月、米、久高はあまり米出来なかった。対岸の玉城で芽が出ました。
 9月、ご縁のある出雲に海へびが行く。いなさの浜です。
 10月、米の祈り。11,12月は1年間に祈った35の残されてきている所にお祈り参りをします。
 12月は最後に部落を上げて祈ります。
 イシキバマ、セイファーウタキに砂、サンゴの欠片を運んで聖地化しました。
 男は世界中に出て行っていますが、久高の男だけでなく全ての男への祈りをしています。女の子は5,6,8日に祈ります。女は本来強いので沢山祈らなくても大丈夫なのです。体の弱い男を祈ってやろう、というのが久高の主たる祈りです。地球の四方八方、宇宙の四方八方が穏やかに過ごせ、男女全て、自分の子と神様は言っているので、それを懐に入れて守りましょう。絶やさずに久高ではそう祈っているのです。」

真栄田苗:ノロ(祈りを捧げる人)神人、かみんちゅ
 沖縄県久高島生まれ。久高島を離れ本島の沖縄で色々な職業を経験し、結婚もする。1度に4つの店を切り盛りしたこともある。あまりの忙しさで病気になり閉店。また始めると大繁盛の繰り返しの中で、感じるものがあって帰島。現在は神の島と言われる久高島で祈りを捧げながら、島を訪れる人々に、人間にとって1番大切なことや、久高島の古代の歴史や地球レベルの祈りに付いてなどの語り部として知る人ぞ知るの存在。

2018年5月25日金曜日

1315「祈り5」2108,5,25

 次の講演者は沖縄久高島のノロの真栄田苗です。
「私は沖縄の久高島に住んでいます。沖縄にはノロ制度があります。第2尚家によって作られたもので、その前は神役、神職です。全てのものに神は宿るので祈りを捧げるのです。アマミ親ウフアミ、アマユ親ノロ。
 祈りの基本には12年に1度行なわれるイザイホーの祭りがあります。祭りは賑やかで、歩き、厳かに祈ります。マテイという順序立てて祈るのがウフアミの役目です。馬に乗ってここの地に下りてきた神様がいます。守り助言する、神を迎える儀式です。戦後、私が6,7歳の頃に祭事がありました。
 不思議な事が起こる島ですが、私には当たり前のことで不思議ではありません。昔、久高の祈りが始まったのは何時なのかは定かでありません。弥生の頃ではといわれています。土器で儀式が成されていたのを知れます。
 私の家系が1番古いものです。五穀の発生が久高島と言われています。「実らせて下さい」の祈りが基本で、気象的なものです。太陽、雪、風の祈り手、台風、海を守る祈り手などがいて、天地、宇宙、地球、海など35神を何時も祈るのです。その担い手が35名いました。しかし最近、祈り手は2人だけになりました。35年前には半分位いたのですが、しかしこれが今の現状です。

 私が17,8歳の頃にそうなるだろうと感じていました。イザイホーの儀式があり、高校生の頃に島に帰りました。久高ノロとホタカノロの両家がやりました。その時に先細りになるのではないかと言ったら怒られました。
 自分の家系が祈りをしないといけないのですが、子供心に面倒くさい立ち居振る舞いで、若い人の意見を聞き入れて貰えなかったです。学校を卒業し結婚し、子供を生んで、出来るなら避けて通りたいと思ったのですが、避けさせて貰えませんでした。
 35歳の時に主人が病気で亡くなりました。東京新宿に治療に来きましたが駄目でした。その後、悪戦苦闘の人生でした。それまでは仕事をして、結婚も上手く行き、有頂天に成っていました。私はついていると思い、気を抜いていたのです。サポーターがいることを忘れてしまい足をすくわれたのです。身近な者に足をすくわれる事が何度も起きました。そして無理をして身体を壊したのですが、しかしまだ諦めなかったのです。
 40歳過ぎて色んな病気を体験しました。眠れず、食べられずでしたが胃潰瘍、乳癌、子宮筋腫になり、身体との向き合いもさせられました。自分の中でこれが最後で助からないと思いました。その時に友人から貴方のは病気で無いと言われたのです。
 占いの人の所に行ったのですが、4箇所で見て貰えませんでした。駄目だ、と自分の中で納得しました。あるところではどんぶりに塩を入れて頭から振りかけられたりしました。そして、もう助からない人からお金を貰えない、とも言われました。

 食事に行った所である人に会いました。その人は私の為にそこにいてくれたと思える人で、2度と会えませんでした。その人に「実家に母はいるか。母に先祖の意思を受け継ぐといったら病気は治る。」と言われたのです。そして家に帰って直ぐに母に電話をしました。
 そうしたら出血が止まらなかった筋腫が、自然に塊が出てきてケロッと治ったのです。その後、乳癌も治り、島に帰って先祖に受けると報告しましたが、現実問題として色んな事が山積みで、子供は小さくまだ学校で、姑が病気でした。

 島に帰るきっかけは姑が亡くなり1年目の58歳の時です。朝歩いていると「寿命は67歳」と天から声が聞こえてきました。そして約束を思い出しました。その後、後寿命は10年で島に戻ったのです。

2018年5月24日木曜日

1314「祈り4」2108,5,24


―この一万年祭に数日滞在して驚いたのは、子どもの数が多いこと。ステージに子どもが自由にあがって大人とやりとりしては、降りていく姿が印象的でした。また、アイヌ語学校の歌と踊りを見せていただきましたが、歌と踊りのなかに、人間関係の間合いのとり方など教育的な教えが込められているようにも思いましたね。
 アイヌは見て覚えることを大事にしているんです。昔はまわりに子どもがいたり、赤ん坊が這っていたりしても邪魔にすることはなかった。子どもは見て覚えるものと知っていたから。今も私はそのやり方でやっています。学校の子どもたちは小さいときから見てやってきたから、踊っているときに小さな子が這い上がってきても邪魔だと思わないんです。やっぱり子どもは大人と一緒に学んでいくのがいちばんです。かつて父親はこんなことを言いました。「仕事ではない。食べることではない。お金を得ることではない。人間関係がいちばん大変なんだ。これができる子になったら、世の中は怖くない」って。人間関係がもつれて、トラブルが起こるから嫌になるわけでしょう? 相手の心をわかってあげられる子になれば、世の中で楽に生きていける。それがアイヌの子育て。人間らしい人間に育つ方法です。
 
―人間らしい人間とはなんでしょうか?
 それは、人は人を殺しちゃいけないということ。人は人を裁いちゃいけない。人の悪口を言ってはいけない。人を悲しませてはいけない。人は地上に生まれたら、生きる権利がある。食べる権利がある。そして幸せな心で生きる権利がある。これを破ると人間としての安住はありません。これが人間らしい人間です。
 
―アイヌの神様のこと教えてください。
 まず、私たちは偶像崇拝をしません。その代わり、天地、太陽や月、森、火山の火、水……自然のなかのあらゆるものにカムイがいます。それらは人間が絶対につくれないものであり、人間が絶対に勝てないものです。
 
