2024年6月30日日曜日

3474「因果応報」2024.6.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月18日「因果応報」と2024年06月19日「縄文回帰」の2つ記事を紹介します。


「因果応報」


21世紀に入ってから、ずっと日本は「一億総いじめ社会」などと言われ 

・不寛容な社会

・殺伐とした社会

・陰湿な社会 

が出現していました。 

それが、2011年の東日本大震災、そして「コロナウイルス」をきっかけとして、この冷酷な心が、少しづつ溶け始めています。

大きな犠牲のもと、神々がそう仕向けたのです。

このいじめ社会の中では、自分以外の他人の言葉や、行動に寛容さが足りず、すぐに歪んだ正義感を振りかざし、その雰囲気に付和雷同した人々とともに、相手をとことんまで、貶めて、再起不能にさせます。

非難する側は必ず「正義」を振りかざします。 

正義感を隠れ蓑に、他人を傷つけて、楽しむ心理があるのかもしれません。

今日は、人から悪口や、イヤミを言われた時どうすればよいか?

斎藤一人さんが非常に簡潔に、優しい言葉で大切なことを仰っていますのでご紹介します。

<転載開始> 転載元 


人間関係の問題は、いろいろあるんですけれど、

「これだけ覚えておけばいいですよ」というものがあるんです。

これだけ覚えておけば、いろいろな問題があるなかの8割は大丈夫。

解決するんです。

この世の中には“嫌なヤツ”っているでしょう?

イヤミを言ったり、いばったりする“嫌なヤツ”がどこに行ってもいるんですけれど、

それをやめさせようとしちゃいけないんです。

「復讐するは我にあり」じゃないけれど、復讐は人間がすることではないのです。

悪いことをした人には必ず、神さま(自分自身の良心)によって、同じように悪い報いがくる。

だから、ことのなりゆきは、天の神さまにお任せするんです。

そして…ここが大事なところですよ、いいですか。

「やられたらやり返せ!」って、その“嫌なヤツ”の悪口を言っていると、今度は言った人に、悪い報いがきてしまうんです。

自分の畑にピーマンをまいたからピーマンがなる。

自分の畑に、自分で麦をまけば、麦がなる。

そして、自分がまいたものを、自分が刈り取るんです。

隣の人が唐辛子をまいていても、唐辛子を収穫するのは隣の人であって、あなたではありません。

それと同じで、あなたがイヤミなことを言われた場合、悪いことが起きるのは、あなたではありません。

あなたにイヤミなことを言った、その人間です。

つまり、放っておいても、勝手に相手は痛い目をみるようになっているのです。

それを、あなたがもし「イヤミを言われて嫌な想いをさせられたんだから、こっちも、あの人にイヤミをお返ししてやるんだ」という気持ちでいると、あなたから、“居心地のよくない”ムード(波動)が出てきます。

それではあなたに、人も、運も、お金も、近寄ってきてくれません。

それどころか、自分が望まない、嫌なことを招き寄せてしまうんですよ。

だから、復讐しようとしちゃいけないのです。

復讐はあなたの仕事ではありません。

神さまの仕事です。

<転載終了>

 

よく人の悪口を言う人がいます。

また現在のようにネットが普及してくると、SNSで人の悪口や非難をする人も目にします。

もしかしたら、相手がいないところで、自分の周りの人に、悪口を吹聴している人もいるかもしれません。

そして、それに対して、反応してしまい、今度は自分が同じようにやり返す方もいます。

ですが、それらの行為は、一人さんが仰るように、やめた方が良いかもしれません。

今度は言った相手ではなく、仕返しをした自分自身が同じ土俵に立ち、同じような嫌な波動をまとい、自分自身の人生に不幸を引き寄せてしまうからです。

やられたからやり返す。

そうしなければ、自分は正しく生きているのに、何だか負けた気になってくる。

やられ損にはなりたくない。

それらの心では、必ず相手と同じ波長をまとってしまいます。

私たちの住む世界は、自分の心の状態が現実を作りますから、

その汚れた心と同じ現実が自分の周りに現れてくることでしょう。

ですから例え悪口やイヤミを言われたとしても、それを心に留めず、受け流し、受け取らなければ良いことです。

もし目の前で言われたのなら、ニッコリ笑って「ご忠告ありがとうございます。感謝します」と言って、離れたら、また元のようにご自分の信念に基づき行動すれば良いだけです。

ブッダもこのような時、静かに反論せず、受け取らなければ良い・・ そう仰っています。

人から根拠なき悪口やイヤミ、陰口を言われることは日常茶飯事ですので、一人さんの仰っる方法を実践するだけで、かなり楽に生きられるかもしれませんね。 

みなさんは、この言葉ご存知ですか? 

「断じて行えば、鬼神も之を避く」

断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。 

と言うことです。 

私は、これを

「ありがとう」の言葉を常に口にして、感謝の心で生きている人のことだと思います。 

「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、どんな人が、 

・蔑み(さげすみ)、

・陥れ(おとしいれ)

・危害を加え

・足を引っ張る 

ことができるでしょうか? 

また、神々が破滅の運命にひきづりこもうとするでしょうか?

これから先に、何が起こるのか、誰もが不安ですが、感謝の気持ちでいる限り、

どのような運命に置かれようと、必ず助けが来ることでしょう。

神々がなさることに安心して身をゆだね、身近な周りの方々と

笑顔と思いやり、お互い様の気持ちで生きていきたいものですね。

 


「縄文回帰」


日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。 

これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とは言えません。 

古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。 

そこで説かれることは、

・神々の恩寵は、人間の感謝の心を媒介として現れる

・神職など、職業的な立場の人を媒介とするのではなく、人間が心を清め、神々と直接的に繋がることが大切 

など。 

これらは、私たち一般人の、今までの常識とは少し異なっていることかもしれません。 

ですが、このことは古代から存在している由緒ある神社仏閣では、常識とされていた物のようです。 

私がこのことを、はっきりと知ったのは、春日大社の元宮司、さらに日本の形成外科医の草分け的な存在であった葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本からです。

  

巫女や神職など、人々と、神々の間に入り、仲介することを、職業として行い始めたのは、

多分、日本では大和朝廷設立 直前、つまり大陸からの好戦的な民族が日本全国を制圧し始める直前の邪馬台国の時代、卑弥呼やその後継、トヨなどの時代からと思われます。 

それ以前の日本は平和で、神々と人々が直接繋がり、世界一、平和で豊かな時代と言われる縄文の時代でした。

約1万5千年続いたと言われています。 

大陸から好戦的な民族、弥生族が来るまでは、争いもなく、所有の意識もなく、上下の違いもなく、人々、一人一人が純粋な心を持ち、それゆえに、みんなが直接的に、神々と繋がれた時代でした。 

もし、日本古来の神道というものがあるとするならば、それは縄文時代に一般的だった 

・物の見方、

・考え方、

・生き方

そのものです。 

そして、それはムー時代の生き方でもありました。

私たち日本人は、縄文の古来より、ムーの生き方を大切に守ってきた民族と言われています。

そして、その精神と伝統は今でも息づいています。

 

文明の大転換点である今、西洋で始まった産業革命に端を発した利益追求主義、行きすぎた資本主義、骨までしゃぶり尽くす金融資本主義は終わろうとしています。 

この終焉を迎えようとしている現在の文明では、人々は、ずっと真実から遠ざけられ、常に不安の中に置かれ、自立した魂の働きが封印されて来ました。

常にお金や権力に頼ろうとし、常に力ある者、能力あるものに頼ろうとする依存、執着の状態に置かれたのです。 

それは、彼らが軽蔑の意味で使う、ゴエム(奴隷)と言われる状態です。 

この時代、その仕組みを お手本に 

・大小様々な、依存・執着と

・それと一体となった支配 

が、私たちを身近で取り巻いて来ました。 

この精神構造は宗教でもそうでした。

イエスの生きた時代、イエスは、宗教など作りませんでした。 

イエスの死後、国王をもしのぐ、強大な権力を握ろうとした者たちにより教会が作られ、戒律が制定され、宗教と言う組織が出来上がりました。 

それは、人間の持つ、ピュアな信仰心とは、全くの別物であり、まさに人々を権威と恐怖で縛りつけ、他者(教会)に対する依存・執着状態に置き、自分たちを、その対極となる

支配する立場に置いたのです。 

それが、今まで私たちが置かれていた精神構造でした。 

本来は、イエスやブッダのように自立した自由闊達な魂の状態で、神仏に対するピュアな信仰心、先祖を大切に思う敬心 

そして、生きている人々に対する、 

・お互いさま

・お陰さま 

相手の個性、尊厳を大切に思う温かな心、優しい心であったはずでした。 

ですが、この宇宙の大神様が作ってくださった人間の精神が、萎縮させられて来たのです。

「縄文回帰」が様々な所で叫ばれています。 

縄文回帰とは、この、依存と執着、そして支配の構造から人間の精神を解放させ、縄文の時代のように人々が、一人一人、直接的に神々と繋がる時代を思い出そうと言う、大きな運動(ムーブメント)です。

これは、ブッダグループが1,200年単位で、人類に対するアプローチをしている中で 

現在、実際に行っているアプローチ方法です。 

このブログで何度もご紹介しています通り、ダライ・ラマ、そしてマザーテレサも同じことを仰っていますので、ブッダ・グループの計画を知り、そして協力なさっているのでしょう。

そして、その人類へのアプローチが目指すものは、一人一人の人間の 本当の幸せです。 

私たち人間はしっかりと自分の足で、大地に立ち、例え、貧しくとも、例え、病にあっても、

清らかな心で、天を仰ぎ、神々に感謝し、そして微笑む時、本当の幸せをかみしめることができるのかも、しれません。


2024年6月29日土曜日

3473「現実が変わらぬなら」2024.6.29

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月16日の記事を紹介します。


「現実が変わらぬなら」

 

「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な

渡辺和子さんの言葉をご紹介します。

<転載開始> 転載元

 

女子学生たちと五十年以上接していて気がつくことは、この年頃の人たちの多くが、 

愛に必要なのは、すばらしい対象に出会うことだと考えていることです。

それも決して間違いではないのですが、その対象が「すばらしさ」を失った時(病気やケガ、挫折)にも、果たして愛し続けることができるかどうか、ここに「愛の本質」が問われています。

・健康だった相手が病気になってしまった時も、

・前途を嘱望(しょくぼう)されていた相手が挫折にあった時にも、

その人を愛し続けることができるかどうかは、

私たちが自分の中に、「愛する力」を養い育てているかどうかに、かかっているのです。

ふだんからピアノの練習もせずに、立派なピアノを見つけさえすれば、上手に弾けると思ったり、

絵を描く練習もせずに、ひたすら美しい景色を探している人にも似て、

ふだんから「愛する」練習をしないで、素敵な人との出会いを待っていては、いけないのです。

愛する力を育てるためには、まず私たちが毎日の生活の中で「当たり前」と考えていることや、人、物を「有り難い」と、感謝の気持ちで受けとめることが大切です。

マイナスの価値しかないと思えることや、不幸、災難、苦しみにさえも意味を見出して、 

これまた「有り難い」と感謝できる時、私たちは愛すべきものを随所(ずいしょ)に持ち、 

愛し難い人さえも、その人の存在そのものの価値を認める、愛深く幸せな人間になれるのです。

<転載終了>

 

