「達谷窟毘沙門堂縁起:約そ千二百年の昔、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。延暦二十年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦二十一年(八〇二年)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞[おうしん]上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。〔後略〕」
悪路王たちは「この窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された」とあり、朝廷側による蝦夷征討の正当性・正義性が縁起化されています。この正当性・正義性の延長上に田村麻呂の美化・伝説化はあるといって過言ではないのですが、偽悪化された悪路王を史実の阿弖流為に戻してみれば、これらの縁起表現がまったくの虚構であることは明らかで、ゆえに阿弖流為ではなく悪路王という名の蝦夷の凶悪人が創作される必要があったといえます。
東北の寺社にみられる田村麻呂の伝説化・美化は、西国においては神功皇后に相当するものですが、いずれにしても、朝廷の征討論理を糊塗しつつ歪曲的に正当化する構造となっています。多岐神社の由緒の前半も、この田村麻呂の美化伝説を踏襲したものですが、悪路王にしても三光岳の岩盤石という「鬼神」にしても、史実レベルでいうならば、朝廷側の一方的侵略軍に対して抵抗した蝦夷の首長たちを偽悪化したもの以上ではありません。
阿弖流為や母礼を首領とする蝦夷の抵抗は延暦二十一年(八〇二)までつづくも、同年四月十五日、阿弖流為らはついに田村麻呂軍に降伏、京に連行された阿弖流為たちは、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、八月十三日に斬刑に処せられたとされます。この田村麻呂の助命嘆願が史実であったかどうかは検証のしようもありませんが、田村麻呂の美化・伝説化の端緒的動機とはなっています。
多岐神社由緒は、田村麻呂が悪路王をはじめとする岩盤石の討伐に難渋していたとき、「東光水と申す瀧」の「化神」の加護によって勝利を得たとしています。また、田村麻呂が一社を建立し「多岐宮と号し崇め」たのは「延暦二十一癸未年(癸未は延暦二十二年…引用者)八月の事なり」としています。延暦二十一年八月は、阿弖流為たちが斬刑に処された月でもあり、由緒が延暦二十一年にこだわっているとしますと、この符合は偶然ではないようにみえます。『日本紀略』同年七月二十五日条には、蝦夷平定の祝賀の会が朝廷内で催されたとあるように、朝廷サイドからすると、積年の難敵・阿弖流為たちの降伏(→処刑)は祝賀に値するほどの画期だったようで、その象徴的な年が延暦二十一年でした。
朝廷側による一方的侵略に対して、自立自尊・専守防衛に徹する蝦夷は、侵略側にとっては理解の外にある存在で、これも一方的というしかありませんが、蝦夷は未開の野蛮人・異人、つまり「蛮夷」とみなされていました。しかし、阿弖流為の時代、彼の本拠地近く(奥州市水沢区黒石)には、天平元年(七二九)行基による薬師如来の造像および薬師堂建立伝承(開基伝承)をもつ黒石[こくせき]寺(旧正月七日夜半から行われる「黒石寺蘇民祭」の奇祭でよく知られる)がすでにあり、ここは阿弖流為の信仰とも関わる可能性があります。」
達谷窟毘沙門堂に入らずに、前の道路脇に流れる川原の淵で達谷窟毘沙門堂の岩壁に向かってあわ歌を響かせました。
爽やかな川の流れで心地良く、太陽の光がエネルギーを降り注いでくれています。歌い終わって以下がお言葉です。
「大いなる日暮れに向かうこの世にありて、
ひたすら響き持ちて、この北の地に十字を結びて、
遥かへと発するは大いなる力なり。
皆々様、その身の中心しっかり据えて、
是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」 16:09
日暮れに向かう世に今回は縦に南北に繋ぎましたが、次回6月は横に東西に繋ぎ、十字を結びます。是は大いなる力となる様です。各自が中心をしっかり据えてこれから進み、乗り越えて新しき嬉しきへ迎える様に念願です。