―世界各地の先住民族と交流があるそうですが、どのような出会いがありましたか?
 ネイティブアメリカンやオーストラリアのアボリジニ、ニュージーランドのマオリ、ハワイ、ロシア、台湾、いろんなところに行かせていただきました。タスマニアでは“大地の人”という意味のクーリーというアボリジニに会いました。彼らも白人社会の文明を押しつけられた人たちでしたが、「魂は売らない」とはっきり言って、カンガルーの踊りなど披露してくれました。わずかなお金のために羽毛布団の原料となる鳥をたくさん捕らねばならない彼らは、胸が傷むと泣きながら話してもくれました。水のダムができてさらに水不足が起こったとも言っていました。世界で起きている先住民族の問題は同じですね。
 でも最近、変わり始めましたね。白人でもネイティブの人を好きになって結婚する人もいる。神々は今混ぜているのかなと思います。魂のいいところを残すために工夫している。きっとその人たちが地球を元に戻すのかなと私は思っています。
 
―読者へメッセージを。
 私は歳だからやがて死んでいくだろうけど、これからの若い人たちには、ぜひ木を植えてほしいと思います。木を植えて森をつくれば川がきれいになり、魚が産卵にきます。まず森です。動物や鳥、魚を必要な分だけ食べて生きていける命の森。私たちのイオル(生活基盤)は森から始まり、川を流れ海から戻ってくる。
 もしも森や川や太陽が「ああ疲れたから休むか」と休んでしまったら、私たちは生きていけない。酸素がなくなり呼吸もできなくなる。そういうことを多くの人は忘れてしまいました。でも元に戻すのは、人間にしかできません。動植物を守ることができるのも人間なのです。ものを言わないからよいのではなく、ものを言わずに森を再生してくれている彼らのことを忘れてはいけません。
 カムイは動植物も、我々も同じようにつくられました。ただし、山や森を守るために、私たちに言葉を与え、歩くことを教えた。そして、死んだ人たちと動植物を恐れないように、人間に火を与えました。だからカムイノミ(祈りの儀式)は必ず火を焚くんです。煮炊きや、水を使って消すことも教えた。それをおろそかにすると火事になるけれど、山で火を焚いたり、鈴やラジオなどで自分の存在を知らせれば、動物は寄ってきません。そのように、私たちは彼らの代弁者であり、火を持って掟を守ってきたのだから、それを忘れてはいけないのです。
 
Asir Rera(アシリ・レラ)
日本名、山道康子。1946年、北海道平取村生まれ。15歳で民族問題や環境保護活動、平和活動に取り組み始める。二風谷でアイヌ民芸店を営む傍ら、1979年に「沙流川を守る会」を立ち上げ、1989年にフリースクールも兼ねた「山道アイヌ語学校」を設立(2009年に閉校)。同時にお盆の時期に「アイヌモシリ一万年祭」をスタート。ネイティブアメリカンやアボリジニなど世界各地の先住民族を訪ね、シャーマンとして各地で儀礼も行い、交流にも努めている。
 

2018年5月23日水曜日

1313「祈り3」2108,5,23


 講演会の内容から少し離れますが、アシリ・レラさんの講演会は仙台でも天外さんと一緒に開催した事があります。アイヌの活動家としてのアシリ・レラさんのインタビュー記事がありましたので紹介します。http://www.papersky.jp/2015/01/06/asir-rera/

Tomoko Kusakari, 2015/01/06
 日高山脈から流れる沙流川沿いに開けた山裾の集落、北海道平取町二風谷。ここでは山と川からの豊かな恵みを得て、昔からアイヌの人びとの暮らしと文化が営まれてきた。その末裔である山道康子さんは、彼女を慕う多くの人たちから、アシリ・レラさん(アイヌ語で「新しい風」の意)と呼ばれている。二風谷ダム建設で揺れる時勢を受けて15歳からアイヌ女性活動家として奔走し、アイヌの文化継承と職業訓練のためにアイヌ語学校を設立。その傍ら事情がある子どもを引き取り育てあげてきた。世界各地で儀礼を行い先住民族との交流も多いアシリ・レラさんを、彼女が主宰する「アイヌモシリ一万年祭」の会場に訪ねた。
 
―おいたちから聞かせてください。
 今から68年前の2月のことでした。私は雷が落ちたときに生まれたそうです。私を雷神の生まれ変わりと火の手を恐れた両親は、一度私を外に捨て、拾って東の方角から家に入れて「この子が落ちていました。人間の子として入れます」と、カムイに申し送りをしました。そうやって人間の子として授からせてもらう儀式をしたそうです。
 貧しくても道徳を重んじる両親のもとで、私は山や川で熊の子みたいに遊んでいた子どもでした。学校をさぼってばかりいる私を見かねて家庭訪問に来た先生に対し、母が「普通の子といろいろ違うのでご迷惑をかけますが、やる気になったら学ぶでしょうしやる気がない時に押しつけてもやらないでしょう」と笑って追い返したのを覚えています。子を守る愛の強い人でした。父親はアイヌ民族のアイデンティティを確立しようと猛烈に勉強し、尋常高等中学校を優秀な成績で卒業した人でした。教師を志しましたが、アイヌであるがゆえに夢は叶わず、山奥に引きこもり、炭焼きで生計をたてていました。
 当時の北海道では、線路の敷設工事やトンネル工事でアイヌや朝鮮人、日本の囚人が奴隷のように働かされる状況が続いていました。父は工事現場に炭俵を3つか4つ売りに行っては、帰りの炭俵にひとり入れて逃がすということもしていました。アイヌよりも悲惨な扱いを受けていた朝鮮人の男がこう叫ぶのを聞いたそうです。「茅葺きの家に逃げろ」。アイヌの家に逃げ込めば生きて帰れると。そういう話を仲間としては「こんなことが許されてはいけない」と話す父の姿をよく見てきました。「もしかしたらうちの父親、政治犯かもしれないな」と思いながらね(笑)。
 
―アシリ・レラさんのさまざまな活動は、そんなご両親の姿を見ていたから?
 そうです。自然のあらゆることを教えてくれました。動物が木の実を食べて排泄することで種を撒いていること、リスは冬眠のために埋めた木の実の食べ残しが翌年には発芽し、森をつくること、川岸に柳を植えると根が張って護岸になること、柳の根の下に魚は産卵し、天敵から卵を守ること……いろんなことを教わりました。小学6年くらいになると、父は急に厳しく読み書きを教えるようにもなって。当時は多くのアイヌが借用と偽られて土地を奪われていたので字の勉強は重要と思ったのでしょう。
 山が開発され、洪水はひどくなる一方で、アイヌ研究が始まり、学問という名のもとに先祖の墓がどんどん掘り起こされていました。最終的に日本人はみんなアイヌのルーツである縄文人が原点だという結論に達したけど、骨は持ち主に返してほしいと憤りを感じていたんです。だけど厳しい時代を生きてきたアイヌの老人たちは「日本語を話せ」と言う。アイヌ語は記憶伝承だから、しゃべらなくなると、子どもたちは覚えられなくなる。思春期の多感な時代にいろんな思いが渦巻いていた私は、中学校の卒業式にアイヌの鉢巻きマタンプシをいつもと同じように巻いていきました。そうしたら「それを外すなら卒業証書をやる」と言われました。私は卒業証書をビリビリに破いて、運動の世界に飛び込んだんです。
 
