2019年12月10日火曜日

1881「真向法全国大会3」2019.12.10

 翌日は快晴の天気に恵まれました。6時半からおはよう真向法です。30分ほどの体操指導の後、佐藤津一副会長から閉会の挨拶があり、全ては終了しました。和やかな中に、同行同修の真向法愛好家の面々が全国から参集され、初期の目標は達成できたようです。本部事務局の皆さんのご苦労が皆さんの笑顔でのお別れに繋がりました。数々のお世話、ありがとうございました。
 
 私は朝食を頂いた後は1か所寄り道をして仙台に帰りました。寄り道は琵琶湖に浮かぶ竹生島です。以前に何度か訪れていますが、久しぶりに弁財天、龍神様にお会いしたくなりました。
 琵琶湖は滋賀県の面積の1/6を占める日本最大の湖です。竹生島は琵琶湖の北ですので
大津からはかなりの距離です。大津から長浜まで電車で、そこから観光船です。駅から10分ほど歩きますが船は沢山の乗客が列をなして乗船待ちです。
 

 竹生島の名称ですが、「神を斎(いつ)く島」から「つくぶすま」に転じ、最終的に「竹生島」となりました。島は以下のように紹介されています。
「沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島で、宝厳寺と都久夫須麻神社が祀られています。宝厳寺の本尊は弁才天と千手観音。弁才天は安芸の宮島、相模の江島とともに日本三弁天に数えられています。また、中世以来西国三十三所観音霊場の三十番札所として多くの参詣客で賑わっています。
 宝厳寺の唐門は秀吉の大坂城の唯一の遺構と伝わり、都久夫須麻神社の本殿とともに国宝に指定されています。近年は琵琶湖第一のパワースポットとして注目を集めています。「深緑竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つ。」

 島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岩壁で囲まれているのが特徴です。更に湖底遺跡があり、以下のように記されています。
「北側の対岸である葛籠尾崎の沿岸や竹生島との間には湖底遺跡(葛籠尾崎湖底遺跡)がある。最大で水深70mほどの湖底から、漁師の網に引っ掛かるなどして約140点もの土師器・須恵器や土器が、ほぼ原形をとどめたまま引き揚げられている。これらの製作年代は縄文時代早期から弥生時代、さらに中世まで幅広い時代に及ぶと考えられている。遺跡の形成過程については、津波などで集落が水没した、船が沈んだ、祭祀として沈められたなど諸説ある。水深や水流に阻まれ人間による潜水調査には限界があるため、ロボットによる探査が計画されている。このような遺跡は世界でも類がなく、沈積原因は今なお大きな謎に包まれている。」

 歴史的には
「古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島信仰の始まりと伝わる。南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)がある。竹生島神社は、明治の神仏分離令に際して弁才天社から改称した。竹生島は神仏一体の聖地であったことから、分離の際には少なからず混乱があったようである。ちなみに、竹生島弁才天は江島神社 (神奈川県 江の島)・ 厳島神社 (広島県 厳島)と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。
 戦国期には、近江国小谷城主であった浅井久政(浅井長政の父)が、長政への家督委譲を目論む家臣団によって一時的にこの島に幽閉され、隠居生活を強要された。琵琶湖沿岸を本拠地とした織田信長が参詣したことが記録されているほか、宝厳寺は豊臣秀吉とのゆかりが深い。
 近代には宗教家の大石凝真素美が琵琶湖の竹生島は人類発祥の地であると主張した(『大石凝真素美全集』1923年、国華社)。」