何か素晴らしいものさえ手に入れれば、きっと自分は幸せになれる。 

殆どの人がそう思っています。 

これは安直で、自分では何もせず、おいしい果実だけを得ようとする、依存の心です。 

自分ではほとんど何もせず、何も変えようとせず、お医者さまや、薬、ご祈祷、スピリチュアルリ-ダーに頼れば、幸せになれる。

これも全く同じです。 

これは、生きていく姿勢そのものに直結しています。

・子供の成績が良ければ、愛する

・子供が不登校になったから、愛さない

・何か手に入れたら、感謝する

・何かしてもらったら、仲良くする

・運が良くなったら、感謝する

・病気が治ったら、感謝する

全部が、

・自分の思い通りに人が動けば、愛する

・自分の思い通りに動かなければ、嫌う

・先に何かを得たら、何かする

・自分から、親切や優しさを出すと損をする

そのような意識です。

まるで、いつも「クレクレ」と言っている、地獄の亡者のようですね。

 

そこには、

・自分は礼儀正しく

・言葉きれいで、

・正義の側に立ち

・悪を糾弾しており

・自分は報われるべき存在で

・その権利がある

・大事にされて、あたりまえ

そのような心が底流にあります。

・自分自身が変わるのは怖い、めんどくさい

・他人に何とかして欲しい 

ですがこの地球は、そのようにできてはいません。 

生老病死、四苦八苦。 

まさに思うようにならないのが、この世の中です。 

希望を持って結婚しても、就職しても、子育てをしても、

「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。

病気や不運に見舞われる時も、必ずあります。

「何か素晴らしいものさえ手に入れれば、自分は幸せになれる。」

そのように、他に依存するように考えていた人たちは、そこで挫折し、苦しみにとらわれることでしょう。

家族が自分の思う通り動かなければ、自分の理想にそぐわなければ

愛する家族に対する熱も冷め、もしかしたら苦痛や憎しみの対象に変わるかもしれません。

これらは、自分では何も動こうとせず、

自分自身の心を顧みようとしない人の特徴かもしれません。

全ての出来事、自分に降りかかってくる出来事は、他人のせいではありません。

他人がどうこうできることではありません。

全ての全てが、私たちの心の中に、その種があったから、現象として目の前に起こっています。 

 

身近な方に降りかかってくる災難、苦難も 

(見ている私たちは、可愛そう、何とかしてあげたいと思うのは当たり前ですが・・) 

その出来事(実際は人生劇)もその人自身の魂(本体)が許しているから、計画して生まれて来たから起こっている出来事です。 

その経験を通して、魂の成長を図るために、神様とともに決めてきたことです。 

その方(身近な方)にも神様が付いていらっしゃいます。

縁の深いご先祖が守っていらっしゃいます。 

私たち生きている人間には、その深い深い縁の流れ、神仕組みが見えません。 

ただ見守り、信じてあげる事だけです。

その方の生まれて来た目的が成就することを一緒に祈ってあげる事だけです。

渡辺和子さんは仰います。 

「こんなはずじゃなかった」と思うこと(不幸)が、次から次に出てきても、そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をして欲しいのです。

どうしても咲けない時もあります。

雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。

その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。

次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。

いい出会いにするためには、自分が出会いを大切にして育てなければなりません。

思い通りにならないことを経験した時、心にポッカリ開いた穴から、

これまで見えなかったものが見えてくることがあります。

希望には叶わないものもありますが、大切なのは心に希望を持ち続けること。

相手を信頼するのは98%にし、

あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておくこと。

「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練に感謝すること。

私たちは、神さまが置いて下さったこの場所で、たとえ辛く苦しくとも、幸せを見つけることが出来ます。 

神さまは、「その場所で幸せを見つけるのですよ」と、私たちを、今の場所に置いて下さいました。

辛い日々は、必ず笑える日につながっています。 

目の前の現実は変えられません。

ですが、その起きている現象には、本当は「良い」も「悪い」もないのです。

全てニュートラルの形で現象は起こっています。 

そこに「良いこと」とか「悪いこと」と色を付けるのは、私たちの心の捉え方だけです。

そして実際は起きている現象全て、私たちの魂の成長のために、目の前に現れてくれています。 

私たちが、それに気付き感謝して受け入れた途端、その現象は、もはや役割を終えたわけですから、目の前から消え、記憶のかなたに忘れ去られてしまうでしょう。 

私たちの人生はその事の繰り返しです。 

ですから、どんなことが目の前に起きても、心配せず、しっかり受け入れて、 

感謝しニコニコ笑っていれば、それで良いのです。 

それがブッダが教えてくださった「般若心経」の真髄です。  

ご縁のある方に届きますように。



2024年6月28日金曜日

3472「七夕のお願い」2024.6.28

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月14日「七夕のお願い」と2024年06月17日「欲張りな人間」の2つの記事を紹介します。


「七夕のお願い」


毎年この季節に掲載している記事をご紹介します。

7月に入ると七夕。

今日は子供たちの美しい心のお話です。

 

美しいものを見たり、聞いたり、触れたりした時に、

私達の心のどこかで共鳴が起こります。

そして同じように、醜いものを見たり、聞いたり、

考えたりと 心に入れてしまうと、その逆もあります。

人間の心は

何処までも、高みに登る事も出来れば、何処までも、闇に沈むこともできます。

出来れば、私達の心の波長を 

真善美に合わせておきたいものですね。  

それが、一番自然であり、苦しまなくて済みます。 

幸せになる一番の近道だからです。。

でも、落ち込んでも大丈夫です。 

それも結局は、予定調和に至る道ですから・・

私たちの内に居らっしゃる神様は、決して見捨てたりしません。 

何時も傍らにおられます。

 

さて、始めます。

知的障害の兄を持つ小学1年生の男子児童のお話。

入学式の日、その児童の席のとなりに、小児麻痺で左腕が不自由な同級生の男子児童が座りました。

最初の体育のときでした。 

手が不自由な小児麻痺の児童は、着替えるのに30分もかかってしまいました。

時間がかかっても、先生は、何も言わずこの子を放っておくことにしました。

でも、二度目の体育の時間には、この子も他の子といっしょに

きちんと並んで待っていました。 

「どうしてだろう?」不思議に思った先生は、次の体育の前の休み時間に、 

そっと教室の外から見ていました。

すると、隣の児童が、一生懸命に手の不自由な子が着替えるのを手伝ってあげていたのです。

そして、その子が着替え終わると、二人で校庭に元気よく駆け出していったのです。

先生は、やはり何も言わずに見守ることにしました。 

七夕の日のことです。 

ちょうど授業参観日でした。

 

先生は子どもたちに願い事を書かせて、それを教室の笹に下げておきました。

お母さんたちが集まったところで、先生は、一枚一枚、短冊を読んできました。

一年生ですから、 

「あのおもちゃかってちょうだい」

「おこずかいちょうだい」 

「まんが本がほしい」

というようなことが書いてありました。 

その中に一枚だけ、こう書かれていました。

「かみさま、ぼくのとなりの子のうでをなおしてあげてください」

あの世話をしていた、児童が書いたものでした。 

先生は、この一途な祈りを読むともう我慢できなくなって、あの体育の時間のことを、 

お母さんたちに話しました。

小児麻痺の子のお母さんは、 

「子どもがどんなに教室で、不自由しているのだろう」

「迷惑をかけているのだろう」 

「申し訳ないことをしてしまった」 

と悩みながらと教室に入れずに 

廊下からじっと様子を見ていました。 

が、先生の話を聞いたとき、突然、廊下から飛び込んできました。

教室に入るなり、ぺったりを床に座り、この児童の首にしがみついて絶叫しました。

「坊や、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。ありがとう、ありがとう、ありがとう。・・・・」 

その声が いつまでも教室に響き渡ったそうです。

人を思いやる気持ちって、本当に美しいですね。


 



「欲張りな人間」

 

人間は弱いので、何か困ったことが起きたり、苦境に立たされれば

・神様仏様に頼ったり

・高額な詐欺に付け込まれたり

・お金に糸目もつけず、「力があるぞ」と宣伝する人に頼ったり 

とにかく

・自分ではなく

・自分の内にいらっしゃる神さまではなく

自分以外の外にある、他人や、物に頼り願いや欲望を満たそうとします。

でもそれは仕方のないことです。 

しかし、その欲には限りがなく、いつの間にか頼った相手に心理的に依存し、また頼られた相手は無意識の内に支配しようとします。 

支配-依存の 関係が生まれます。

この両者は、全く別物に見えますが、自分の発している波長が同じであるために同調して

いつの間にか引き寄せられていきます。 

両者は、波長が同じで、波長の山であるか?谷であるかの違いだけです。

この関係が長く続き、強化されてくると、ますます心の中に広がる黒い闇に気づけません。 

ご利益を求め、殺到する参拝者、頼られたものに・・集まり、うなるお金 

何時しか、自らも神様に対する崇敬の念を忘れ、自我の心が、極端にまで拡大し、神の力を、己の力と誤解する人々。 

 

神々は、そんな人間臭いドラマをどのようにご覧になっていらっしゃるのでしょうか? 

