生憎の空模様です。車で東北道を北上し、集合場所の水沢江刺駅に定時より少し遅れて到着です。既に沢山の人が集まり、間も無くバスに乗り込む所でした。
案内には
「アシリ・レラさん、口羽和尚さん、天外伺朗さんと行く~ 東北・岩手縄文の聖地を巡る祈りの旅~ 映画「つむぐ」の監督吉岡敏朗さんがドキュメンタリー映画を撮影」
今年は東北・岩手に燦然と輝く蝦夷の英雄、アテルイの聖地や、縄文人の聖なる神々の降臨場であり、祭祀の場であったストーンサークルで祈りを捧げ、北上川源流(大河の一滴)、巨石、民話の里遠野などを巡ります」とあります。
しかし前日18日に事務局からアシリ・レラさんが身内の不幸があり急遽参加出来ないと連絡がありました。後で伺ったらその日に実のお兄様が亡くなられたとのことでした。レラさんのお弟子さんの花巻在住のSさんの先達で旅はすすめられることになりました。
集合場所で事務局の方々に挨拶をしていると秋田のSさんが声を掛けて来ました。よもや参加されているとは、思いがけない嬉しき出会いになりました。
最初の目的地は水沢江差駅の目の前の出羽神社です。大型バスは出羽神社のある羽黒山山頂までは登れません。県道の鳥居から皆さんは徒歩で20分程歩かれます。私は事務局のHさん、Iさんの2人を乗せて出発しました。車で登ると5分ほどで到着です。しかし、お昼のお弁当の受け取りで再度水沢江差駅に戻り、神社に引き返した時には、皆さん到着して何やら儀式の用意をされていました。
口羽和尚は御神木に向かって経を上げていました。
この出羽神社には何度も訪れていますが、以下が神社の紹介です。
「7世紀、8世紀はヤマトとエミシの相克の時代で、724年に多賀城を、759年に雄勝城をヤマトが築いたが、780年には海道エミシの伊治公呰麻呂が雄勝城を奪い、多賀城を焼き滅ぼした。
内陸の北上川流域では、族長アテルイのもとに大部族連合が結成され、およそ20年の間に、5万、10万、4万と3回にわたり送り込まれた政府側の大軍に、堂々と渡り合うエミシの軍隊が組織されていた(高橋富雄:辺境)と考えられる。
水沢地区の戦争は789年で、ヤマトの紀古佐美が5万の軍勢を進めたが、水沢江刺駅東方の羽黒山に400人の兵をひそめていたアテルイは、紀古佐美軍の退路を断って攻撃した。ヤマト軍の戦死者は20数名だったが北上川におぼれる者が1000名を超えて大敗した。
現在、羽黒山には出羽神社があり、すぐ横の小高い丘にはアテルイとモレを顕彰する碑が一般からの寄付金で建てられ、また、地元民の奉仕で発掘調査もおこなわれ、当時の遺品が見つかっている。
その戦いの主戦場が「巣伏」で小さい記念公園がある。ここは「跡呂井地区」でアテルイにかかわる地名である。丘の上には「たんぼアート」見物用のやぐらが建てられている。
その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には胆沢扇状地の北部に胆沢城を築いた。兵力だけでなく民力の消耗もあり、この年にアテルイとモレは講和に応じて平安京にのぼったが、危険人物として処刑された。
この一連の経緯をヤマトによるだまし討ちとする説もある。二人の魂は成仏を拒み、怨霊となって悲痛な声を上げながら都の空を飛びまわったともいう。
ゆかりの枚方市の片埜神社では毎年慰霊祭が行われ、また、田村麻呂の創建の清水寺にもアテルイとモレの顕彰碑がある。
アテルイにちなむ地名の跡呂井が水沢にあり、モレ(モライ)には母体(モタイ)地区が前沢にあり、アテルイの甥、人首丸にはヒトカベ地区があり、いずれも奥州市内の地名なのでアテルイ一族は奥州市を中心に統治していたエミシの豪族であろう。」
神社本殿の脇に焚き火が設えています。皆さんが揃った所で祈りが始まりました。先ずSさんが行うアイヌの儀式の祈りです。使われた聖水が皆さんのところに周り、お供え物の食べものも頂きます。しかし祈りの内容は分かりません。