「北方の世界、アソベとツボケ
津軽の先住は2万年前にシベリア-サハリン-北海道-本州と南下した古モンゴロイドのマンモスハンターとスンダランドの末裔のアイヌで、彼らが5500年前の青森の三内丸山遺跡(5500年前)の主力ではないでしょうか。
ところで縄文晩期(3000年前)に遮光土偶を生んだ亀ヶ岡文化の渦巻き模様はアムール川流域の少数民族の衣装にあるものと似ていますね。縄文後期に衰退を始めた縄文文化が
晩期に亀ヶ岡文化として新たに花を咲かせた理由は、東日流外三郡誌にあるツボケ族と
先住のアソベ族のコラボによって生まれたものではないでしょうか?
アイヌ語と思われる地名が北東北3県に集中していますがアイヌ人の遺跡が北東北にはありません。縄文晩期に本州アイヌのほとんどがは北海道に移住したと考えられます。
東日流外三郡誌にでてくるアソベは阿蘇辺で津軽の岩木山麓ですが、阿蘇はまた九州ですね。青森県の大山元I遺跡からは7500年前の丸太船が見つかっていますが、鹿児島の南海沖の鬼界カルデラの大爆発が7300年前ですので九州や西日本の縄文人が青森まで来ていたという仮説は成り立ちますね。
津軽はアソベが優勢だったのでツボケは青森の太平洋側に移動し旧南部領の岩手、宮城と南下したと考えられます。青森県の都母(ツボ)の国といわれる地域は十和田湖から下北半島にまたがるエリアですね。またツボケの地名が下北半島東通・岩手県早地峰・雫石町・宮城県丸森町に残っています。東日流外三郡誌などの伝承では、ツボケは「東方から舟で来た」とありますが北海道の道東から船で津軽に渡来したオホーツク文化圏を作ったグループではないでしょうか。
ツボケが沿海州から来たのなら西方から船で来たと書くでしょう。沿海州~黒竜江付近にいた「マッカツ」や「シュクチン」は直接日本列島には来なかったということですね。
百済王族と出羽・陸奥 727・神亀4年,記録上最初の渤海使24人が蝦夷地に到達し,16人が蝦夷の手によって殺害され,命からがら逃げのびた8人が出羽国に漂着しますが沿海州から直接、単発的に津軽に漂着した場合は前述のようなことが起きますので可能性は低いですね。
沿海州よりも北のアムール川流域やシベリヤから樺太、北海道(オホーツク文化)、東北の太平洋側と日本列島の住民に同化しながら南下した人々がツボケであり、陸つづきに沿海州に南下したのが靺鞨や粛慎で、大和朝廷の日本書記は上記の区別がつかず、658年阿倍比羅夫が北海道で蝦夷と粛慎を戦ったと記載したのではないでしょうか。
樺太やアムール川河口に居住する二ヴフ族がツボケとも仮定できますね。北海道のソーラン節や東北の民謡にはモンゴルの民謡とよく似たメロディーや節周りがありますが、モンゴル族とシベリヤやアムール川域の各族はDNA鑑定ではかなり近い関係です。アムール川の二ブフ族とアイヌや本州人にも共通する遺伝子が存在しますね。
ツボケの地名が北海道に残っていないのはアイヌがツボケ(≒コロボックル) の領地を奪ったからではないでしょうか。
要約しますと北海道に3系統の人類がいたということではないでしょうか。
①北海道の蝦夷A-アイヌ(スンダランドの末裔)
②北海道の蝦夷B-古モンゴロイド。日本列島に拡散
(石器と共に日本列島に渡ったマンモスハンター)
③北海道の粛慎-アムール・樺太から南下した部族(新モンゴロイド)
南部地方に侵入したツボケ≒オホーツク文化圏も含む。
④東北のツボケ-③に同じ、⑤東北の蝦夷に同化し列島に拡散。
⑤東北の蝦夷-②に同じ。
⑥津軽のアソベ-南方系〔日本海流とともに北上した民〕。
7500年前の鹿児島沖の鬼界カルデラの大爆発により東日本、東北に移住。
北海道産の黒曜石の鏃が沿海州から見つかっていますので縄文時代には北海道・サハリン・アムール川域・沿海州の交易ルートは存在したと考えられます。
また津軽は本州の北部 日本海に面していながら、日本海流が北上する本州の最終地に当たり、九州や南方の結びつきが以外に強かったと考えられますね。水稲稲作も関東地方より早く弥生中期に始まっていますから。九州の遠賀式土器も津軽で発見されていますね。」
http://www.vill.showa.fukushima.jp/
この記述を見ると、今の歴史に全く登場しない人々がこの津軽の地で長い時間の歴史を作り上げ、栄えていたように思えます。また、遮光器土偶の姿を見ると地球外存在とも交流が会った様にも思えますが如何でしょうか。