―このアイヌモシリ一万年祭も今年で26年目になりますが、一万年という言葉にはどんな思いがあるのでしょうか。
 一万三千年前は日本も大陸と陸続きでした。当時はアイヌの祖先である縄文人が南までいて、後からきた渡来の文化と融合して日本の文化が形成されているので、もちろん日本人は混血だし、アイヌも今は赤ちゃんに蒙古斑が出るようになりミックスが進んでいます。長い間、血と破壊の歴史は繰り返されたけど、一万年前はすべての人は神の子で、大地はウレシパ・モシリ(互いに育ち、育み合う大地)だった。だから一万年前の原点に戻ろうという思いがあります。会場のあるここは、新冠の御料牧場建設のために強制移住させられたアイヌがいた場所。同じように労働に従事して亡くなった朝鮮人、日本人の慰霊も兼ねて毎年お盆の時期に行っています。
 

2018年5月22日火曜日

1312「祈り2」2108,5,22

 シャクシャインはシベチャリ(現在の新ひだか町の酋長でシャクシャインの戦いを和人とおこないました。(話し途中欠落)
 シャクシャインは「神よこれで良いのか」と叫んだという。アイヌは松前藩に征伐され260名が死に、37名の首が松前の立石野に運ばれました。そこに37地蔵が祀られ佐々木神官は奉っています。
 シャクシャインは和人が本当に仲直りに来たと思って毒を飲んだのです。松前城にはシャクシャインの耳塚があり、井戸には本妻の子を生き埋めにされているのです。
 2016年に天外さん、口羽和尚と祈りの旅でそれらの地に行きました。
 何が大事か、戦ってはだめです。平等な社会、心の祈りが増えていくことが望みです。」

 途中、退席し話が欠落しています。補足する意味で、2016年7月9日の天外さんの仙台講演での祈りの旅の部分を紹介します。
653「ホロトロ4」2016,8,2 http://tenmei999.blogspot.jp/2016/08/653201682.html
654「ホロトロ5」2016,8,3  http://tenmei999.blogspot.jp/2016/08/654201683.html

 「日本が興る時、各地で先住民の虐殺があり、その怨念が日本中に残っているのです。戸とは呪術で、スサノウが神富を貶して糞戸(ふんへ)したことが記されています。
 2014年の剣山から2015年には出雲へ行き、今年、2016年、5月28,29,30日の三日間、には北海道に「封印されたアイヌの怨念の鎮魂の旅」行ってきました。
 口羽和尚、アイヌの長老のアシリ・レラさん達と300人以上のアイヌが虐殺されたという岩内で儀式をしました。滝があり清浄な小川が流れ、とても美しい景色のところですが、やはり気配はとても重苦しい。昔、日本の僧侶が建ててくれたという小さな祠があり、その前でアシリ・レラさんと口羽和尚と天外伺朗が儀式を行いました。終わったらレラさんは泣いておられた。小川を渡ってみんなのもとに行き、「とてもうまくいったよ」と報告したとたんに雲もないのに青空から細かい雨が降ってきました。レラさんは「ああ、喜びの涙だ・・・」 と言いました。

 和人の攻撃を事前に知らせてアイヌを救った和人の鷹匠、越後庄太夫が、見せしめのために生きたまま焼き殺されたという崖の上で儀式をしました。アシリ・レラさんの祈りと口羽和尚の施餓鬼供養の間に、天外伺朗のパイプセレモニーを行いました。アイヌの虐殺に抵抗して殺された日本人の越後庄太夫が浮かばれたようだ。(シャクシャインは1669年に起きたアイヌ最大の蜂起と言われる戦いの主導者で娘の夫が越後庄太夫。)
 大勢の人が祈りに来て、太陽の周りに日輪が出来ました。鷹が空を舞う時に死ぬと言われますが、火あぶりにあい、祝詞を唱えて焼かれたそうです。

 私がパイプセレモニーをした時に祝詞の声が聞こえたと何人も言ったですが私には聞こえませんでした。するとアシリ・レラさんがセレモニーを途中で止め、アイヌの毒殺されたシャクシャインが来ていて、口羽和尚の前に座っている、と言ったのです。そしてレラに、「私の祈りの言葉がわからない」、と訴えたようで、レラがシャクシャインにアイヌ語で説明していました。その後、シャクシャインは納得して越後庄太夫の後を追って、浮いて行ったようです。シャクシャインは首が無い姿だったそうです。他の2人も来ていたが和尚の前に座っていたようです。
 なぜシャクシャインが口羽和尚の前に座ったのかですが、島根県は鮭が遡って来るところで、口羽和尚はアイヌにも手伝ってもらって、島根県の川に鮭が俎上するための運動を続けており、その関係で20年間シャクシャインの供養をして来ていたのでした。そのことがあり彼の前に座ったのだろうと言うことです。
 目に見えているこの世界の裏側で、私には見えない厳粛なドラマが進行していたようで、私はただ、パイプを持って祈るだけでした。

 1669年10月にシャクシャイン達、アイヌは虐殺されています。それ以降、レラはじめアイヌの人達が祈って来ていたのに浮かばれなかったのが上がることが出来たのです。シャクシャイン記念館に行った時に、レラが言ったように、彼の銅像のところに日輪が出て、鷹がそこに来て舞っていました。これらはエンターティメントとしても最高のもので、自然の演出が起きたことは凄いことでした。」

※シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
 シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
 クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前軍は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。


2018年5月21日月曜日

1311「祈り1」2108,5,21

 2018年5月6日にホロトロピックネットワーク主催で、代表の天外伺朗さんの著書「日本列島祈りの旅1」先住民族の叡智を学び、アイヌの英雄シャクシャインの御霊の封印を解く、の出版記念講演会「祈り」がありました。
 昨年の青森の祈りの旅に参加しましたので、また、日本列島祈りの旅の取り組みに賛同者に私が名を連ねていることもあり講演会に参加してきました。著書(ナチュラルスピリット社刊)も読ませていただきましたが興味深い内容でした。
 講演会はアイヌ長老のアシリ・レラさん、沖縄久高島のノロ真栄田苗さん、天外伺朗さん、祈りの旅を映画撮影している監督の吉岡敏朗さんの予告上映、最後に講演者に含めて、祈りの旅で大事な役を果たされている真言密教の修験者口羽秀典さんも含めたパネルデスカッションが行われました。