・願い事が叶います

・商売が繁盛します

・病気が治ります

・学校に受かります 

そう喧伝されれば、藁にもすがりたい私たちは、いっぺんに飛びつくことでしょう。 

もしかしたら、見えない何者かの力によって、一時は、願いがかなったかに思える時期もあるかもしれません。 

ですが、それも長続きはしないでしょう。 

しばらくすれば、また同じ苦しみを味わうことでしょう。 

他人に頼り、自分自身の心を変えようとしないからです。 

ですが、私たちのそのような状況でさえ、私たちが生まれてくる前に、自分で設定してきた状況であり、人のせいではありません。

何故、そのようなことをあえて人生に仕込んできたかと言えば

・その悩み苦しむ時期と、

・外の力に頼る時期と

・結局はそれがうまくいかない 

ことを経験することで、 

・私たちの魂が学習し、磨かれ、

・より一層 輝きを増し

・神々に近づけるからです。 

 

それなのに、その貴重な経験を、苦しいから嫌だからと、お金をかけ、人に頼り、すっとばし、一瞬だけ状況を変えてもらっても、私たちの心はちっとも変わらず輝きもせず、かえって依存の心が、闇のように広がり、氣枯れたもの(神さまの純粋な気が覆われてしまったもの)に魂が覆われてしまうことでしょう。 

それは、魂の視点 、神々の視点から見て道を外れているからです。  

神様は、私たちの魂を輝かせるために 

「その場所で自分なりの花を咲かせるのですよ」

そう言って、今の状況に私たちを置いてくださいました。 

神々のなさる奇跡とは華々しいサーカスのように人々を驚かせ、一瞬のうちに私たちを救い出してくれる・・・そういった安直なものではないと思うのです。 

奇跡とは、私たちが、例え苦しい環境に置かれていようと、自分の置かれた立場で、一所懸命前向きに、周りの方々や神々に感謝しながら笑顔で、しっかりと生きていくこと。

そして日々の平凡な生活のうちに、自分や、身近な周りの方々の心の中に

・温かな優しさ

・思いやり

そんな神様の心を見つけた時 

そして、それを感じ取った自分、自分の中の神様に気づいた時 

神々は、私たちの心に奇跡が起きた・・ 

そうお思いお喜びになるのかもしれません。 

人々の耳目を集める 

・どんな凄いことをしようと

・どんな技や知識を身に着けようと

・どんなに地位や名声を手に入れようと

・どんなに経済的に成功しようとも

自分の心の中に 神々を見つける奇跡には敵いません。  

神様は、私たちの魂を輝かせるために 

「その場所で自分なりの花を咲かせるのですよ」 

そう言って、今の苦しく見える状況に私たちを置いてくださいました。

私達の魂の誕生の時に頂いた神様の心。 

・その心を清らかにしておくこと

・自らの足で立とうとすること。。

それ以上に、この人生に奇跡を起こす術はありません。


2024年6月27日木曜日

3471「青空ひろば」2024.6.27

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


1337 2024.06.23

「ゆ」のことだまの詩

ゆっくり・ゆったり・ゆ(湯)につかり 

たゆとう・おゆに・みをゆだね

こころもみをも・ゆるくして 

じぶんをゆるし・ひとゆるし

われひとともにいゆる(癒ゆる)道


1336 2024.06.22 

私が私に落ち着けば、人や世界は癒される。

自分も知らず、人も気づかないがそうなのだ。


1335 2024.06.20 

キューブラー・ロス「私はOKじゃない、あなたもOKじゃない。でもそれでOKなの!」

カール・ロジャーズがカウンセリングを始める前に自分に言い聞かせること→『私は完全じゃないが充分な存在なんだ(私が私であることで充分なのだ)』

自分がありのままの自分であることを受け入れ、そこに落ち着く→そこから「癒し」の過程がスタートする→「存在の癒し」


1334 2024.06.19 

完全じゃない自分を認め、受け入れ、愛おしむこと。

でも、そこに腰を据えてしまうのではなく、自分のペースで一歩ずつ前へ!

「ヘタクソでも自分の足で歩こうね」


1323 2024.06.08 (宮里藍さんの名言集1)

ピア・ニールソン、リン・マリオネットにメンタル面のコーチを依頼した。

「人それぞれに自分だけのいのちのリズムと表現があるんだから、自分が別の何かに変わるのではなく、自分が自分にもどって、その本来の自分をそのまま引き出せるようになりなさい」という指導を受けた。


1324 2024.06.09 (宮里藍さんの名言集2)

メンタルコーチの言葉「アイ、あなたはもともと(あなた本来の)マジックテンポを持っているのよ」→パズルの1ピースがパチッとハマッたような気がした。

スイングのテンポを25%、50%、…と変えて振ってみる(打球は見ない)。…

ピッタリきて、気持のよいリズムをさがす→これがピッタリと気づいたとき、それは中学生の時のテンポに戻っていた。→ストンと胸のつかえが取れた。

→私は私でよかったんだ。アタマでココロやカラダを支配しようとするのではなくカラダに聞けばいいんだ。


1325 2024.06.10 (宮里藍さんの名言集3)

キャディのミックに向って「私は未来のこと(不安)にアタマが往ってしまって、どうしょうもないくらいに緊張しているんだけど」

ミックは言った、「アイ、ボールは<今、ココ>にあるんだけどな」

今の私(藍)は自分を取り戻す(今・ココに自分を戻す)のに4~5ホールかかる。しかし、アニカはこれを数十秒,数秒で今・ココに戻せる。これが差なんだ→アタマは過去や未来に脱線するが、カラダはいつも今・ココのある。意識をカラダに  向けると今・ココに戻れる。


1326 2024.06.11 (宮里藍さんが見いだした「今・ココ」に自分を戻す方法)

① セルフトーク

 鏡にうつっている「自分」を相手に対話するような感じ(感情に巻き込まれず自分を客観視する方法)

『私はいろいろな自分のピースを、今ココにいるひとつの大きな自分に戻す作業をしています。それができているときは、まるで他人を見るような目で自分を見られるので、冷静でいられます。グリップに力が入っているんじゃない?」とひとりの自分が言うと、もうひとりの自分が「じゃあ、手を大きく振って、リラックスさせてみようか」と返事をする。セルフトークを交わしながら、自分自身を取り戻していくのです』


1327 2024.06.12 (宮里藍さんが見いだした「今・ココ」に自分を戻す方法)

② 身体運動

a.手をブルブル振って緊張をほどく→手首の緊張をほどくと、肩や首や全身の緊張がほぐれる。

b.両肩を上げて思いっきり緊張させてから、ストンと肩を落とし、脱力感をカラダで感じる

c.軽くジャンプする(カラダをゆする→フルベの技法)。

これらすべてが、先走る自分や、過去に引きずられている自分を、今の自分にひき戻す作業、自分を捕まえておくための動作です。

緊張したら深呼吸しましょう、とよく言います。でも私の経験では、深呼吸だけでは自分を捕まえることはできません。

「緊張なんかしていない」と言い張る自分の脳みそに、「実は緊張しているんだ」ということを自覚させるには、体を動かして「あぁ、こんなに筋肉が強ばっていたんだ」と認識させるのが一番。腕を振って、肩を上げ下げして、ジャンプして、「私はここにいるんだよ!」と、自分で自分に教えるのです。

地に足が着いている、というのは、自分を捕まえられている状態のことです。うまく自分と会話を交わしながらプレーができたとき、欲張らなくても自然と結果はついてきます。


1328 2024.06.13 (宮里藍さんの気づき)

ピアとリン(メンタルコーチ)の指導で練習しているうちに、自分がいかに固定観念や先入観にしばられていたのか(自己制約、自己制限の囲い)に気づいた。

・こうしなければいけない、というルールなどどこにもないんじゃないか?そんな当たり前のことに今さらながら気づかされました。

・雑念は一切排除。いいイメージだけを抱いて、思考を停止させ、気持ちよく振ればいい。

・頭ではなく、体で感じるゴルフに取り組み始めてから、面白いことに生活面でも集中すべきポイントがわかるようになってきました。メリハリがつけられるようになった。

「今・ココ・この身」に意識を収めると、次第にアタマでスイングを考えるのではなく、意識が指定するターゲット実現に向けて、カラダが自然に動くというスタイルに変化していった。


1329 2024.06.14(宮里藍さんの名言集4)

少し前まで私が考えていたのは筋肉を鍛えて、「強い体を作って球を飛ばさなければ」ということでした。でもいくら筋力や腕力があっても、無駄な力が入っていたら、折角の力を使えず、飛距離が伸びないことがわかってきました。でもいい感じに力が抜けてタイミングよく振れているときは、自分でも意外なほど飛距離が出ています。


1330 2024.06.15(宮里藍さんの名言集5)

精神面ではもちろん気持ちを先走らせることなく、過去を憂えることなく、今この瞬間、目の前のショットに、いかに集中できるかということが勝負。スコアは自分でコントロールできないけれど、どんなことがあっても自分のゴルフを貫くという態度は自分で制御できますから。


1331 2024.06.17(宮里藍さんの名言集6)

ジャンプする前にしゃがみ込むように、飛躍の前にはもがく時間が必要です。試練はきっと成長のチャンス。


1332 2024.06.17 (宮里藍さんの名言集7)

一流選手はオンとオフの切り替えが上手いし、普段からメリハリのある生活を送っています。


1333 2024.06.18 (宮里藍さんの名言集8)

勝とうという気持ちが強すぎると、勝てないということ。勝負にこだわりを持ち過ぎるよりも、流れに任せてチャンスを待ち、好機が来たときにそれを逃さずにつかみ取る、自分から何かアクションを起こすより、自分を信じて待つことの方が大切だ、とウェブ先生は語ってくれたのです。「これ、相当な企業秘密だから、今の話を聞いてアイが勝ったら、私のおかげよ」と茶目っ気たっぷりに笑ったウェブ先生の顔が忘れられません。


1318 2024.06.03  ネットの記事より

<科学が証明した、すぐしあわせになる16の方法>

A.すぐにしあわせになれる、ちょっとしたこと五つ

①ほほえむ ②背筋を伸ばして大股で歩く ③声をあげて笑う

④お茶の時間など、小さな瞬間を楽しむ ⑤ほかの人に親切にする

B.毎日の習慣になるとしあわせになる6つのこと

①祈る ②動物と遊ぶ ③感謝の日記をつける 

④楽しい音楽を聴きながら共同作業をする ⑤睡眠を十分にとる 

⑥公園に散歩に出かける 

C.少しがんばるとしあわせにつながる5つのこと

①運動する ②瞑想する ③セックスする 

④ボランティア活動に参加する ⑤旅行に行く


1319 2024.06.04  ~ 1322 2024.06.07

しあわせな人生を生きるためにやりたい事。

(1)坐禅行→身心のバランスが整い、あなたをふしあわせにする根本原因である<自他を分ける囲い>がほどけます。

(2)布施(ふせ)行→人のために差し出す手・運ぶ足で<自他を分ける囲い>が破れ、しあわせ感が大きくなります。

(3)随喜(ずいき)行→人も成功や悦びを見て、自分もそれを喜び、賞賛すれば、その人の悦びを自分もまた体験することになります。

(4)薫習(くんじゅう)行→しあわせな人と親しくなれば、そのしあわせの波動を受けて、自分もしあわせになれます。

(5)無為(むい)行→テレビやパソコン、携帯の電源を切り静寂の時間を持とう。

(6)スポーツ行→頭にゆくエネルギーが減り、「囲い」が弱くなります。

(7)読経(どきょう)行→特に「延命十句観音経」を唱えれば、いのちを延ばすことができます(寿命・可能性・束縛からの解放など)。

(8)祈り行→世界人類のしあわせを心から祈ることができれば、自分もしあわせになれます。

(9)許し行→人を恨めば自分が縛られてしあわせにはなれません。人を許せば自分が解放されてしあわせになれます。(完)

 

2024年6月26日水曜日

3470「涙、心の浄化」2024.6.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月13日の記事を紹介します。


