・生きることと日々の悟り
私が仏門に入るきっかけとなったバングラディシュでの経験をお話しします。
マザーテレサのところにいたシスターたちがコレラが蔓延する最前線で救護活動にあたっていました。医薬品が不足し、バタバタと人が死んでいくなかでシスターたちはこれらに感染しませんでした。
外国から来たジャーナリストや国連の職員たちも次々とコレラに感染して、退却を余儀なくされていましたが、シスターたちは無防備であるにも関わらず無事なのです。
彼女たちは「神のため」という一心でやっていて、自分の健康や命の心配をしていません。それでも結果的に彼女たちは死にませんでした。それで、それを見て「なんてことをしているんだ」と思いながら写真を撮っていた私がコレラに感染してしまったのです。患者に触れてもいないのにです。あのような患者だらけの状況にいれば、むしろ感染して当然ではありました。しかしこれは何だろうと思いました。
シスターたちはインド人です。ヨーロッパ人ではありません。その事が関係しているだろうかと思いました。彼女たちが持っているバックボーンというのは何だろうかと思いました。彼女たちがクリスチャンですが、その根底にインド古来の考え方が備わっているでしょう。それが関係しているのだろうかと考えましたが、結論は出ませんでした。
人生には三大質問があるといわれます。
1つ目は、「あなたは何のために生まれて来たのですか?」
2つ目は。「あなたは何のために今いきているのですか?」
そして3つ目は、「あなたの仕事の目的は何ですか?」
この人生の三大質問に日本人で即答できるでしょうか。どれだけキャリアを積んできた人でも、即答は難しいのではないでしょうか。ところが、インド人ですと子供に聞いても即答します。チベットの遊牧民の子どもでも即答します。
これに即答が出来ないと、何のために生きているのかも分かりません。何のために死に向かっているのかもわからなくなってしまいます。人生の目的がはっきりしないということは大問題で、それではうまく死ねないし、うまく死ねないという事は、うまく生きられません。当然、悩みごとも尽きないという事になります。
インド人が答えるであろう答えはこういうものです。
「何のために生まれて来たのですか」という問いに対しては「前世の自分のしたことによって生まれてきた」と答えます。カルマの法則です。それから
「何のために今いきているのですか」と問われると、「人は徳を積むためにいきている」と答えます。「徳」はインド語でグナと言いますが、ビルマであれタイであれどこであれ、仏教圏では人は同じ答え方をします。そして
「仕事は何のためにやっているか」と問われると「悟るためにやっている」と答えます。「悟るために」とは自分が納得出来る生き方をかみしめるために、手応えのある生き方をするためにという事です。「悟る」にも4段階あり、ここでいっているのはその前の方の段階です。ブッダになるとか、そういうことではありません。
インドでは身分の高い人が、自ら乞食に身をやつすということもあります。これはひとつの巡礼の作法でもあります。年配になり、ある程度の名誉を得ると家族や家や職業を捨てて、各地を来世のために巡礼して歩くということがあるのです。無所有になり、お金も持たずに、皆から食べ物の施しを受けながら聖地を巡礼します。どこで亡くなっても家族に知らされません。亡くなった場所で火葬にされて終わります。そういう人生を選ぶ人が今でも沢山います。
来世の事を1番に考えている訳です。この人生に生まれたのは前世に原因があり、今世はどんな来世を迎えるかということの原因となるわけですから、死ぬ直前まで徳を積む努力を惜しみません。
死が終わりであるとはだあれも考えておらず、次のスタートととらえています。ですからギリギリまで生きる事に努力し、よい来世を願ってあきらめずに徳をより多く積もうとします。仕事も徳を積む手段であり、同時にその中で、悟りを得る事の出来る大切な道なのです。