 講演会の内容を少し紹介します。最初に演者の皆さんが登壇し、天外さんがインディアンの言葉を発し祈りを捧げ講演は始まりました。冒頭に天外さんからの
「大変な事が分かってきた。今は平和な時代になっているがこの地では虐殺の歴史があり、それらが封印されている。2016年から封印を解く旅を始めた。」
と簡単な挨拶がありました。

 最初はアシリ・レラさんのお話です。
「私は北海道の平取町二風谷の生まれで、名前のアシリレラは「新しい風」の意味です。
 42歳の時に祈りの旅に入りました。最初は青森県の恐山から入りました。しかし雪で通れなかったので諦めて帰りました。そして春5月に又行きました。祭りでないのでまだおばー達はいない、不気味な程に静かでした。方々にお供えをしていたらお金がなくなりトマトや大根を食べながら過ごしました。そして帰りは軽トラに乗せてもらってフェリーの船乗り場まで送ってもらいました。 
 13000年前は日本列島は大陸と陸続きでした。日本にはアイヌ民族がいました。しかし侵略、植民地化され、口の元と言う名のもとにアイヌは虐殺されました。アイヌは地球を大事にし、天、地、大陽、海、山、川など6つを大事にしていました。手を合わせて祈っていました。何故、アイヌは戦わなかったのか、それは神の掟だからです。
 1200年程前、坂上田村麻呂は、父の坂上苅田麻呂がアイヌの娘ピリカに身ごもらせ洞窟で生まれました。苅田麻呂は自分の子の証としてピリカに小刀を授け、成長したら名乗り出るようにと伝えました。アイヌの血を継いだこの子をアイヌの征伐に利用しようと思ったのです。
 やがて田村麻呂は城に上がり征夷大将軍になりました。ピリカの教えを振り切ってそうなったのですが、長い戦の中で自分をアイヌと認識し始めました。日高見(北上)の川にいてアテルイと瓜二つと気付いたのです。
 アテルイと和議を結び、モレなどを引きつれて京に同行しました。しかし帝達は田村麻呂の意を認めずに、大阪枚方交野神社があるところで処刑され銀杏の木の下にアテルイとモレが埋められました。
 ピリカは化粧坂で城に上がったが悪玉姫と名づけられ、田村麻呂はその子なので悪玉と呼ばれていました。
 歴史は勝者により1つ1つ抹殺されてそのまま1200年過ぎました。やがてアテルイとモレの顕彰碑が建てられました。京都の清水寺にお墓があるが嘘の墓です。田村麻呂は1キロ先に、死しても都を守れと甲冑を着て竹ざおを刺されて立って死んでいるのです。
 羽黒山(奥州市水沢区)に悪玉姫像が建っている。1212年アテルイの供養が行われ、1213年で田村麻呂も見つかったのです。

 1456年に北海道松前のコシャマインの酋長が部族を守る為に立ち上がった。コシャマインの戦いだ。やがて和議を行ったが毒を盛られ崖から突き落とされた。コシャマインの事を思いコタンを守りたいと祈っていた。

※コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌと和人との戦い。
 応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人(渡党)に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬[1]、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。

2018年5月20日日曜日

1310「扉開き14」2018,5,20

 確かにこの地球上はいろんなことがありそうです。それはどうしてか?というと、その振動が合わなくなってる。地球がこれから進んで行く、この地球がある宇宙が進んで行くのに、人間の振動が合わなくなっているから…その調整が出来なくなって、みんないろんなことがあるらしい。
 だから、何が起きるか?という事は、それぞれだから分からない。それぞれの人が見るという事が、今までこんな事は考えられなかった事を見る。という事だと思います。
 これからももっと凄い事を伝えて来るかも知れないが、起きた後に言うのでは、後出しジャンケンみたいで良くないから、これからは私も云われてる事をオープンにします。
 でも、私がこう言ったからではなく、受け取った人がどう思われるか?自分の内でどう思うかは、自分ですからね。くれぐれも自分ですよ。
 自分の"内"ですよ。
 自分が出来上がると、不安で揺れ動く事はなくなる。不安にさいなまれる人達とは違う自分でいられるはず!
 我々はここで何かをする、何かがある動物だと思う。次のようなメッセージが4月6日にありました。
「第三次無限世界の始まりを告げる。うたかた終了。
 捉われの民、多数は別次元。
 うたかた全ては無し。新たなるは無限。
 さすらうでないぞ。捉われたるはそのままそこに居れ。」


 という事は、そういう方たちはここでいいのでしょうね?
 でも、全体の宇宙としては、宇宙が変わって行ってしまうという話。宇宙はここだけではない。一緒にやってる他の宇宙が二つあって、バランスがとれてる我々ですよ。この地球上の狭い範囲だけで考えている時ではなくなってるということです。」

 中山さんのお話を受けてI、Tさんから以下の感想、質問がありました。
「無しにするということ、他に伝えるのは難しい。自分の中で起こしている事が分からないとそれが見えない。」

・中山さん
「とんでもない事が起きた人には話しやすい。小さい事でも分かる事だが、そこを見過ごしている。皆なかなか見ない。そこは自分が実践して見せるしかないが、そこに中々気付いてくれない。
 全体の流れは、次元が変わるという時期が大きい。最初に出来て、次に進化し、今その次が来ている第3次元だと思う。無限をどう捉えるかはややこしい。筒が無し、何も制限が無いをどう作るかだ。
 これまでこうあらねばならないという宗教的な縛りがあり、今、又インターネットでの枠や縛りが出て来ている。だから説明しても分かりにくい。
「一切無しで、どう歌っても良い。」、は私が最初に言った大前提だったが、自分が無くなることが先だ。自分がどんな思いで作っているかだ。
 自分が認識すると、回りにあるエネルギーが消えることが確かにある。認めてもらえないエネルギーが地球に充満している。それは不満、不安だが、しかし私一人でやっても追い付かない。もっとスピーディーにやらないと駄目だ。そこで一気呵成にする方法をするのではないか。それが驚天動地のことかもしれない。それで気象、地震、火山などで見せている。 
 今日も歌っている時に急にそこだけ雪が降ってきた。
 これからどうなるか保証は無い。自分をしっかりするしか手が無い。
 次回の毘沙門・妙見の巡りで横に書いて、今回の縦とで北の地は十字に結び、そこに大きな輪が出来ると、それで安心の輪が出来る。天地を縦に繋いで、次に人の横を繋いで中心がしっかりすることが大安心だ。」

 ミーテイングも終わり締めはいつもの中華料理屋さんで卓を囲みました。各自がしっかり内なる宮、筒を立て新たへと向かう時は迫っています。次回6月には横の繋がりを成し十字を作ります。果たして如何成りますでしょうか、楽しみです。
http://genkiup.net/awa/awa56.pdf
http://genkiup.net/awa/30.06.02.pdf

2018年5月19日土曜日

1309「扉開き13」2018,5,19

・G、Mさん
「巌鬼山神社のお言葉でびっくりしました。自分は覚悟して臨めたのか、と感じました。メッセージは分からない事が多いですが、真の思い、嬉しきがこれから向き合う事だと思いました。」