「涙、心の浄化」


この地球、物質世界に住む人々の営みの中に

・優しい心

・美しい心

・思いやりの心 

を見た時、自然と涙が流れ、手を合わせてしまうことがあります。 

それは、その人々の言葉や、行為の中に神々の姿を見たからです。 

 

1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」 アルブレヒト・デューラー

 

神々の起こす奇跡はサーカスのように派手で、人目を惹くことではありません。 

一瞬のうちに、物事を変えてしまうことでもありません。 

神々のなさる奇跡は、隠れて見えません。 

かえって神仕組みは、私たちの気づかぬうちに私達や、取り巻く人々の、

心にちょっとした変化(方向付けのきっかけ)を起こすことで、

それがスイッチとなり起こされます。 

それはあたかも私たち自身が、自分で考え、行動したように見えて、実は神様の介入により

様々な有機的つながりの出来事をドミノのように起こしていきます。

まさに神仕組みです。 

その積み重ね、私たちがその流れに乗ることで、いつの間にか気づかぬうちに、

私たちが生まれる前に計画してきた方向へ進んでいきます。 

身近な周りの方々の心の中に

・温かな優しさ

・思いやり

そんな神様の心を見つけた時、自然と涙が流れた時、私たちの心に浄化が起こります。

今まで硬く閉ざされていた心の扉が開かれた時です。 

吉野大地 とびら

  

人々の中に神々を感じ取った自分、 

それは同時に

自分の中の神様に気づき、繋がった瞬間でもあります。

相手の中の神々と同調、共鳴し、真の自分と繋がった時です。

その時、神々は、私たちの心に奇跡が起きた・・ 

そうお思いになることでしょう。

微笑んでくださることでしょう。 

 

人々の耳目を集める 

・どんな凄いことをしようと

・どんな技や知識を身に着けようと

・どんなに地位や名声を手に入れようと

・どんなに経済的に成功しようとも

人々の心、そして自分の心の中に  

神々を見つける奇跡には かないません。 

神様は、私たちの魂を輝かせるために 

「そこで自分なりの花を咲かせるのですよ」

そう言って、今の状況に私たちを置いてくださいました。

 

どんなに辛く、苦しい状況に置かれていようとも

私たちの内なる神々は常に私たちと一緒です。 

苦しい環境こそが、かえって私たちの魂を削り、磨き 

輝きを取り戻してくれます。

苦しい環境であるからこそ

心を振り返るきっかけともなります。 

  

飢餓の中、空腹の中

一個のおにぎりが、どんなに美味しいことか。 

渇きの中で

コップ一杯の水が、どんなに美味しいことか。 

苦しみの中に在って、

ちょっとして 人々の笑顔、優しさ、声掛けが

どんなに、心を励ましてくれることか。 

身近な周りの方々の心の中に 

・温かな優しさ

・思いやり

そんな神様の心を見つけた時

自然と涙が流れた時

私たちの心に浄化が起こります。

今まで硬く閉ざされていた

心の扉が開かれた時です。 

自分の中の神々と繋がった時です。

それは、内なる神々が、ずっと待ち望んでいた瞬間でもあります。



2024年6月25日火曜日

3469「空海の優しさ」2024.6.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月12日の記事を紹介します。


「空海の優しさ」


人間は、この地球に魂の仲間たちと、劇を演じに来ているのだそうです。

生と死を、何度も繰り返し、役割を変えながら何度も何度も、地球に転生してきます。 

さらに、今の私たちの姿は、今演じている劇中での役割にしかすぎません。

それが、私たちの全てではありません。 

別の劇が始まれば、一瞬にして

性格も、個性も、身体の状況(健康、病気、障害、容姿)、資産の状況も変わります。 

これは多重人格の人の姿を見てもわかります。 

人格が入れ替わった途端、 

・言葉

・体つき

・顔つき

・病気/健康、ケガの治癒

・障害

・興味の対象

・性格 

全てが一瞬で変わります。 

同じ身体であるにも関わらずです。

ということは、自分の意識次第(考え方、物のとらえ方)で、意識が変わることで、物理的な事項も含め、全てを一瞬で変えることができるということです。 

以前記事にもしましたが、大竹しのぶさん 

  

あまりに全身全霊の演技派女優であるがゆえに、憑依型女優ともいわれています。

演じる時に、まさに、その人物になりきって演技するからです。 

ある日彼女が、少年の役をした日、整体に行ったそうです。 

その時、女性整体師さんに 「股間に異物がある」と言われたそうです。 

つまり、完全に役になりきった故に少年の身体になったのです。 

つまり、私たちは意識(思い)を切り替えることで、一瞬で別の人格になることができるのです。

人格が変われば、それに伴って周りの環境も、がらっと変わります。

今の性格、身体は私たちが演じている役割の姿、 

そして、それが永遠に続くものと思っています。 

昨日も、今日も、明日も、、 

それが幸せな境遇なら、まだしも、もし、人を憎み不幸であるならば、意識(思い)を変えることです。 

自分は

・優しくて、

・思いやりがあり

・愛にあふれ

・健康で

・周りの方々に感謝しており

・お互い様

・おかげ様で

・助け合って生きている 

昔も今も、実はそんな人間だった。 

と意識(思い)を変えるだけで、役割を自分で変えるだけで、その瞬間から、新たな人格を生きることができます。 

そして、心が、自然に現実を作っていってくれます。 

  

それは、まさに、神様が、私たち人間に、神様と同じ能力を与えてくださったからです。 

ただ、その真実が隠され、秘密にされてきたので、多くの人が、自分の能力に、気づかなかっただけです。 

空海は、このように仰っています。

「即身成仏」についてです。

私たち人間は、その心次第で、生きているうちに極楽に住むことができるんだよ・・

この即身成仏について、作家の佳川奈未さんの意訳をご紹介します。

<転載開始> 転載元 


人は

着の身 着のまま

ありのままの自分でいても

愛と慈悲を差し出すことで  

即 仏になることができる

仏性は つねに 人の中にあるからこそ

探し回る必要もなく

遠くに求めに行くこともない

ただ

あなたが 

優しさがなんなのかを知っており

それを 目の前の人に 

そっと 差し出すならば

あなたが

人の痛みを知っており 

それを目の前の人を癒すものとして  

あたたかい言葉をかけるなら

それこそが

仏の姿の現れだからです

愛と慈悲 すなわち 仏性は 

頭で 理屈として 理解するときではなく

わが身をもって 実践するとき

花ひらきます

<転載終了>

 

やはり、空海自身も私たちの内には、神さま(仏性)がいらっしゃると仰っています。

具体的に空海が言った仏性とは、内なる大日如来のことです。

そして空海が仰るには、

・人の痛みを知っていること

・優しさがなんなのかを知っていること

だそうです。

すなわち、私たち自身が、その痛み、苦しみ、辛さの中に一回身をおいて経験してみなければ、本当に理解できない心です。 

私たちは、とかく人生の 

・悩み、

・苦しみ、

・辛さ 

などを、避けて通ろうと、もがき苦しみます。

ですが、その経験をするからこそ、人の痛みが理解でき、 

人の優しさも、感じることができるのですね。

皆さんもぜひ、空海の教えてくださった 

「幸せになる秘密」、生きているうちに「極楽に住む方法」を実践なさって見てください。 

目の前の方に、微笑みかけ、優しさと慈しみの心を差し上げて下さいませ。

私たちは、どんな人も、 

・誰に頼らずとも、

・神仏の奇跡や不思議に頼らずとも、

私たちの心は、もう神さまと繋がっています。

自立しています。

どうぞ、内なる神さまのこと、ちょっとだけ思い出してみてください。

幸せへと繋がりますから。 




2024年6月24日月曜日

3468「陰徳と悪徳」2024.6.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月11日の記事を紹介します。


「陰徳と悪徳」


今日は、春日大社宮司であった葉室頼昭さんの「神道 いきいきと生きる」より

「陰徳を積む」というお話をご紹介します。

 <引用開始> 引用元


生物のいのちが続くというのは、

・伝え、

・順応し、

・待つ。

この三つで生物は進化を続け、いのちを伝えています。

この伝統を伝えるということ、そしていろいろな厳しい環境に順応し、

去っていくのを耐えて待つことが必要なのです。

しかし人間はそれだけではありません。

人間が何のためにこの地球上に生まれたのかということが重要なのです。

人間は他の生物とはまったく違った目的で誕生したのだと思います。

つまりそれは神の世界を見て、こんなに素晴らしい美の世界だということを表現するために、神様は人間というものを産み出されたのだと私は考えています。

それは人間だけが優れ、他の動物が下等というのではありません。

ただ人間は、この目的のために進化を続けているということです。

そして人間の場合、ただ進化しただけでは、いのちは伝わっていかないのです。

そこに「徳」というものが必要だと私は思っています。

とくに日本人はこの徳を積まないと、

いのちが子孫に伝わっていかない民族だと思うのです。 

しかも陰徳という徳です。

この陰徳を積んできた家が今続いているのであって、陰徳を積んでいない家は、

いのちというものが続いていないように見受けられるのです。

私は小さい頃よりおふくろから、

「陰徳、陰徳」と耳にたこが出来るくらい聞かされて育ちました。

友だちのために一生懸命にやって、友だちが何も感謝してくれないこともありました。

その話をすると、「それでいい。それが陰徳です。それが子供に伝わっていくから、

それはそれでいい。むしろ感謝されないほうがいい」と言われ、

わけもわからず、そんなものなのかなと聞いてきました。

その意味がいまこの年になってようやく分かってきたのです。

 

普通、人はこれだけ尽くし世話をしたのだから、感謝してほしいと思うことがよくあります。

しかしそうすると、もうそれは陰徳ではなくなってしまうのです。

感謝や見返りをいっさい求めない。

人の喜ぶことをしていれば、それが一番いいのです。

そういうことの積み重ねが陰徳になり、やがて子々孫々にまでその余徳が及んでいくのです。

この陰徳と関連して、大きな努力と小さな結果ということも大切なことです。

大きな努力をして小さな結果を望みなさい。

この逆をやって小さな努力で大きな結果ばかりをもらっていると、いずれ滅びてしまいます。

例えば、百万円を儲けるために、Aという努力をして百万円儲かるんだったら、

その何十倍も大きなBという努力をして、そして百万円を得るようにしなさい。

そうしたら陰徳で栄える。こういうことなんですね。

それは努力のわりに儲けが少ない。

しかし、そうしたらその分、徳を積んで、続いていくのです。

この世の中というのは、栄えるというのではなく、

続くということが一番大切なことなのです。

会社がどんなに儲かっていても、潰れてしまっては元も子もありません。

何ごとも、いかにしたら続くか、ということを第一に考えるべきなのです。

<引用終了>

  

自分で積んだ徳は、何倍にもなって自分だけではなく、子供や、孫などの子孫、 

そして時間をさかのぼって、先祖までにも良い影響を及ぼすといわれています。 

人の心は、

・時間

・空間(距離)

・次元

を全て包括するだけでなく 

・見えている世界

・見えない世界

までをも内包する偉大な世界だからです。 

これとは逆の悪徳

これは自分さえよければ、他人はどうなろうと構わない

そういった

・今だけ

・金だけ

・自分だけ

の心であり、 

俺が俺が・・・私が私が・・・ 

と感謝や見返りを求め、自分だけが特別扱いされたい意識です。 

これは陰徳とは全く逆の方向性を持っていますから、

自分や子供、孫、子孫、先祖に跳ね返ってくるものも、逆の効果を生み出します。 

明治までの日本人は、自然体として、この陰徳の心が根付いていたそうです。 

ですが、文明開化と称し西洋の物質文明、白か黒か? 

