今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月18日「因果応報」と2024年06月19日「縄文回帰」の2つ記事を紹介します。
「因果応報」
21世紀に入ってから、ずっと日本は「一億総いじめ社会」などと言われ
・不寛容な社会
・殺伐とした社会
・陰湿な社会
が出現していました。
それが、2011年の東日本大震災、そして「コロナウイルス」をきっかけとして、この冷酷な心が、少しづつ溶け始めています。
大きな犠牲のもと、神々がそう仕向けたのです。
このいじめ社会の中では、自分以外の他人の言葉や、行動に寛容さが足りず、すぐに歪んだ正義感を振りかざし、その雰囲気に付和雷同した人々とともに、相手をとことんまで、貶めて、再起不能にさせます。
非難する側は必ず「正義」を振りかざします。
正義感を隠れ蓑に、他人を傷つけて、楽しむ心理があるのかもしれません。
今日は、人から悪口や、イヤミを言われた時どうすればよいか?
斎藤一人さんが非常に簡潔に、優しい言葉で大切なことを仰っていますのでご紹介します。
<転載開始> 転載元
人間関係の問題は、いろいろあるんですけれど、
「これだけ覚えておけばいいですよ」というものがあるんです。
これだけ覚えておけば、いろいろな問題があるなかの8割は大丈夫。
解決するんです。
この世の中には“嫌なヤツ”っているでしょう?
イヤミを言ったり、いばったりする“嫌なヤツ”がどこに行ってもいるんですけれど、
それをやめさせようとしちゃいけないんです。
「復讐するは我にあり」じゃないけれど、復讐は人間がすることではないのです。
悪いことをした人には必ず、神さま(自分自身の良心)によって、同じように悪い報いがくる。
だから、ことのなりゆきは、天の神さまにお任せするんです。
そして…ここが大事なところですよ、いいですか。
「やられたらやり返せ!」って、その“嫌なヤツ”の悪口を言っていると、今度は言った人に、悪い報いがきてしまうんです。
自分の畑にピーマンをまいたからピーマンがなる。
自分の畑に、自分で麦をまけば、麦がなる。
そして、自分がまいたものを、自分が刈り取るんです。
隣の人が唐辛子をまいていても、唐辛子を収穫するのは隣の人であって、あなたではありません。
それと同じで、あなたがイヤミなことを言われた場合、悪いことが起きるのは、あなたではありません。
あなたにイヤミなことを言った、その人間です。
つまり、放っておいても、勝手に相手は痛い目をみるようになっているのです。
それを、あなたがもし「イヤミを言われて嫌な想いをさせられたんだから、こっちも、あの人にイヤミをお返ししてやるんだ」という気持ちでいると、あなたから、“居心地のよくない”ムード(波動)が出てきます。
それではあなたに、人も、運も、お金も、近寄ってきてくれません。
それどころか、自分が望まない、嫌なことを招き寄せてしまうんですよ。
だから、復讐しようとしちゃいけないのです。
復讐はあなたの仕事ではありません。
神さまの仕事です。
<転載終了>
よく人の悪口を言う人がいます。
また現在のようにネットが普及してくると、SNSで人の悪口や非難をする人も目にします。
もしかしたら、相手がいないところで、自分の周りの人に、悪口を吹聴している人もいるかもしれません。
そして、それに対して、反応してしまい、今度は自分が同じようにやり返す方もいます。
ですが、それらの行為は、一人さんが仰るように、やめた方が良いかもしれません。
今度は言った相手ではなく、仕返しをした自分自身が同じ土俵に立ち、同じような嫌な波動をまとい、自分自身の人生に不幸を引き寄せてしまうからです。
やられたからやり返す。
そうしなければ、自分は正しく生きているのに、何だか負けた気になってくる。
やられ損にはなりたくない。
それらの心では、必ず相手と同じ波長をまとってしまいます。
私たちの住む世界は、自分の心の状態が現実を作りますから、
その汚れた心と同じ現実が自分の周りに現れてくることでしょう。
ですから例え悪口やイヤミを言われたとしても、それを心に留めず、受け流し、受け取らなければ良いことです。
もし目の前で言われたのなら、ニッコリ笑って「ご忠告ありがとうございます。感謝します」と言って、離れたら、また元のようにご自分の信念に基づき行動すれば良いだけです。
ブッダもこのような時、静かに反論せず、受け取らなければ良い・・ そう仰っています。
人から根拠なき悪口やイヤミ、陰口を言われることは日常茶飯事ですので、一人さんの仰っる方法を実践するだけで、かなり楽に生きられるかもしれませんね。
みなさんは、この言葉ご存知ですか?
「断じて行えば、鬼神も之を避く」
断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。
と言うことです。
私は、これを
「ありがとう」の言葉を常に口にして、感謝の心で生きている人のことだと思います。
「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、どんな人が、
・蔑み(さげすみ)、
・陥れ(おとしいれ)
・危害を加え
・足を引っ張る
ことができるでしょうか?