・S、Mさん
「響きが一体になった時の凄さを感じました。凄い貴重な出会いをさせていただいていると感じました。内なる宮を立てて、新しい展開へ向け、自分の宮をしっかりして行きたいと思います。先ず出来ることは、内なる宮へ嬉しきを響かせて行きたいです。」

・T、Sさん
「そこまで言ったので、そうなるのかと思いますが、それぞれがやれるところまでやるしかない。しかし色んな所に色んな人がいると思いますが、ここ天命塾でこれまで色んなことをやってきて、十文字と言う所まで来ているが、何事がどう変わるか予想出来ない。自分でそれで良かったと思える様にやるしかないと思っている。
 さっきまで気持が重かったが、G、Mさんの言葉を聞いてすっと軽くなって落ち着いたので、少し荷を降ろした感じです。これからどうなるのかな。
 一緒に声をそろえて歌うのに、次にはもっと良いもの出来る様に歌えたらと思います。どんな形でも一生懸命歌うと答えが出るが、今回は舌の内側が痛くてしゃべり過ぎては駄目なようです
 揺らがず付いて来いと言われたので、自分の建て直しを新たにと思いました。」

・中山さん
「皆さんが持ってらっしゃる「中心にある何か」は、それぞれみな違っているが、しっかりしたものを持ってらっしゃる!と云われてる。それを出せる自分というものを作ってもらいたい。しかし、今回云った予言的なものとかには、捉われずに…ひたすら、ひとつのことをやり抜いて、通り抜けたところで気がつく思いを持って欲しい。
 親鸞は、「ただただ唱える内に分かる時が来る」と教えた。あわ歌もそれと同じようなもの。
 今、皆さんが信じてること、こうであろうと予測出来るもの、それらを無しとして、無くてもこのまま、ここで生きて行く自分がある訳だから、「それでもやって行く」というところへなって欲しい。
 このツアー前の4月5日に、「その日は一日中 歌ってろ〜」と云われてやってたら、自分ではない状態にさせられた。体もボロボロになって、このまま消えるのかなぁ?(それも面白いな)
 それでも、自分ではない状態でやってたら… 急に鐘の音!(自分の唇から出してる)が鳴って、メッセージが来た途端に体が変わった。そして、意識で抑えてたものが取り除かれた!
 それで、この二日間はどんどん云ってみてると思う。それでも、ある程度加減はしてるかなぁ…と、は思ってますが、言葉の表現が大層なんですよ。
 だから、そういう大層な事が起きるという風に取られるしかないんですが、でも実際には自分の内で全てが起きる。
 周りがいっぱい揺れ動いちゃって、ここには住んで居られないようになる事よりも、自分の内!
 自分の内では、大変な事と思われる今まで感じなかった事というのを経験して、そこを乗り越えて新しいところへ行く。
 その持ってたものがどんどん無くなる。忘れて行く。行ける自分という方向へ行ってもらいたい。



2018年5月18日金曜日

1308「扉開き12」2018,5,18

 巡りを終えて仙台に向かいます。あわの里天命舎で17時半からミーティングを行いました。始めに今回の巡りに参加した皆様の感想等を伺いました。


・K、Hさん
「あわ歌会の時からお言葉で、分かっているでしょう、と言われていたので、今回はこれは乗った船だ、と再確認しました。今回のように身近で一緒に廻れて体感し触れられたことは大きなことだと思います。」

・I、Tさん
「皆で響いていたように思います。丸くなって歌うと、違う歌が聞こえたり、一体感がありました。」

・S、Hさん
「中山さんと歌を合わせようと思ったのですが色んな物が聞こえて来ました。以前に中山さんと福島の都都古別神社に行きましたが、そこは筒受けの宮で天地を繋ぐ筒です。今回それぞれが筒で受けて響くのではないか、と頂きました。自分の中にその宮があれば、神社などに行くのではなく、自分が動き、行くことで良いのではと感じました。」

・O、Tさん
「これまで中山さんに同行し、長いこと色々お言葉を伺ってきましたが、それぞれが嬉しき宮を自分の中に立てる事だと改めて感じました。
「北の星に讃えを送る」という事は、北極星がもう中心で無くなるということで、どう変わって行くのかと思います。
 以前に頂いた、2015年12月19日のお言葉に「777日後の33日前から」と言う言葉がありますが、その33日前は今年の4月7日で、昨日のことでした。その言葉に示された流れの様に、きちんと来ていると改めて感じました。」

 ※ここで示された2015年12月19日のお言葉を紹介します。2015年12月17~19日に行われた天命塾の「みちのく光を繋ぐ旅no3」の12月19日車中でのお言葉で、以下のものです。

「大事なる事を伝えたし。
 日暮れに向かうこの星は、光輝く大きなる時へ向かう。
 日暮れはその前に全てを変え行く元なれば、起こり来る来る多くの事が、全ての是まで、うたかた成ると知りて頂く日々と成り、その期間は777日。
 始まりは来る3月25日。皆々様が分かりて変わるは最後の33日。
 この仕組みはしっかりと発動いたすが、大きなる障害、随所にあるを知りておる。
 その時、発する響きは、皆に取っての大きなる苦しみぞ。御用意、おさおさ怠り無くば、その時、通る大きなる嬉しきの中なり。

 来る年の3日、2月の4日、3月6日、4月8日。全てが止まる。多くが変わる音を出だし行く時なり。
 かたじけなきが、皆々様には、深きところの思い出ださざれば、痛き時となれり。
 深き思い、知りて合わせば楽しき日々ぞ。はらからの思いは嘘は無し。そのまま自然の宇宙の理、生み出だす。
 たん たん たん たん たらり。
 影踏みて、この地にありて、闇なる所の見えざる輩、是より参りて、大きなる光を響きと共に送り行く。参りて、共々全てを統べる大いなる供と成られませ。
 この地の強き力と成りて、宇宙へ繋ぎて参ろうぞ。
 篩いは激しきなれど、皆々の思いは強きなれば、定めて参ればひとつなり。
 いざ いざ参れ。ふんたる らりあ るんたらり。
 ようよう参るこの時成れば、写して見せます全ての新しき仕組みを。」17:25

 最近、お言葉に出た日にちに該当する事象が起きてきている様で、中山さんとO、Tさんでお言葉の内容、意味を再度精査して確認している様です。

2018年5月17日木曜日

1307「扉開き11」2018,5,17

 達谷窟毘沙門堂は多くの参拝者で賑わっていました。天気も良く日差しがまぶしいくらいで青空が気持ちよいです。以下はアテルイと坂上田村麻呂、そして達谷窟毘沙門堂に付いての記事です。

「達谷窟毘沙門堂縁起:約そ千二百年の昔、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。延暦二十年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦二十一年(八〇二年)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞[おうしん]上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。〔後略〕」