大きいことは良いことだ、自然を征服して幸せを手に入れる・・

このような思想が入ってきました。 

この時代、江戸末期から明治にかけて

古くからの日本の神々は、日本人の精神に危機感を抱きました。

ですので、この時期に沢山の神々の動きがありました。

天理教、金光教、黒住教、大本教、生長の家など、 

明治になって150年、日本は令和の時代を迎えました。 

 

陰徳の心を自然の心として持っていた日本人の精神は

もしかしたら、時代の潮流を変えられるかもしれません。 

今は隠れていても、私たちの身体には祖先のDNAが、しっかり組み込まれています。 

心を祓い清め、神々に連なる精神を復興していきたいものですね。 

そして生きとし生けるもの、皆が笑顔で幸せになりたいものですね。


 

2024年6月23日日曜日

3467「祈り」2024.6.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月09日の記事を紹介します。


「祈り」


今日は、渡辺和子さんのお話を通して、神さまは、どうやって人間の祈りに答えてくださるのか、考えてみたいと思います。 

<引用開始> 引用元

  

・もし私が祈ったことが全部叶えられたら、どうなるのだろう

・神様のお役目というものは、

 人間の願いを全部叶えることなのだろうか

・いくら祈っても、所詮(しょせん)神はご自分の好きなようになさるのだとしたら、

 祈っても、祈らなくても同じではないか

その上で渡辺さんはイエスの言葉を紹介します。

・求めなさい。そうすれば、与えられる。

・探しなさい。そうすれば、見つかる。

・門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

だれでも、 

・求める者は受けとり、

・探す者は見つけ、

・門をたたく者には開かれる

そして渡辺さんは続けます。

でも、この言葉には

・求めたもの、そのものが与えられると約束されていませんし、

・探したそのものが見つかるとも約束されていません。

むしろその後には、あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、

魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。

卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょうか。

してみると、あなたがたも悪い者ではあっても、

自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょうか。

と続く言葉があって、求めたものの「代わりに」

何かを下さる可能性があることを示唆されています。

祈ることは大切なことです。

しかし、人々が願う前から、その必要とするものを知っておられる天の父は、人間が願ったことをそのまま叶えることをもってして、ご自分の、その人に対する愛の証、とはなさらないのです。

なぜならば、私たちはいつも、「欲しいもの」を願っているからであり、

それに対し、神様が私たちに叶えてくださるのは私たちの魂にとって「必要なもの」だからです。 

<引用終了> 

  

神さまは、私たち自身より、私たちのそば近くにおり、

例え口に出さずとも、私たち以上に、私たちの望むものを知っておられます。 

そして、私たちの望み、願いを全て聞いてくださっています。 

私たちの人生が、平和で順風で

・友達や家族の笑顔に恵まれ

・健康で金銭的な憂いが全くなく

・将来の不安など、みじんもない 

そんな時にはきっと 

・神さまに祈ることも、

・全てを用意してくださった神様に感謝することも

・人々の優しさに気づくことも 

あまりないかもしれません。 

神さまの恩寵は2段階で現れると言います。 

・まずは、不幸に見える出来事 

これを通じ、私たちは、悲しみ、苦しみのどん底に落とされます。 

嘆き、悲しみ、涙を流し、不平不満を口にして、世の中、全てを呪うかもしれません。 

自分の力ではどうしようもないと諦めかけた時、神さまを思い出すかもしれません。

人知を超えた力にすがろうとするかもしれません。 

そして「祈り」始めます。

この時、神さまは、全ての全てを見ており、私たちの心の中まで、把握しています。

なぜなら、「不幸に見える出来事」を持ってきてくださったのは、神さま自身だからです。

私たちは、早く苦しい状況から抜け出したくて、具体的に神様に「祈り」ます。

  

神さまは、その「祈り」をじっと聞いておられます。 

私たちは、苦しみ、悲しみの中で神さまに祈ることを通じ、 

心、魂が、どんどん、どんどん成熟していきます。

・周りの人々の小さな優しさに気づきだします。

・健康だったことが、どれだけ、ありがたいことだったかに気づきます。

・同じ苦しみを持つ人の、心の叫びが聞こえるようになります。 

その時です。 

私たちの心に気づきが起こります。 

どうして神様が、私たちに「悲しみ、苦しみ」を運んできてくださったのか?

物理的な状況は、全く変わらないかもしれません。 

ですが、その時 

目に見えない、私たちの魂は、美しく純粋に生まれ変わりました。

 


祈りを通じ、神様が私たちの魂を洗い、本当に私たちの永遠の生命にとって

大切なものを、くだされた瞬間です。 

祈りは、必ず聞き届けられます。


2024年6月22日土曜日

3466「次のパンデミックが「致死率50%」などになるなら」2024.6.22

 今回はIn Deepさんの2024年06月17日の記事を紹介します。


「次のパンデミックが「致死率50%」などになるなら、本来は全然恐ろしい流行ではないのですが、今が「106年前と同じ免疫状態なら」状況は深刻かも」


https://indeep.jp/flu-pandemic-1918-and-2025/


致死率50%というけれど

今年 5月に、アメリカ疾病管理予防センター(CDC)の元所長であるロバート・レッドフィールドという人が、「鳥インフルエンザによるパンデミックへの懸念」を述べていたことを記事にしたことがありました。

(記事)元CDC所長の「鳥インフルエンザの機能獲得研究が大パンデミックを引き起こす可能性についての警告」にある一部の欺瞞と一部の真実 In Deep 2024年5月19日

それから約 1ヵ月後の先日、また同じレッドフィールド元 CDC 所長が、ニュース番組で同様のことを述べていたことを米ザ・ヒルが伝えていました。

その発言内容は、1ヵ月前よりさらに強いものとなっていまして、以下のように述べたと報じています。

ザ・ヒルより抜粋

「鳥インフルエンザの大流行は、それが起こるかどうかという問題ではなく、いつ起こるかという問題だ」とレッドフィールド氏は語った。

また、鳥インフルエンザは、COVID-19と比べて人間に感染した場合の「死亡率がかなり高い」とも指摘した。レッドフィールド氏は、死亡率は「おそらく 25~ 50%の間」と予測している。ニュースネーションは、COVID-19 の死亡率は 0.6%だったと指摘した。

thehill.com

このように、次の鳥インフルエンザによるパンデミックの致死率が最大で 50%などになると述べていました。

実際の話としては、「平時」であるならば、致死率は高ければ高いほど流行は急速に終息しますので、致死率の高さは本来なら安心材料なんですが、それについては、以下の 4年前の記事に「発症率が低くて致死率の低い病原菌のパンデミックがもっとも脅威である」ことについて書いています。

(記事)人類を破滅に導くパンデミックは、エボラやSARSのような凶悪な病原体ではなく「発症しづらく致死率の低い軽い風邪のような病原体」だと2年前にジョンス・ホプキンスの科学者が警告していた In Deep 2020年3月9日

 

ちなみに、ザ・ヒルの記事では、コロナの致死率は 0.6%と記されていまして、これは公式の数字なのかもしれないですが、パンデミック初期の「何から何まで死亡者の死因がコロナとされた」時なども含まれていますので、実際にはそれよりはるかに低いはずです。

今年の 1月時点での、これも公式な数字なのでしょうけれど、世界でのコロナによる死亡者は約 700万人とされていました。

その時点で「世界の超過死亡数は 3000万人近くとなっていた」という他の一件もあります。コロナの何倍も「コロナ以外での通常ではない数の死亡者が出ていた」ということです。

英エコノミスト紙に掲載された世界の超過死亡数とコロナ死亡数の累積

 


今では、超過死亡数がコロナ死の数十倍となっているのですけれど、これは今回の話とはあまり関係ないですので、以下の記事などをご参照いただければ幸いです。

(記事)世界の超過死亡数が世界全体で3,000万人に迫る。直近では超過死亡がコロナ死の20倍以上に。今後はどうなる? In Deep 2024年1月28日

 

さてしかし、この「超過死亡」の中に、たとえば、「何らかの感染症で亡くなった方はどのくらいいるのか?」ということを思います。

ここ 2、3年の超過死亡に関しては、心血管問題による突然死や、ガンなどに注目が集まることが多かったですが、「感染症のほうはどうだったのだろうか」と。

普通であれば、死亡に至るようなことのない、たとえば何らかの風邪やインフルエンザや他の呼吸器感染症での超過死亡はどのようになっているのだろうなとは思います。

そういう統計(呼吸器感染症においての超過死亡率)を、どの国の場合でも見たことがないですので(あるのかもしれないですが)、その数はわかりません。

しかし、「仮に」ですが、この 2年や 3年に、通常であれば死亡に至ることのないような風邪などのような呼吸器感染症で亡くなった超過死亡例が多いのだとすれば、

「鳥インフルエンザも呼吸器感染症」

ということを思うのです。

これは、鳥インフルエンザじゃなくても何でもいいんですが、今の社会の状況で、「やや感染力が強くて、やや致死率の高い感染症」が流行することへの懸念の理由は、やはり今は「ワクチン後の社会」だからです。

・免疫が弱っている人が多くいる可能性がある

・免疫寛容のような状態になっている人たちが多くいる可能性がある

ということです。

「免疫寛容」というのは、免疫システムが体内の異物(ウイルスなど)に対し、排除するのではなく受け入れることを言いますが(つまり、さまざまな病気に感染しやすくなる)、そのようになっている人が多い「かも」しれないということです。

もちろん、どのくらい人たちがそのようになっているかはわかりようがないのですが、その状態に鳥インフルエンザが来る懸念があります。

……と言いたいのですが、実は最も大きな懸念は、

「鳥インフルエンザワクチンが来る」

というほうでしょうか。

鳥インフルエンザワクチンはすでに存在しています(どんな株が流行の主流になるかわからない時点で完成して、生産体制が整っていたということです)。

最初に接種が始まるのはフィンランドで、すでに 4000万回分の購入の契約をしています。

(記事)フィンランドが「鳥インフルエンザワクチン接種」を公的に受ける最初の国に。4000万回分を購入する可能性  BDW 2024年6月8日

欧州委員会などは、「あらゆるインフルエンザ株に適応可能なパンデミックインフルエンザワクチン」(どんなだ)を、すでに 1億1100万回分確保しています(翻訳記事)。

