昨年の青森の祈りの旅に参加しましたので、また、日本列島祈りの旅の取り組みに賛同者に私が名を連ねていることもあり講演会に参加してきました。著書(ナチュラルスピリット社刊)も読ませていただきましたが興味深い内容でした。
講演会はアイヌ長老のアシリ・レラさん、沖縄久高島のノロ真栄田苗さん、天外伺朗さん、祈りの旅を映画撮影している監督の吉岡敏朗さんの予告上映、最後に講演者に含めて、祈りの旅で大事な役を果たされている真言密教の修験者口羽秀典さんも含めたパネルデスカッションが行われました。
講演会の内容を少し紹介します。最初に演者の皆さんが登壇し、天外さんがインディアンの言葉を発し祈りを捧げ講演は始まりました。冒頭に天外さんからの
「大変な事が分かってきた。今は平和な時代になっているがこの地では虐殺の歴史があり、それらが封印されている。2016年から封印を解く旅を始めた。」
と簡単な挨拶がありました。
最初はアシリ・レラさんのお話です。
「私は北海道の平取町二風谷の生まれで、名前のアシリレラは「新しい風」の意味です。
42歳の時に祈りの旅に入りました。最初は青森県の恐山から入りました。しかし雪で通れなかったので諦めて帰りました。そして春5月に又行きました。祭りでないのでまだおばー達はいない、不気味な程に静かでした。方々にお供えをしていたらお金がなくなりトマトや大根を食べながら過ごしました。そして帰りは軽トラに乗せてもらってフェリーの船乗り場まで送ってもらいました。
13000年前は日本列島は大陸と陸続きでした。日本にはアイヌ民族がいました。しかし侵略、植民地化され、口の元と言う名のもとにアイヌは虐殺されました。アイヌは地球を大事にし、天、地、大陽、海、山、川など6つを大事にしていました。手を合わせて祈っていました。何故、アイヌは戦わなかったのか、それは神の掟だからです。
1200年程前、坂上田村麻呂は、父の坂上苅田麻呂がアイヌの娘ピリカに身ごもらせ洞窟で生まれました。苅田麻呂は自分の子の証としてピリカに小刀を授け、成長したら名乗り出るようにと伝えました。アイヌの血を継いだこの子をアイヌの征伐に利用しようと思ったのです。
やがて田村麻呂は城に上がり征夷大将軍になりました。ピリカの教えを振り切ってそうなったのですが、長い戦の中で自分をアイヌと認識し始めました。日高見(北上)の川にいてアテルイと瓜二つと気付いたのです。
アテルイと和議を結び、モレなどを引きつれて京に同行しました。しかし帝達は田村麻呂の意を認めずに、大阪枚方交野神社があるところで処刑され銀杏の木の下にアテルイとモレが埋められました。
ピリカは化粧坂で城に上がったが悪玉姫と名づけられ、田村麻呂はその子なので悪玉と呼ばれていました。
歴史は勝者により1つ1つ抹殺されてそのまま1200年過ぎました。やがてアテルイとモレの顕彰碑が建てられました。京都の清水寺にお墓があるが嘘の墓です。田村麻呂は1キロ先に、死しても都を守れと甲冑を着て竹ざおを刺されて立って死んでいるのです。
羽黒山(奥州市水沢区)に悪玉姫像が建っている。1212年アテルイの供養が行われ、1213年で田村麻呂も見つかったのです。
1456年に北海道松前のコシャマインの酋長が部族を守る為に立ち上がった。コシャマインの戦いだ。やがて和議を行ったが毒を盛られ崖から突き落とされた。コシャマインの事を思いコタンを守りたいと祈っていた。
※コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌと和人との戦い。
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人(渡党)に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬[1]、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。