 悪路王たちは「この窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された」とあり、朝廷側による蝦夷征討の正当性・正義性が縁起化されています。この正当性・正義性の延長上に田村麻呂の美化・伝説化はあるといって過言ではないのですが、偽悪化された悪路王を史実の阿弖流為に戻してみれば、これらの縁起表現がまったくの虚構であることは明らかで、ゆえに阿弖流為ではなく悪路王という名の蝦夷の凶悪人が創作される必要があったといえます。
 
 東北の寺社にみられる田村麻呂の伝説化・美化は、西国においては神功皇后に相当するものですが、いずれにしても、朝廷の征討論理を糊塗しつつ歪曲的に正当化する構造となっています。多岐神社の由緒の前半も、この田村麻呂の美化伝説を踏襲したものですが、悪路王にしても三光岳の岩盤石という「鬼神」にしても、史実レベルでいうならば、朝廷側の一方的侵略軍に対して抵抗した蝦夷の首長たちを偽悪化したもの以上ではありません。
 阿弖流為や母礼を首領とする蝦夷の抵抗は延暦二十一年(八〇二)までつづくも、同年四月十五日、阿弖流為らはついに田村麻呂軍に降伏、京に連行された阿弖流為たちは、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、八月十三日に斬刑に処せられたとされます。この田村麻呂の助命嘆願が史実であったかどうかは検証のしようもありませんが、田村麻呂の美化・伝説化の端緒的動機とはなっています。
 多岐神社由緒は、田村麻呂が悪路王をはじめとする岩盤石の討伐に難渋していたとき、「東光水と申す瀧」の「化神」の加護によって勝利を得たとしています。また、田村麻呂が一社を建立し「多岐宮と号し崇め」たのは「延暦二十一癸未年(癸未は延暦二十二年…引用者)八月の事なり」としています。延暦二十一年八月は、阿弖流為たちが斬刑に処された月でもあり、由緒が延暦二十一年にこだわっているとしますと、この符合は偶然ではないようにみえます。『日本紀略』同年七月二十五日条には、蝦夷平定の祝賀の会が朝廷内で催されたとあるように、朝廷サイドからすると、積年の難敵・阿弖流為たちの降伏(→処刑)は祝賀に値するほどの画期だったようで、その象徴的な年が延暦二十一年でした。
 朝廷側による一方的侵略に対して、自立自尊・専守防衛に徹する蝦夷は、侵略側にとっては理解の外にある存在で、これも一方的というしかありませんが、蝦夷は未開の野蛮人・異人、つまり「蛮夷」とみなされていました。しかし、阿弖流為の時代、彼の本拠地近く(奥州市水沢区黒石)には、天平元年(七二九)行基による薬師如来の造像および薬師堂建立伝承(開基伝承)をもつ黒石[こくせき]寺(旧正月七日夜半から行われる「黒石寺蘇民祭」の奇祭でよく知られる)がすでにあり、ここは阿弖流為の信仰とも関わる可能性があります。」

 達谷窟毘沙門堂に入らずに、前の道路脇に流れる川原の淵で達谷窟毘沙門堂の岩壁に向かってあわ歌を響かせました。




爽やかな川の流れで心地良く、太陽の光がエネルギーを降り注いでくれています。歌い終わって以下がお言葉です。
「大いなる日暮れに向かうこの世にありて、
 ひたすら響き持ちて、この北の地に十字を結びて、
 遥かへと発するは大いなる力なり。
 皆々様、その身の中心しっかり据えて、
 是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」 16:09




 日暮れに向かう世に今回は縦に南北に繋ぎましたが、次回6月は横に東西に繋ぎ、十字を結びます。是は大いなる力となる様です。各自が中心をしっかり据えてこれから進み、乗り越えて新しき嬉しきへ迎える様に念願です。

2018年5月16日水曜日

1306「扉開き10」2018,5,16

 もう一つ違う切り口で妙見信仰の記載を紹介します。
「天智天皇や持統天皇が大和朝廷を確立しようとした頃、アラハバキ神や瀬織津姫などの縄文神を封殺しようとしたのと同時に、古来からの縄文人やスサノオ、ニギハヤヒ、出雲族を抹殺しようとし、また、いわゆるスキタイ(騎馬民族)系など源氏系統の人々を関東以北まで追い払っていきました。
 後に大和朝廷と闘うアテルイたち蝦夷(エミシ)や、源頼朝などの関東武士(武士のルーツはアテルイです)たちにも妙見信仰がありました。
 幕末の戊辰戦争で敗れた旧幕府軍である新撰組の土方歳三や榎本武揚たちも、開陽丸に北斗七星の旗を掲げていました。
 新撰組が甲斐甲府城に憧れたのも関係があります。
 空海、修験道、武士…これらに密接に関わる北辰妙見信仰とは、とてもとても簡潔に説明することは不可能どころか、未だ様々な方が研究されており、何冊も本が書れています。

 北辰の辰=ヘビ=竜=艮の金神
 北辰妙見菩薩=弁財天=瀬織津姫=アラハバキ
 艮の金神=アラハバキ=宇賀神=宇宙根元神
 実にシンプルじゃないですか!元々、北極星・北斗七星信仰とは、宇宙根元神信仰なのですから、渡来人政権である。
 大和朝廷にまつろわない縄文の系譜や、その人々と調和していたユダヤ、スキタイ系統の人々は、名前は変われど同じ神を信仰していたことになるのですね。いや、神と言うと誤解が生じる可能性がありますので、真理・法則と言いかえることができます。
 それを縄文アミニズムとも言います。
 人は宇宙根元神の分御霊(わけみたま)でありますので、私=神。また、神は万物に偏在しますので、山にも草木にも、動物にも等しく神を見出すことが出来る訳ですね。
 つまり、私はあなたであり、あなたは私であり、私はウリ坊であり、ウリ坊はあなたでもあると。(縄文アラハバキが世界を変える)
「北斗七星を象った七曜紋は妙見菩薩の象徴とされ、妙見信仰の霊場では七曜紋や九曜紋の星紋が多く用いられています。
 また、七曜紋の七つの星は「日・月・火・水・木・金・土」を表し、「日輪・月輪・光明輪・増長・依怙衆・地蔵・金剛手の七菩薩」を意味するといわれています。」
「九曜紋は七曜に「羅ご(ラゴ)・計都(ケツ)」の二星を加えたもので、土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。」
 神社などで神紋、家紋が七曜紋や九曜紋は妙見信仰と考えて間違いありません。伊達政宗も細川家から九曜紋を頂いていたようです。」

 黒石寺の本堂の左手奥の高台に妙見堂があります。この地は将にアテルイの本拠地であり、大和朝廷がこの地を統治するにあたり数々の教化政策を成したところです。これまでもその封印されたエネルギーが強烈で、その為に中山さんも何度も足を運んできていました。


  
 以前よりはエネルギーが軽くなっているようです。妙見堂であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「しゃりぶつ、たさらうんた、いむおう るる、らりらるられら、
 くらさろ、とろん、たんたんた、ゆらるりらんたる、らるらりろ、
 い~せうえよ~、うるらりらりらる、
 くみあいうるるら、はんたらさろる
  (拍手)
 届けたる元なるの息なり。それこの地のものと為さりて、
 光りて、讃えて、大きなる地へ参り、共に進み行かれませ。(拍手)
 尽きせぬ大きなるこの事は嬉しき。」 15:07