免疫状態がきわめてよくない人類が主流となっているかもしれない現状で、どういう形であろうと、体内に入ってくるわけです。鳥インフルエンザといわれているものの抗体のようなものが。

 

思い出すのが、今から 100年以上前のインフルエンザの流行、いわゆるスペインかぜと呼ばれているものの時に起きたとされていることです。

スペインかぜが、あれほどの死をもたらした原因は何だったのかということについて、エレノア・マクビーンという女性の 1979年の著作に描かれています。

当時もまた人々は、「複数の強力な感染症のワクチン接種」を受けており、その中でインフルエンザのパンデミックが始まりました。

書かれてあることが本当に真実なのかどうかも、またわからない面もあるのですが、いずれにしましても、今の人類の状態は、人々の免疫の状態から見れば、このスペインかぜの時より「良くない」と思われます。

同じようなことが起きないことを願っています。

エレノア・マクビーンさんの 1979年の著作から抜粋して締めさせていただきます。

エレノア・マクビーン「Vaccination Condemned」より

educate-yourself.org 2004/02/07

私は 1918年のインフルエンザ流行の現場の観察者だった。

1918年のスペインかぜ流行の中で、当時生き残ったすべての医師と人々は、それが世界が経験した中で最も恐ろしい病気だったと言った。

その日には強くて元気だった男たちが、次の日には死んでいた。

この病気は、腸チフス、ジフテリア、肺炎、天然痘、そして第一次世界大戦直後に人々が予防接種を受けたすべての病気にペストの特徴が加わったものだった。

実質的に、全人口が 12種類以上の病気、または有毒な血清を「接種」された。医師が作り出したこれらの病気が一斉に発生し始めたときは、悲劇だった。

このパンデミックは 2年間も続き、症状を抑えようとした医師たちがさらに薬を投与したことにより長引いた。

私が調べた限りでは、インフルエンザは予防接種を受けた人だけに起こった。注射を拒否した人たちはインフルエンザを免れた。私の家族はすべての予防接種を拒否していたので、ずっと健康だった。

インフルエンザがピークに達したとき、すべての店、学校、企業が閉鎖された。

医師や看護師たちも予防接種を受けていてインフルエンザにかかっていたため、病院さえ閉鎖された。通りには誰もいなかった。まるでゴーストタウンのようだった。

予防接種を受けていなかった私たちの家族はインフルエンザにかからなかったため、両親は家から家へと回って病人たちの世話をするためにできる限りのことをした。この時には人々が普通に医者にかかることが不可能だったのだ。

細菌、バクテリア、ウイルス、またはバチルスが病気を引き起こす可能性があるとしたら、両親が 1日に何時間も病室で過ごしていたときに、それらが両親を襲う機会は十分にあった。

しかし、両親はインフルエンザにかからず、家に持ち帰ったウイルスが私たちや子供たちを襲ったり、病気を引き起こすことはなかった。私たち家族は誰もインフルエンザにかからなかった。深い雪が積もった冬のことだった。

1918 年のインフルエンザの大流行により、世界中で 2,000万人が死亡したと言われている。しかし、実際には、医師たちが致命的な治療法と薬を使って人々を死に追いやった。これは厳しい非難かもしれないが、薬を使わない医師たちの成功と、薬を使う医師たちの成功を比較すると、やはり真実と言わざるを得ない。

医師や医療機関がインフルエンザ患者の 33%を失っていた(患者の 33%が死亡した)一方で、バトルクリーク診療所などの非医療病院では、水治療、入浴、浣腸など、断食やその他の簡単な治療法、それに自然食品を慎重に考案した食事療法によって、ほぼ 100%の患者が治癒していた。

ある医療医師は、8年間患者を 1人も死なせなかった。

もし医師たちが薬を使わない医師たちと同じくらい進歩していたら、インフルエンザの医療治療による 2,000万人の死はなかっただろう。

ワクチン接種を受けた兵士の病気は、接種を受けていない民間人の 7倍に上った。

1912年に海外から帰国したある兵士は、陸軍病院は(小児)麻痺の患者でいっぱいで、なぜ大人が小児疾患に罹るのか不思議に思ったと私に話した。

現在、麻痺はワクチン中毒の一般的な後遺症であることがわかっている。米国の人々は、1918年に世界規模のワクチン接種キャンペーンが実施されるまで、麻痺に悩まされることはなかった。

________________________________________

 

ここまでです。

この中に、バトルクリーク診療所というのが出てきますが、これは、いわゆる「ケロッグ博士」という方の診療所です。

ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ(1852-1943)

このバトルクリーク診療所のスペインかぜに対しての対処法については、今から 13年ほど前の以下の記事に書いたことがあります。

(記事)1918年の「死のインフルエンザ」へのケロッグ博士の対処法

In Deep 2011年11月22日

2024年6月21日金曜日

3465「子供たちの巣立ち」2024.6.21

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月08日の記事を紹介します。


「子供たちの巣立ち」


私も含め、たいていの親は、何時まで経っても子供を心配します。

なまじ長く生きているがゆえに

・ああしたほうが良い

・こうしなさい 

と、何とか子供たちが失敗しないように、より楽な道を歩めるように、

心を隅々まで砕いていらっしゃる親御さんも多いことでしょう。 

つい心配で、色々な細かなアドバイスと言う名の余計なおせっかいをしてしまうかもしれません。 

ですが、それは私たち親とは別の魂を持ち、別の目的を持って地球に生まれた子供たちの魂の成長にとって、非常に大きな障害となってしまうかもしれません。 

もしかしたら、子供の人生を台無しにしてしまうかもしれないほど、大きな過ちかもしれません。 

では、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の子供、小学生の神様、トキ君のお話を基に書きたいと思います。

私のブログでずっと書いてきたことと同じことを話しています。

このお話は以前も載せたのですが、この時期に必要と感じましたので、追記して再掲します。

子供について書いていますが、子供だけでなく、身近な人たちに対しても、同じことです。

※下記の文章の「子供」を、その身近な人の名前に置き換えてお読みください。

下の映像の中で、山幸彦が人間に伝えたいこととして、子供の育て方について話をしています。

 


トキ君はこんなことを言っています。(一部補足)

私たち親は

・勝手に子供の先回りをして

・勝手に心配をして

・勝手に期待して

・勝手に親のエゴを押し付けてきました

きっと、そんな親に子供たちの魂(本体)はどんなに悲しんでいることでしょう。

何故なら、地球への誕生をワクワクと目を輝かせて、期待に胸を膨らませて生まれてきた子供たちの人生ストーリーは、

・親のエゴやミエのため、

・親の思い通りの人間になるため

の人生とは全然違っているかもしれないからです。

子供たちの魂は、きっとこう言っていることでしょう。

お願いです。

神さまと約束してきた花をここで咲かせてもいいですか?

・子供たちは自分の力で生きていく力を、予め神様から頂いて生まれて来ている

・親が自分のエゴやミエで心配し、先走りし、レールを引いて教えてしまうと、

 自分で考えることができず、計画してきた経験もできず、

 魂の糧にもならい。

 考える力、感じる力が身に付かない

 教えれば教えるほど、これからの長い人生航路を渡っていく力がそがれてしまう

・自分で経験するからこそ、魂の糧となり、教訓を身に着けることができる

・そのために、生まれる前に、その経験(一見、誤りに見える道)を人生に計画してきた

・親は、子供を信じ、子供のやりたいことを、周りで愛を持って見守るだけ

・親は親で自分の人生を笑顔で楽しむこと

・親が自分勝手な考えで子供を誘導しなくとも、計画してきた時期になれば、子供は気づき、行動を始める時が必ず来る

・親が先回りしてしまうと、それが出来なくなってしまう。弱い魂になってしまう。 

また別の動画では、「親の心配」についてこうも言っています。

<以下抜粋>

  

心配は愛ではなく、心を縛ること、鎖につなぐこと(トキ君にとっては、犬の首輪・鎖のように見える)心配ばかりしていると、それが本当に現実化してしまう。

なぜなら私たちの想いは、思い続ければ、叶ってしまうものだから。

だから心配することは「愛」ではない。

お金のこと、病気のこと。これを心配するのも「愛」ではない。

・お金のことを心配し過ぎるから、お金が来ない

・病気などの心配し過ぎは、お金と逆でそれを引き寄せてしまう

・病気のことを心配すればするほど、仲間の病気を連れてやって来る

理屈ばかりを言い立て、怒ることは「愛」ではない。

何時までも、昔のことを水に流さず、繰り返しネチネチ怒る人にも「愛」はない。

「愛」とは相手を信じ切ること、人間は思ったことが、無意識に願いとなり、叶ってしまう。 

<抜粋終わり>

 

私たち親は、肉体を持っていますから、目に見える姿かたちに囚われ・・

子供たちの魂がどのような目的を持って生まれて来ているかを知りません。

私たちは、情を持っていますから、なんとしてでも(どんな手を使ってでも)子供たちに幸せになって欲しくて、手を出し、口を出してしまいます。 

ですが、それは子供の魂にとっては恐ろしく有害です。 

・例え心配であっても、

・子供たちを信じ、

・あれこれ口を挟まず

・子供たちの自由に任せ 

そっと回りで見守ってあげるのが一番良いことかもしれません。 

これは子供だけでなく、周りの方に対しても同じです。 

・そのまま行ったら失敗する

・不幸になる 

そう思っても、もしかしたら、その魂は失敗から学ぶために、その道を選んでいるのかもしれません。

 

