2018年5月12日土曜日

1302「扉開き6」2018,5,12

 久渡寺を下りだすと、先ほどまでの曇天が嘘の様に変わって、天気が回復して見事な太陽が光を注ぎ青空に変わりました。善きこととのお徴を頂けた様です。
 次の目的地は北斗七星の蝦夷封じの毘沙門の最後の1つ弘前市乳井外ノ沢にある乳井神社・毘沙門宮です。大分前に中山さんとこの津軽の北斗七星の寺社を巡っていますのでこの乳井神社は2度目です。
 神社に向かう車中で中山さんが以下の様なものを書かれました。
「五目にならべてみなされよ。」升目と○の絵です。」升目では15の魔方陣が出来ます。○の四方に点があります。四方八方に中心柱をしっかり立てて拡げる事でしょうか。


 乳井神社の栞の内容を抜粋して紹介します。
○御祭神…武甕槌之命(=毘沙門天堂)、経津主之命、天手力男之命(=戸隠大権現)
○由緒…当社は、平安時代承暦2年(1078)8月3日東寺の分客として嘉畳承山福王寺と名付け、当地に伽藍造立をもって創建とされている。以来、「心願成就の守り神」「武運長久」「息災延命」「五穀豊穣の守護」の神として時代の国主や藩主、武家並びに町家商人農村の民衆にいたるまで毘沙門天王のご神託=一度我が前に来たりて一礼をなすものには神力を添えて思いを遂げしめん況して日を重ねて頼まん人に於ておや=に敬神の念篤く、人々の信仰生活に深く関わり、心の頼所として広く信仰され続けて居ります。又、歴代の津軽藩主(初代為信公より12代承昭公まで江戸期全藩主が参拝)にも崇拝され、社領8石5斗を賜り、特に3代藩主土佐の守藤原朝臣信義公は、康永2年天災にて焼失した社殿を312年の時を経て復元を企て、明暦元年8月元の如く再興(現在の拝殿)する等、明治4年(太政官布告をもって神仏混淆の廃止により毘沙門宮の号を乳井神社と改める)廃藩置県にいたるまで、津軽藩直願所として尊崇されてまいりました。
 現在も妙見信仰(北斗七星参り=7つの神社を参拝)が生きており、当社は最後の参拝所として多くの崇敬者が、願掛け参りを致しております。
○伝説…当社には、坂上田村麻呂将軍が悪鬼討伐の砌り、青森市の大星神社・浪岡八幡宮・平川市の猿賀神社・弘前市の熊野奥照神社・岩木山神社・西目屋村の鹿島神社と当社乳井神社の七柱に剣等をそれぞれに奉納した所、願いが叶ったと言う言い伝えがあります(北斗七星参りの始まりと考えられる)。
 この時に(延暦年中)、当地出身の南蔵坊(後に大同年中に十和田沼の八大龍を追い出し自ら主となる)が将軍の胸当の御鐘躰をもって安置奉りご草創の処、毘沙門天と戸隠大権現を勧請、奈良時代には、すでに在ったとも伝えられる。又、当所に往古より乳房形の岩より湧き出づる井泉あるが故に村号を乳井(ニウイ)と申すとあり、毘沙門様のご神託でこの井戸の水の色は白々と乳の如く、母乳不足の婦人が飲めば乳汁が充満すると言い伝えられ、その井戸は現存するが、水は涸れている。

 鳥居の注連縄には宝船の様に俵が積み重ねられています。本殿に上がり椅子に座ってあわ歌を響かせました。






その時のお言葉です。
「さて、これまで大いなる星と居たる。
 この地は変わり行き、この宇宙と2つの宇宙、
 しっかり繋がり、互いを守り行く。
 ここ大きく変わりて参るはこの事なる。
 皆々持ちておらるるこの振動の大いなる元へと帰り、一つと成すなり。
 北の星には大いなる讃え送るなり。」 16:53

「この地は変わり行き、この宇宙と2つの宇宙、しっかり繋がり、互いを守り行く。
ここ大きく変わりて参るはこの事なる。」そしてこれまでの北極星を中心とした信仰が変わり行くことの様です。中々に想像できない世界です。

 これで今日の予定は終了で宿に向かいます。お気に入りの大鰐温泉の不二やホテルです。ホテルは弘前大医学部の新入生のイベントで100人の団体さんで若者が沢山です。しかし何時もながら期待に違わず嬉しいお食事、温泉、一夜の安らぎを頂きました。2次会では私の秘蔵に玄米酒「十全」を皆さんで美味しく頂きました。