 元なる息が届けられ、いよいよ新たなるへ進み行く用意が整った様です。お陰様で明るく晴れ晴れとした感じです。そしていよいよ巡りも最終になりました。最後の目的地は平泉町にある達谷窟毘沙門堂です。

       

2018年5月15日火曜日

1305「扉開き9」2018,5,15

 昼食で満たされて午後の巡りの開始です。お店から直ぐ近く、奥州市水沢区日高小路にある日高神社に向かいます。町中にある立派な神社です。その説明は以下のようです。
           
「日高神社の名称には諸説あり、この地が古来より日高見国と呼ばれ、日高見国勢力の中心地であったことや、前九年の役の折に源頼義が祈祷したところ、雨が急に止み日が高く昇り、未の刻(午後2時ごろ)に安倍貞任を討ったことに因むとされる。
 妙見菩薩を祀る宮として「日高妙見」や「日高妙見神社」とも呼ばれている 
 天之御中主神、火産霊神、大年神、御年神、若年神、水波乃売神、大国主神、倉稲魂神の8柱を祀る。因みに天之御中主神は妙見菩薩と習合する事の多い神である。
 日高神社の創建は弘仁元年(810年)に第52代嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。この地の首魁であったアテルイが降服し、延暦21年(802年)に胆沢城が坂上田村麻呂によって造営されてから8年後の創建となり、日高見国の信仰を継承する形で中央政府の神々を祀る胆沢鎮守府の神社にされてきたと推測されている。」



 アテルイの降伏後に教化の為に中央政府により祀られた神社です。境内の杉の巨木近くであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「宮はそれぞれの内に構えられませ。
 元なる元の大いなるを現します。
 その宮開きて、大いに発し行き、是よりの新しきを共に打ち立てましょうぞ。
 大いなる嬉しきの宮なり。」 14:21

 「各自の内に宮を構え、その大いなる嬉しき宮を開いて、大いに発し、新しきを打ち立てること」が求められています。


 次の目的地は同じ奥州市水沢区黒石町にある黒石寺です。この黒石寺には是まで何度も訪れていて、多くのエピソードがあります。先ずはこの黒石寺の事を紹介します。

「黒石寺の年表によれば、天平二年(七三〇)に「伝、行基和尚(六二歳)、薬師堂の傍に寺を建て『東光山薬師寺』と称する」とあり、嘉祥二年(八四九)には、「伝、天台宗三世慈覚大師黒石に来る(当時六五歳)。東光山薬師寺を妙見山黒石寺とする。将意和尚に寺を譲り黒石を去る」とあります。
 黒石寺の山号・寺号が東光山薬師寺から妙見山黒石寺へと変遷したことがわかりますが、当初の山号に「東光山」とあることと、多岐神社由緒に「東光水と申す瀧」といった滝名がみられることは興味深いといわねばなりません。
 阿弖流為(悪路王)の時代、あるいは田村麻呂の時代、すでに東光山薬師寺があったように、「東光水と申す瀧」が当地にはありました。田村麻呂は、この瀧の神に鬼神討伐の加護を祈ったということになります。

 黒石寺妙見堂に祀られている妙見菩薩の解説は以下です。
「妙見尊星王や北辰菩薩ともいい北極星を神格化しその本地仏。童顔の武将仏で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)に乗り、唐服を着、笏や剣を持つ。
 脇侍は北斗七星を示す北斗菩薩。道教・陰陽道の影響が強く、武運長久、国家安隠、五穀豊穣の尊神であるが、物事の真相を見極める霊力があるとされることから眼病平癒の霊力を持つといわれる。
 平氏、源氏の妙見信仰には篤いものがあった。
「北辰と言えば北辰妙見で、天御中主尊に繋がり、北極星(北辰)を神格化したもので、仏教でいう北辰菩薩、妙見、天王とみなす信仰です。この「天王」が牛頭天王(=素戔嗚尊)とされるから、妙見社に素戔嗚尊が祀られることも多い。」

「妙見信仰とは、一般には仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいうが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。
 道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできるとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないともされた。
 この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したという。
 この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。
ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かである。」


2018年5月14日月曜日

1304「扉開き8」2018,5,14

 次の目的地は岩手山麓にある八幡平市柏台さくら公園にある釜石環状列石です。その紹介です。

「尾寄木の畑地域の通称釜石に祭祀跡ではないかという説が有力な環状列石(ストーンサークル)があります。
 昭和28年に発掘調査された同遺跡は、縄文末期(2,500~2,600 年前?)の人々によって作られ、環状列石群の中央のものは直径12mもある大型なもので、その中央には火を炊いた後がある直径1.5mの石囲いがある。
 北側には縦横2mの石を敷き詰めた祭壇状の張り出しがある。祭壇状の石敷きに立ち真南を見ると、中央部の石組みの延長上に岩手山の山頂部が見通せた。さらに周囲には、衛星のように直径3m程度の小型の環状列石が配置されていた。少なくとも大小7基の環状列石が確認された。発掘現場は埋め戻されていますが、隣接のさくら公園の一角にレプリカとして復元されており、この現場写真の一部や資料は八幡平市歴史民俗資料館に所蔵展示されている。
 環状列石の周囲には住居跡が発見され、さらにその付近からは土器、土偶、土版、石版、石器などが発見されている。これらは縄文晩期の亀ヶ岡式土器であるという。
 発見者は柏台地区の工藤栄三郎で、松尾鉱山小学校屋敷台分校在学中の昭和15年4月に発見した。最初は不思議な物としか思っていなかったが、樺山環状列石の発見により当時を思い出し、昭和26年工藤によってさらなる調査が行われた。石器や土器が出るので巨石記念物であると思った工藤は、現地は耕地のため早期に調査をしないと除去されることを危惧し、慶應義塾大学の江坂輝弥教授に現場写真を添付した。昭和27年8月、岩手県教育課と江坂教授が調査を行い、さらに11月岩手県文化財専門委員の板橋源岩手大学教授と、慶應義塾大学の松本・江坂教授による予備調査が行われた。さらに昭和28年5月発掘調査が実施され、巨石記念物や住居遺跡の発掘が実施された。当時の発掘された土器や石器、土偶は地元に返還される予定であったが、研究が終わり2017年慶應義塾大学より返還され、岩手県八幡平市博物館で企画展「おかえり松尾釜石環状列石」が行われる。
 2012年個人が所有する土偶の下半身部分と、慶應義塾大学に保存されていた土偶の上半身部分がぴたりと接合することが分った。これは、岩手県立博物館専門学芸員の八木勝枝が発見、確認したもので、2012年7月14日から盛岡市県立博物館の「土偶まんだら展」で一般公開された。発掘から半世紀を超えて接合が確認されたものは珍しく話題となった。土偶は上下を合わせると、身長24cmともなった。」