また、魂にとっては方向を変える時期と言うものが存在します。

気運が満ちなければ、周りが何を言っても、通じません。反発を買うだけです。 

依存性を増すだけかもしれません。

私たちができることは自分のことだけです。 

例え家族であっても、親しい友人であっても、情を持ってして、変えることはできません。 

それであれば、私たちができることはただ一つ。

私たち自身が、自分の心を洗い、身近な周りの人々と、笑顔で助け合って生きていくことだけです。 

私たちが感謝の清らかな心に満たされて 

・例え生活は苦しくとも

・厳しい人間関係の中に置かれていようとも 

笑って過ごしていれば、神さまの道を進んでいくこととなり、 

その美しい波動は宇宙中に広がって、同じ心の人たちに囲まれて生きていることに気づくことでしょう。 

私たち自身の心こそが、私たちの住む

・見える世界

・見えない世界

までも決定し、作り出しているからです。

決して

・どこかの神様や

・自分には不思議な力があると自慢する人

が助けてくれるわけではありません。


2024年6月20日木曜日

3464「究極の選択」2024.6.20

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月07日の記事を紹介します。


「究極の選択」


今日は神様から示された究極の選択についてです。

ブッダによれば、私たちの悩み事、苦難の多くの原因は自分に起こってきた出来事を 

・受け入れたくない

・認めたくない 

という気持ちから、抵抗し、逃げ出し、そしてそれができない、無駄だとわかると 

・不平不満、愚痴、文句 

を言い、ますます人生を暗くしてしまうことに起因しているようです。  

ですが、本当の真実は 

・その出来事は神様が起こしてくださったことであり

・その目的は、その出来事を通じ、私たちの魂を磨くため

・そしてますます幸せな段階へと、私たちを進ませるためのもの

そういうものだということです。 

すべては、その出来事を、 

・認め

・受け入れ

・その新たな環境の中(おかれた場所)で、

 小さな幸せを見つけ、

・笑顔で感謝の気持ちをもつこと 

そうした途端周りの環境は、一切変化がないのに、一瞬にして、神々に祝福され

天国に住む者に変化します。 

小林正観さんのお子様、慶子ちゃん。

生まれながらに心臓に穴があき、脳にも障害を持って生まれたお子様のお話をお読みください。

<引用開始>

 

正観さんは、変わった紹介方法すると、 

・ブッダの弟子

・そして空海の弟子

・プレアデス星団から地球に来ました 

そのような人です。 

ですが、もう亡くなってしまいました。

その正観さんは、30歳で結婚し、3年目にして、やっと待ち望んだお子さんが生まれたそうです。

待ち望んだ子ということで、お名前は「慶子」と付けました。

ですが、知的障害と、染色体異常であったため筋力が、人の半分しかありませんでした。

その娘さんについて、正観さんが次のように書いています。

 

彼女は、普通の子供よりも筋力が足りないため、早く走ることができません。 

運動会の徒競争に出ると,1位はおろか、2位になることも、3位になることもありません。

いつも「ビリ」でした。

忘れもしません。彼女が小学校6年のときです。

運動会の前に、足を捻挫してしまった友だちがいました。

 長女は、その友だちと一緒に走ることになっていたため、友だちには悪いのですが・・・・

「はじめてビリじゃないかも知れない」と、妻は期待していたようです。

運動会を終え、妻はいつも以上にニコニコしながら帰ってきました。

長女がビリから抜け出したのかと思いきや、「今回も、やはりビリだった」というのです。

ところが妻は、今回もビリだったことを嘆くどころか、ニコニコと嬉しそうにしていました。

徒競争が始まると、長女は、足を捻挫した友だちのことを何度も振り返り、気にかけながら走っていたそうです。

自分がゴールすることよりも、自分がビリから抜け出すことよりも,ケガをした友だちのことが心配だったのでしょう。

友だちは足をかばうあまり、転んでしまいました。 

すると長女は走るのをやめ、友だちのもとに駆け寄り、手を引き、起き上がらせ、2人で一緒に走り出したそうです。

2人の姿を見て、生徒も,父兄も立ち上がり、2人に大きな声援を送りました。

そして、いよいよゴールのとき、長女は、友だちの肩をポンと押して、自分より先に友だちをゴールさせたというのです。 

この話を聞いたとき、私は気がつきました。

人生の目的は競い合ったり、比べたり、争ったりするものでも、努力したり、頑張ったりして「1位になる」ためにあるのではない。

人生の目的は、「喜ばれる存在になることである」私はこのことを、長女に教わりました。

そして娘は、そのことを教えてくれるために、私たち夫婦の子供になったのだと、妻の話を聞き終え、私は そう気がついたのです。

<引用終了>

 

さて究極の選択はここからです。

正観さんご夫婦が50歳の頃、この慶子ちゃんが生まれて 15年位した頃、

お二人でこんな会話があったそうです。

ひとつは、もし神さまが、白い粒でお薬のようなものを差し出して夫婦二人で決めなさいと 言われたとします。

この粒を飲めば、この障害のある子が治り、普通の子のように、健康で元気になることが出来る。 

そう言われたら、そのお薬を飲みますか?どうしますか? 

と話したそうです。

すると奥さまは はっきりと「今のままがいい」と答えられたそうです。

もうひとつは、

3人目の子どもができたとして、事前に知恵遅れであることが分かったとします。 

「それでも産みますか?」 

という質問、選択です。

奥さまは即答した と言います。

「そのまま 喜んで産む」と

そしてお二人して、この慶子ちゃんが、15年経って 本当に可愛いと思っていることが

心の底から分かったそうです。

生まれた直後は大変 悲しい思いなど、さまざまあったけれど、結局全ては、15年経って見れば「ニュートラル」であったと。

良いも悪いもなかったのだと。

 

障害を持って生まれたのが悪いわけでもなく、それを受け入れて、不平不満、愚痴を言わず、

一緒に暮らし、時を経て見れば、決してそれは悪いことではなく、むしろ素晴らしい体験をさせてくれた、と言うことが解ったのだそうです。

「人生の読み替え 遅くない」全ての現象はニュートラルだから、必ず、そしていつでも、

不平不満、愚痴を言うことを止め、静かにそのことに感謝する「読み替え」は必ず出来る。

正観さん そして奥さま。

慶子ちゃんのことが可愛くて可愛くて仕方ないと、仰います。

幸福も不幸も 自分が決めること。 

そのことを、この慶子ちゃんが教えてくれたのだそうです。

もし、貴方が同じ立場だったら、どちらを選択しますか?

今の目の前の苦労が一気に無くなって、安楽に暮らせる薬を飲みますか?

私たちは、生まれる前に、今世で、 

・いつ何が起きるか、

・いつ誰と出会い、いつ分かれるか

・健康な身体か、病弱な身体かを選び 

神さまと相談し、承諾を得て、生まれてきました。 

天国で神さまと 設定した、人生で起こる全ての出来事は、私たちの魂を、より進化させ、

神さまに近付くため という目的を持っています。 

ですので、全ての出来事に意味があります。

全ての出来事が、寸分の狂いもなく、起きるように、神さまがはからってくれています。 

ですので、私たちは、その流れに乗ってさえいれば、 

・ああ、しなければならない

・もっと努力しなければならない

そんなことを全く考えずとも、ただ目の前に起きて来たことに、感謝し、愛を込めて、行うだけで流れに乗ることができます。

なぜなら、神さまのみわざは、どの人にも平等に降り注いでいるのですが、そのみわざ、神さまの祝福が現れるには、人間側の「感謝の心」がどうしても必要だからです。

ですので、人生に現れてくる、様々な出来事に「感謝の心」で、接している限り、私たちは、揉まれ揉まれながらも、魂の輝きが増し、結局は幸せな岸辺に、たどり着くようになっています。

でも、それでも、あなたは今の目の前の苦労が一気に無くなって、安楽に暮らせる薬を飲みますか?

 




2024年6月19日水曜日

3463「幸せになるために」2024.6.19

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月06日の記事を紹介します。


「幸せになるために」


さて、今日のテーマです。

ブッダは私たちの苦しみの原因を思い通りにならないことを、思い通りにしようとすること、そうおっしゃいました。

昨日スタートした「先祖供養プレゼント」に応募されてきた皆様の悩み苦しみも、

今日のこの記事に解決のヒントがあるかもしれません。 

私たちの人生には、物事が、思い通りに運ぶ順境の時もあれば、何をやってもうまくいかず、

周りの人も、自分の期待通りには動かず、悶々とした逆境の時もあります。 

ですが、そのような逆境の中でも、恨まず、憎まず、文句を言わず、人のせいにせず、じっと耐え、魂を鍛えてくださる神々の働きに感謝の気持ちを持ち続け、忍耐を手に入れた人には、良き恵がもたらされることでしょう。 

どのような苦しみ、悲しみが降りかかろうと、それはを生まれる前に、そうなるように設定して来たのは、誰でもなく自分自身です。

今の状況を「あの人のせいで・・」と人のせいにするわけにはいきません。

・今置かれている状況は

・困った出来事は、

・悩みの種は、 

真っ直ぐに自分に向かって、起こっています。

誰かのとばっちりで起きた事ではありません。

自分が苦しみに感じるのと、同じだけのパワーで、自分に対して、生き方や、考え方の見直しを求めて、起きてくれている「出来事」です。

今、時が熟したことによって、やっと目の前に、その現象が現れてくれました。

それは、私たちの魂が、この人生の歩みで、少しずつ進歩して、やっとその問題を感じ、

そして解決する時が来たという証でもあります。

その事を斎藤一人さんがお話してくださっているのでご紹介します。

<転載開始> 転載元

 

生きていると、いろいろなトラブルや問題が出てきます。

そして、問題が出てくると、たいてい、人は悩んだり、苦しんだりします。

でも、問題というものは、自分の魂を成長させるためのものなんです。

人間は、自分に起きた問題を利用して魂のステージ、いわゆる「霊格」をあげていきます。

ただ、ほとんどの人は、自分の魂をどうやって成長させるかを知らない。

それどころか、目の前に起きた問題が

自分の魂を一つ上にあげる階段だということも知らない人も多いんです。

だから、苦労したり、悩んだりするのです。

でも、私はなぜか、昔から知っていました。

問題が起きたときこそ、「魂を成長させる方法」というのがあることを。

魂を成長させると同時に、その問題を解決してしまう方法があるということを。

その方法はたった一つです。

たった一つの方法で、全部の問題が解決できます。

それは、感謝です。

 

なにか問題が起きたとき、多くの人は「なぜ、こんな問題が起きたんだろう」と考えます。

理詰めで考えると、いろいろな原因が思い当たるでしょう。

でも、魂的な視野からいうと、自分に起きるトラブルや問題は

「自分の感謝のなさ」を教えてくれるものとして出てきています。

だから、上司が自分にいやがらせをするのだとしたら、

いやがらせをしない同僚やなんかに感謝が足りなかったのです。

感謝の反対は「当たり前」。

同僚たちがいやがらせをしないのは当たり前だと思っていた。

ということは、感謝を知らないのです。

だから、病気になったのだとしたら、からだに感謝することを知らなかったんです。

それの「気づき」のために、どこかからだの具合が悪くなる。

それに気づき、他の具合が悪くないところ一つひとつに感謝すればいいのです。

必要な治療を受けながら、感謝すればいい。

そうやって、問題のないところに感謝して、感謝して、最後に、問題そのものにまで感謝できたとき、その問題は消滅するようになっています。

これはお約束ごとです。

この世は、そういう仕組みになっています。

ということは、問題が起きたとき、「これは自分が感謝を知らなくて起きたんだ」と思い、

最初から問題そのものに感謝するのが、一番いいんですよね。

でも、最初から問題そのものに感謝する、という流れには行かないものなのです。

だから、最初は問題を起こしていない周りに感謝から始めるのです。 

周りへの感謝から始めると、やがて、その問題にも感謝できるようになります。

そして、魂が上にあがります。

<転載終了>

 

何か自分の意に沿わないことが起きた時、私たちは不平や、不満、愚痴を口にし、

何とかそこから逃れようとジタバタします。

今までのぬるま湯につかったままでいたいと思います。

ですが、そのトラブルや問題と言うのは、私たちに「感謝の心」を思い出しなさい、  

と言うチャンスの時期が到来したと、伝えているのだそうです。

困ったことに対して、不平や不満、愚痴を口にせずに、今まで「当たり前」だと思っていた周りの方々の優しさや思いやりに目を向けて、感謝すること・・

そして最後は、その問題自体にも、 

気付かせてくれたキッカケとなってくれたことに感謝すること・・

すると、一人さんの仰るように、もう問題点は消滅してしまいます。

そして同時に私たちの魂は、また一歩進歩していきます。

今感じている、 

・困ったことは何ですか? 