また、神々が破滅の運命にひきづりこもうとするでしょうか?
これから先に、何が起こるのか、誰もが不安ですが、感謝の気持ちでいる限り、
どのような運命に置かれようと、必ず助けが来ることでしょう。
神々がなさることに安心して身をゆだね、身近な周りの方々と
笑顔と思いやり、お互い様の気持ちで生きていきたいものですね。
「縄文回帰」
日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。
これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とは言えません。
古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。
そこで説かれることは、
・神々の恩寵は、人間の感謝の心を媒介として現れる
・神職など、職業的な立場の人を媒介とするのではなく、人間が心を清め、神々と直接的に繋がることが大切
など。
これらは、私たち一般人の、今までの常識とは少し異なっていることかもしれません。
ですが、このことは古代から存在している由緒ある神社仏閣では、常識とされていた物のようです。
私がこのことを、はっきりと知ったのは、春日大社の元宮司、さらに日本の形成外科医の草分け的な存在であった葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本からです。
巫女や神職など、人々と、神々の間に入り、仲介することを、職業として行い始めたのは、
多分、日本では大和朝廷設立 直前、つまり大陸からの好戦的な民族が日本全国を制圧し始める直前の邪馬台国の時代、卑弥呼やその後継、トヨなどの時代からと思われます。
それ以前の日本は平和で、神々と人々が直接繋がり、世界一、平和で豊かな時代と言われる縄文の時代でした。
約1万5千年続いたと言われています。
大陸から好戦的な民族、弥生族が来るまでは、争いもなく、所有の意識もなく、上下の違いもなく、人々、一人一人が純粋な心を持ち、それゆえに、みんなが直接的に、神々と繋がれた時代でした。
もし、日本古来の神道というものがあるとするならば、それは縄文時代に一般的だった
・物の見方、
・考え方、
・生き方
そのものです。
そして、それはムー時代の生き方でもありました。
私たち日本人は、縄文の古来より、ムーの生き方を大切に守ってきた民族と言われています。
そして、その精神と伝統は今でも息づいています。
文明の大転換点である今、西洋で始まった産業革命に端を発した利益追求主義、行きすぎた資本主義、骨までしゃぶり尽くす金融資本主義は終わろうとしています。
この終焉を迎えようとしている現在の文明では、人々は、ずっと真実から遠ざけられ、常に不安の中に置かれ、自立した魂の働きが封印されて来ました。
常にお金や権力に頼ろうとし、常に力ある者、能力あるものに頼ろうとする依存、執着の状態に置かれたのです。
それは、彼らが軽蔑の意味で使う、ゴエム(奴隷)と言われる状態です。
この時代、その仕組みを お手本に
・大小様々な、依存・執着と
・それと一体となった支配
が、私たちを身近で取り巻いて来ました。
この精神構造は宗教でもそうでした。
イエスの生きた時代、イエスは、宗教など作りませんでした。
イエスの死後、国王をもしのぐ、強大な権力を握ろうとした者たちにより教会が作られ、戒律が制定され、宗教と言う組織が出来上がりました。
それは、人間の持つ、ピュアな信仰心とは、全くの別物であり、まさに人々を権威と恐怖で縛りつけ、他者(教会)に対する依存・執着状態に置き、自分たちを、その対極となる
支配する立場に置いたのです。
それが、今まで私たちが置かれていた精神構造でした。
本来は、イエスやブッダのように自立した自由闊達な魂の状態で、神仏に対するピュアな信仰心、先祖を大切に思う敬心
そして、生きている人々に対する、
・お互いさま
・お陰さま
相手の個性、尊厳を大切に思う温かな心、優しい心であったはずでした。
ですが、この宇宙の大神様が作ってくださった人間の精神が、萎縮させられて来たのです。
「縄文回帰」が様々な所で叫ばれています。
縄文回帰とは、この、依存と執着、そして支配の構造から人間の精神を解放させ、縄文の時代のように人々が、一人一人、直接的に神々と繋がる時代を思い出そうと言う、大きな運動(ムーブメント)です。
これは、ブッダグループが1,200年単位で、人類に対するアプローチをしている中で
現在、実際に行っているアプローチ方法です。
このブログで何度もご紹介しています通り、ダライ・ラマ、そしてマザーテレサも同じことを仰っていますので、ブッダ・グループの計画を知り、そして協力なさっているのでしょう。
そして、その人類へのアプローチが目指すものは、一人一人の人間の 本当の幸せです。
私たち人間はしっかりと自分の足で、大地に立ち、例え、貧しくとも、例え、病にあっても、
清らかな心で、天を仰ぎ、神々に感謝し、そして微笑む時、本当の幸せをかみしめることができるのかも、しれません。