 岩手山を間近に見る公園は雪解けでぬかるんでいて歩くのは難儀です。レプリカの環状列石を見て小高い丘であわ歌を響かせました。響かせ終わりお言葉をおろされる時ににわかに雪がサーサーと降り始めるではありませんか。驚きで、これもお徴しです。その時のお言葉です。
          
「来る8月8日には、振り来るあめ(天芽?)がそれぞれに参りて、
 一つと成し行くなり。
 一人びとりがご自分の立ちたる場所を踏まえて、
 天地繋ぎて下されませ。」 11:38

 8月8日とあります。昨日のあわ歌会でもHさんに下りたお言葉にも8月8日とありました。「あめが各自に参り、一つと成し行く。各自の立つ場所で天地を繋ぐ」という大事な時になる様です。中山さんはその時は海外の様ですが、各自がそれぞれの地で頂くことになるのでしょう。

 昼食は奥州市水沢区にある西京庵で美味しい釜飯らんち膳を頂きました。美味しいのですが食べきれずにお持ちかえりです。お店は日曜日がお休みですが、たまたま法要の予約があったとかで私たちも受け入れて頂けました。ラッキーで個室でゆっくり出来て豪華な内容で皆さん大満足です。西京庵はうなぎの専門のようで又伺いたい良いお店でした。




2018年5月13日日曜日

1303「扉開き7」2018,5,13

 清清しく8日朝を迎えさせて頂き、朝風呂、美味しい朝食を頂き元気に皆さん8時に宿を出発しました。宿の皆さんが手を振って送り出し下さいました。嬉しき、ありがたき事です。

 最初の目的地は岩手県九戸村の九戸神社です。九戸神社の紹介は以下です。
「第54代仁明天皇の承和9年(842年)6月15日に勧請されたと伝えられる。古来 より北辰妙見宮、九戸妙見と称され、当地方の開拓興業の産土の神として篤く信仰され、また九戸村の総鎮守として、九戸家代々が戦勝を祈願した神社として知られている。
 明治元年(1869年)、九戸郡一ノ宮の故をもって九戸神社と改称された。 
毘沙門天、天之御中主大神、宇迦之御魂大神」 

「星の信仰でもある妙見信仰だが、星座の「座」は「くら」とも読み馬などの「鞍(くら)」と結び付いて、牛馬の守護神ともなった。「星座」という言葉は、司馬遷「史記」には登場するので、紀元前には既にあった言葉で、かなり古くから日本にも伝わっている。
 ところで「豊前志」に細川氏が熊本藩主になると、足立妙見を再興し、一戸妙見へ社領を寄進したとある。ここでの一戸は「ひとつと」と読むのだが、ここもまた馬の牧に関係する地の様である。ここで思い出したのが、岩手県から青森県にまたがる一戸~九戸なのだが、元々「戸」とは、食べ物を煮炊きするものに関わり、転じて家の単位や集落を意味するようになった。ただ「戸(へ)」はアイヌ語からきているという説もある。また「柵戸(きのへ)」に関わるものであろうという、やはり牧に関する説もある。どれにしろ一戸~九戸は古代から馬の名産地であった事から、やはり馬に関わる地名であったのだろう。
 しかし何故に一戸で始まり、九戸で終わるのか?十戸があっても良いとは思うのだが。余談だが、遠野も本当は「遠野閉伊(とおのへい)」で実は「十戸(とおのへ)」ではなかったかとも云われている。
 ただこうして、達曽部の駒形神社には妙見宮が結び付いているのだから、馬と妙見を結びつけて一戸~九戸を考えて見れば、妙見の九曜紋が浮かび上がる。九曜は、北斗七星の七つ星に、太陽と月が加えられ九曜となっている。その九曜という数字を重視すれば、一戸~九戸という九つの数に収まっているのは九曜を意識しているのだと考えるのだ。
「新撰陸奥国誌」によれば、坂上田村麻呂伝承が付随する乳井神社・鹿島神社・岩木山神社・熊野奥照神社・猿賀神社・浪岡八幡宮・大星神社の七つの神社は北斗七星型に配置されているという。最後の大星神社は、そのまま妙見宮でもある事から、かなりの妙見信仰の形は入り込んでいる筈だ。そのような事から、一戸~九戸の九つも妙見である可能性は高いであろう。」https://dostoev.exblog.jp/19806075/





 九戸神社社紋は三日月九曜門で、ここは九戸妙見として有名です。境内に名君九戸政実を祭る政実神社が祀られています。神社本殿前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「お~ ひあ~あ~(拍手)
 お届け致したり。紅の遥かなる光、許されたるは真新しきなり。
 踏み行きて進まれませ。」 9:38

 次の目的地は八幡平市松尾にある長嶺神社・長者屋敷清水(長者屋敷公園)です。以下その紹介です。看板には「アテルイのふる里マトーコタン」とあります。  

「長者屋敷清水について
 小川の流れる緑地帯の中に朱塗りの太鼓橋や東屋などを設けた長者屋敷公園。その一角、木立に囲まれた高さ10m程の岩壁の割れ目から清水が湧き出している。当地の大盗賊を討伐に来た坂上田村麻呂が、天皇より下賜された太刀をこの水で清めたとも言われている。あの坂上田村麻呂も剣を洗ったという清水
 長者屋敷は、8世紀の豆渡長者の館。後にエミシの国の棟梁となった長者こそ、大和朝廷が悪路王と呼び恐れたアテルイとの説が。屋敷は今も緑美しく、長者の水は岩手県の名水20選に選ばれている。」

「長者屋敷は、縄文時代から平安時代までの重層の大規模遺跡が出土しており、蝦夷のチャシ(砦)跡との説もある要害の地で数々の伝説があります。
 一つは、奈良朝時代、高丸悪路の子、登喜盛の居城で登喜盛長者屋敷と呼ばれ、登喜盛一族が各地からかすめ取ってきた財宝を貯えて住んでいたといわれています。
 また、名家神子田多賀康の娘「岩花」が家宝のお釜と共に幽閉させられた場所で別名御釜屋敷とも呼ばれました。財宝をかすめ取った登喜盛は、やがて征夷代将軍坂上田村麻呂に討たれて滅亡したと言い伝えられています。その折、将軍がこの場所に湧いている霊泉清水で太刀を流い清めたことから「太刀清水」ともいいます。
 古代からの水場と水神信仰場となっている長嶺神社は山王権現と称していましたが、大小の神社合併の際、新たに名付けた名称で、八つの湧口に境内合祀2社、境内に3社、境外に3社の八水神を祀っています。」








 清水は水汲みの方が来ています。神社奥に開けた原っぱであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「自らのその身にある、尽きせぬ大いなるを是より間断なく伝え来る。
 響き受けて、大いなる元へと繋ぎ、新しき身へと進まれませ。
 ご用意、整いたれば、それぞれのその身の中より発し行きて、
 繋ぎて結ぶ、嬉しきなり。」 10:54