・不安に思うことは何ですか?

・不満に思っていることは何ですか?

以前の記事にも書きましたが、中間世記憶を持つ子供たちの天国での神さまとの相談の様子からすると、私たちは生まれる前に、両親を選んで生まれてきました。

そして健康な体になるのか、病気の子供として生まれるのか、

どんな経験をこの人生でするのかを、決めたうえで生まれてくるのだそうです。

そして容姿や性格までも、その人生の目的達成のために決めて生まれてくるのだそうです。

性格もです!

これが何を意味するかお分かりですか?

つまり、

・目の前のどうしようもない人、

・自分の思い通りにならない、夫や子供、

・性格の悪い上司

それらは全て、その役割を全うするために、今世において、その性格になることを、嫌われるのを覚悟であえて選んで生まれて来たということです。

元々、その方は、陰険な意地悪な性格の魂だったわけではありません。

今世において、あなたとの関わりにおいて、そのような決められた役回りをする必要に駆られ、その性格を選んで生まれてきたと言うことです。

私たちの身近にいる人と言うのは、一番ご縁が深く、大切にしなければならない人です。

自分が嫌だと感じる一面だけを見て判断するのではなく、感謝の気持ちで、優しさと思いやりでお付き合いしたいものですね。

その方たちは、私たちに「感謝の心」の大切さを教えるために、あえて悪役を演じてくださっている魂たちだからです。

 

最後に作家の三浦綾子さんのお話をご紹介します。 

三浦さんは学校の先生だったのですが、24歳の時に突然の高熱で入院。

その入院が13年にも及びます。

結核自体が、当時不治の病だったのですが、脊椎カリエスを併発。

動かせるのは首だけで、寝返りを打つことも、排泄物を自分で処理することも出来ない毎日。

それが4年も続きました。

その後も、ご本人が「病気のデパート」と呼んでいるぐらい、ありとあらゆる病魔が襲ってきました。

紫斑病、喉頭がん、三大痛い病といわれる帯状疱疹が顔に発症、鼻が潰れる。

「お岩さんみたい」と三浦さんが言うと、お手伝いの女性が「そんなこと言うと、お岩さんに失礼ですよ」と言ったという話をご本の中で書いていらっしゃいました。

そして大腸がん、パーキンソン病と続きます。

普通の人間だったら、絶望のふちに追いやられるのに、三浦さんはいつも明るく、ユーモアに溢(あふ)れていたそうです。

「神様が何か思(おぼ)し召しが会って、私を病気にしたんだと思います。

神様にひいきにされていると思うこともあります。

特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと・・・。

いい気なもんですねぇ(笑)」

人間の精神は、どこまでも闇に行ってしまうこともあるけれど、何かきっかけさえあれば、反転しどこまでも高みに行くこともできるのですね。 

皆さんがご自分の内に居らっしゃる神さまに気付き、お幸せになれますように。



2024年6月18日火曜日

3462「死を超えて明かされる秘密」2024.6.18

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月04日の記事を紹介します。


「死を超えて明かされる秘密」


ブッダの前世の物語、ジャータカによれば、 

ブッダは29歳で修行に発ち、35歳で悟りを開きました。 

インドには古くから、命あるものは生まれ変わりを繰り返すという「輪廻」の思想があります。 

仏教を伝えた人々は、ブッダは無限とも言えるような過去から生まれ変わりを繰り返し、

その中で善業を積んできたから、最終的に悟りを開くことができたと考えました。

このブッダの過去世での善業を伝える物語を集めたのが、「ジャータカ」です。

ブッダはかつて2つの重要な法則を私たちに教えてくださいました。

・因果の法則

・縁起の法則

 

因果の法則(カルマの法則)とは、すべての物事には必ず原因と結果があり、

すべてはその原因と結果の連鎖で成り立っているというものです。

これは私たち人間の生活や人生の話だけではなく、動物や植物といった生命全て、地球そのものが、この因果の法則によって成り立っていると言われます。

縁起の法則では、私たちの生まれてから死ぬまでに起こってくる全ての出来事は、

生きている私たちの意思や努力で変えられるものではなく、

既に生まれてくる前に決めたストーリーの通り、決まっている。

そしてこの人生ストーリーは,私たち自身と、神様で相談して決めてくるのだそうです。

この因果の法則は私たちの宇宙では、ブッダの説いたとおり絶対的な法則ですから、

私たちのこの人生ストーリーも、この法則から外れるものではありません。

神様から私たちの魂が枝分かれして宇宙空間に旅立ってから

今までに生み出した 因(カルマ・・良い意味でも悪い意味でも)によって

私たちは結果を受け取るわけですから、人生ストーリーの中で起こる色々な出来事も、

この因による結果の出来事が組み込まれることになります。

例えば、

・貧しい人に施しをしたことがあったので、困った時に助けが現れる・・

・困っている人を見て、見て見ぬふりをして逃げてしまったので、

 大切な時に物事の遅延が重なり、なかなかことがうまく運ばない

 

など・・(本当はこのように単純には起こりませんが)

 

この因果の法則は、言いかえると宇宙の法則

与えたものが、受け取るもの

と言うことです。

・温かい言葉を投げかければ、温かな言葉をかけられます。

・笑顔を向ければ笑顔が帰ってきます。

・親切にすれば、親切にされます。

・傲慢な態度を取れば、傲慢な態度で返されます。

因果の法則は決して私たちを苦しめるものではありません。

神様が私たちを苦しめる法則など作らないからです。

この人生ストーリーをベストなタイミングを図り,起こしてくださっているのが神様や仏さま。

そしてこの地球において、そのストーリーを展開するために、 

色々な役割を演じてくださっているのが、友人・知人・家族たちとなります。 

様々な役目があります。

・親切な役

・憎まれ役

・味方、敵

・殺し役、殺され役

・運命を回転させる推進役

・親、兄弟、友人、同僚役

全部この因果の法則の「結果」部分の出来事を、私たちの人生という大舞台で

一緒に演じてくださっています。ブッダが縁起の法則で言うように、

私たちの人生ストーリーは、寸分の狂いもなく決まっており、私たちは、その流れに身を任せるだけです。

ブッダの言うように、私たち生きている間の

・意思や努力

・必死なもがき

で変えられることは 0パーセントです。 

変えられません。

ましては他人(子供や家族を含め)の人生を、

私たちの自分勝手な価値観で変えさせようとすることなど不可能です。

因果の法則も、縁起の法則も、神様が決めた法則です。

つまり「慈悲や愛」に根ざしているということです。

神様と私たちが生まれてくる時に決めてきたシナリオは、

私たちの魂の成長を目的に書かれていますから、愛そのものと言えます。

私たち生きている人間は、起こってくる出来事を

「あるがまま、ありのまま」 

に感謝して受取り、下手にもがいたり、変えようとは思わず、神様を純粋に信じて生きていればそれで良いようです。

難しいことはありません。

自然界に生きる、動物や植物たちと同じです。 

私たち自身の決断も、行動も結論から言えば、もう決まっていることです。

私たちは神々の「愛」を信じ、「あるがまま、ありのまま」の流れに任せ、

神々が織りなす愛と善を自分自身の役割として演じながら、味わい、理解するための経験を,この地球でさせていただいているのかもしれません。

 

因果の法則とは、盗んだから盗まれる。。と言うような単純な反応ではなく、

様々な因が絡まりあって、結果を生むようです。

激しい結果を受け取ることで、一気に沢山の因の解消を図ることもあるようです。

(そのためには強い魂である必要がありますが)

これも神様と相談して人生ストーリーに組み込まれます。 

そしてもう一つ大切なことがあります。

既に因果の法則の「因」を燃やしつくした方も居らっしゃるということです。

その場合、因果の法則の因に縛られることがありませんから、行動の自由度も増しますが、多くの場合は、既に高貴な魂となっていますから、自己犠牲的な、人類の成長に貢献するような出来事を人生ストーリーに組み込んで来られる方がいらっしゃると言うことです。

3.11の東日本大震災では,多くの犠牲がありましたが、その方々の貴重な生命の犠牲をキッカケとして日本の集合意識は大きく目覚めました。

神々の計画であった精神性の復活の時代が始まりました。

生きている人間からすると「死」と言うものは永遠の別れ、悲しいもの、忌み嫌うべきものと捉えがちですが、大きな永遠の生命の流れの視点から見れば、一つの通過点という意味になります。 

悲しいことではありません。

また逢えるのですから。

ですがその分、生きている人々に大きなインパクトを与える出来事になります。

悲しい、苦しそうな、辛そうな死を迎えた人もそこには大きな意味があったということです。

決して偶然に、運悪く、バチが当たって死んだわけではありません。

それをきっかけに世の中の流れが変わったのかもしれません。

周りの人の心に何か変化が起こったかもしれません。

 

自然界を見れば、この自己犠牲的な死を選ぶ動物や植物は沢山います。

それは、その動物たちの集合意識が、個の生命よりも集合体としての,全体の存続を選んだ時です。

決して自分が死に役になったからと,不平・不満を言う者はいません。

人間も同じです。本当はそんな純粋な心を持っています。

人間の肉体の生体反応では,頻繁にこのことが行われています。 

ある細胞が犠牲になることで、他を生かすようなことが沢山あります。

たとえ私たち残された者たちの顕在意識が、疑問、不満を持ったとしても、本当は潜在意識、次元の上のレベルの私たちの意識では納得しています。

それが最後の別れではないと知っているからです。

その出来事を通過することで、 

全体の調和と進化が測れることが分かっているのですから。

死別は大きな出来事です。

その隠された秘められた大切な、壮大な意味は神様しか分かりません。

ですが、神様は私たちを見捨てません。 

裏切りません。愛そのものです。

残された私たちは、今 目の前の人、事を大切に、誠実に生きることで、亡くなった大切な人たちと、死を乗り越えてまた笑顔で会えることでしょう。

そして秘められた秘密は、死を超えて、その再会の時に 

きっと明らかにされることでしょう。