2018年5月11日金曜日

1301「扉開き5」2018,5,11

 次は少し視点を変えた紹介です。
「久渡寺は岩木山と弘前城を霊的に守護する寺である津軽三十三霊場第1番でもあります。
 久渡寺観世音の起源は、延暦年間(782―806)、三千坊の一寺として阿闍羅山(大鰐町)に建立された補陀洛(ふだらく)寺にさかのぼるという。また、久渡寺山は坂上田村麻呂が建てた阿闍羅千坊のひとつともいわれ、その古宮と伝わる跡がいまもある。
 久遠寺はもとは町の裏鬼門の守りとされていたが、現在の位置に移転されたと言われるが、気持ちの上での岩木山の守りと城の守りを負っている。久遠寺は岩木山の山頂から岩木山神社の参道を南下したところにあり岩木山神社の百沢寺と同じ真言宗の寺で関連性がある。久遠寺でイタコが死者の口寄せなどをするオシラ講は明治から始まり急に盛んになったと言われる。それは男性の山伏が神仏分離令でいなくなって、その代わりの仕事を梓巫女とも呼ばれていた女性のイタコが果たしたといわれる。
『風水で読み解く弘前』佐々木隆 北方新社より引用」

 久遠寺は、まさに『四』(死)を連想させるにふさわしいのです。そして風水都市『弘前』がこのトライアングルによって封印されていることが見受けられます。このトライアングルに重なるように北斗七星の蝦夷封じが存在することは小館哀三氏の『岩木山信仰史』の中で紹介され、以前から知られていました。
 

横内の妙見宮(青森 大星神社)
浪岡の八幡宮
猿賀の深沙宮
弘前の熊野宮(熊野奥照神社)
岩木山神社
村市の毘沙門宮(相馬村 鹿島神社)
乳井の毘沙門宮(大鰐町)
 津軽では毘沙門天の寺社七つを北斗七星に形どって結び、田村麻呂制定の鎮護の秘法として信仰する記録が残されている。いずれも、天台ー台密系である。
『岩木山信仰史』P84より引用

 桓武天皇は、東国平定に妙見信仰を推奨し、その命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂は、毘沙門天の化身とされる所以であります。非常にイビツな北斗七星ではありますが、それぞれの神社が素晴しいエネルギーであり、信憑性が高いのであります。
 大鰐町の乳井神社は、八郎太郎伝説の南祖坊が熊野権現のお告げを聞いた場所でもあります。また、岩木山神社の祀神は、現在 顕国魂神 多都比姫神 宇賀能売神 大山祇命 坂上刈田麿となっていますが、これは明治以降のことでそれより前の時代は、国常立命(阿弥陀如来) 多都比姫命(十一面観音) 大己貴命(薬師如来)が岩木山三所大権現の秘神として祀られていたのであります。
 津軽の『三四五の封印』を解くにはまずはこの北斗七星をフラクタルで浄化するのが手っ取り早いようですが、そう簡単にはいきません。違うあるポイントを浄化しなければ、岩木山神社が開かないようになっているのです。」
{津軽の『三四五の封印』http://aomorijikuuken.blog114.fc2.com/blog-entry-233.html
 
 久渡寺の227段あるという階段の参道は長い登りです。足元の悪い中、皆さんどうにか頑張って正面の聖観音堂まで登りきりました。まだ雪が残っていてぬかるみが酷いです。お堂の右側には250躰の観音石蔵が祀られています。聖観音堂の前であわ歌を響かせました。



 その時のお言葉です。

「お~お~
 たちどころに晴らすぞよ。
この地に巣くう多くの諸々、ささ参れよ。(拍手)口笛の様にヒュー」 15:45

 この地は強烈な霊存在が居られるようで中山さんはその影響で暫く座り込んでしまう程でした。この地が多くの諸々を納め鎮めていたようです。今回、このようにあわ歌を響かせる事が出来て善き流れ、扉開きになったのではないでしょうか。