2018年5月23日水曜日

1313「祈り3」2108,5,23


 講演会の内容から少し離れますが、アシリ・レラさんの講演会は仙台でも天外さんと一緒に開催した事があります。アイヌの活動家としてのアシリ・レラさんのインタビュー記事がありましたので紹介します。http://www.papersky.jp/2015/01/06/asir-rera/

Tomoko Kusakari, 2015/01/06
 日高山脈から流れる沙流川沿いに開けた山裾の集落、北海道平取町二風谷。ここでは山と川からの豊かな恵みを得て、昔からアイヌの人びとの暮らしと文化が営まれてきた。その末裔である山道康子さんは、彼女を慕う多くの人たちから、アシリ・レラさん(アイヌ語で「新しい風」の意)と呼ばれている。二風谷ダム建設で揺れる時勢を受けて15歳からアイヌ女性活動家として奔走し、アイヌの文化継承と職業訓練のためにアイヌ語学校を設立。その傍ら事情がある子どもを引き取り育てあげてきた。世界各地で儀礼を行い先住民族との交流も多いアシリ・レラさんを、彼女が主宰する「アイヌモシリ一万年祭」の会場に訪ねた。
 
―おいたちから聞かせてください。
 今から68年前の2月のことでした。私は雷が落ちたときに生まれたそうです。私を雷神の生まれ変わりと火の手を恐れた両親は、一度私を外に捨て、拾って東の方角から家に入れて「この子が落ちていました。人間の子として入れます」と、カムイに申し送りをしました。そうやって人間の子として授からせてもらう儀式をしたそうです。
 貧しくても道徳を重んじる両親のもとで、私は山や川で熊の子みたいに遊んでいた子どもでした。学校をさぼってばかりいる私を見かねて家庭訪問に来た先生に対し、母が「普通の子といろいろ違うのでご迷惑をかけますが、やる気になったら学ぶでしょうしやる気がない時に押しつけてもやらないでしょう」と笑って追い返したのを覚えています。子を守る愛の強い人でした。父親はアイヌ民族のアイデンティティを確立しようと猛烈に勉強し、尋常高等中学校を優秀な成績で卒業した人でした。教師を志しましたが、アイヌであるがゆえに夢は叶わず、山奥に引きこもり、炭焼きで生計をたてていました。
 当時の北海道では、線路の敷設工事やトンネル工事でアイヌや朝鮮人、日本の囚人が奴隷のように働かされる状況が続いていました。父は工事現場に炭俵を3つか4つ売りに行っては、帰りの炭俵にひとり入れて逃がすということもしていました。アイヌよりも悲惨な扱いを受けていた朝鮮人の男がこう叫ぶのを聞いたそうです。「茅葺きの家に逃げろ」。アイヌの家に逃げ込めば生きて帰れると。そういう話を仲間としては「こんなことが許されてはいけない」と話す父の姿をよく見てきました。「もしかしたらうちの父親、政治犯かもしれないな」と思いながらね(笑)。
 
―アシリ・レラさんのさまざまな活動は、そんなご両親の姿を見ていたから?
 そうです。自然のあらゆることを教えてくれました。動物が木の実を食べて排泄することで種を撒いていること、リスは冬眠のために埋めた木の実の食べ残しが翌年には発芽し、森をつくること、川岸に柳を植えると根が張って護岸になること、柳の根の下に魚は産卵し、天敵から卵を守ること……いろんなことを教わりました。小学6年くらいになると、父は急に厳しく読み書きを教えるようにもなって。当時は多くのアイヌが借用と偽られて土地を奪われていたので字の勉強は重要と思ったのでしょう。
 山が開発され、洪水はひどくなる一方で、アイヌ研究が始まり、学問という名のもとに先祖の墓がどんどん掘り起こされていました。最終的に日本人はみんなアイヌのルーツである縄文人が原点だという結論に達したけど、骨は持ち主に返してほしいと憤りを感じていたんです。だけど厳しい時代を生きてきたアイヌの老人たちは「日本語を話せ」と言う。アイヌ語は記憶伝承だから、しゃべらなくなると、子どもたちは覚えられなくなる。思春期の多感な時代にいろんな思いが渦巻いていた私は、中学校の卒業式にアイヌの鉢巻きマタンプシをいつもと同じように巻いていきました。そうしたら「それを外すなら卒業証書をやる」と言われました。私は卒業証書をビリビリに破いて、運動の世界に飛び込んだんです。
 
―このアイヌモシリ一万年祭も今年で26年目になりますが、一万年という言葉にはどんな思いがあるのでしょうか。
 一万三千年前は日本も大陸と陸続きでした。当時はアイヌの祖先である縄文人が南までいて、後からきた渡来の文化と融合して日本の文化が形成されているので、もちろん日本人は混血だし、アイヌも今は赤ちゃんに蒙古斑が出るようになりミックスが進んでいます。長い間、血と破壊の歴史は繰り返されたけど、一万年前はすべての人は神の子で、大地はウレシパ・モシリ(互いに育ち、育み合う大地)だった。だから一万年前の原点に戻ろうという思いがあります。会場のあるここは、新冠の御料牧場建設のために強制移住させられたアイヌがいた場所。同じように労働に従事して亡くなった朝鮮人、日本人の慰霊も兼ねて毎年お盆の時期に行っています。