2018年1月4日木曜日

1174「伊達4」2018,1,4

 次の目的地、柴田町葉坂にある拆石神社には以前にも中山さんを同行したことがあります。その時は、中山さんからこの場所は重要な所とお話がありました。
 道路の脇には直ぐに鳥居があり、城壁のような石組みの急な階段の上には立派な山門があり、階段を登ると直ぐ正面に神社の社殿があります。右手には鐘楼です。



 以下は拆石神社の紹介です。
「拆石神社は御由緒によると
「往昔、宮下宅と呼ぶ地の後山に在り、拆石神社鎮守明神といった。
 平城帝の大同2年6月14日此神後山の社地を去り飛揚倏忽、其の有る所の巨石を裂きて、これを中分し石中にやどる。石形並立して屏風のようであった。かく石厳を折いて入り給ひしを以て郷人これより拆石明神といった。
 又、平城帝の御代、坂上田村麻呂将軍統制の折りこの神社を勧請し、武運長久を祈願したともいい、又、古老いわく、日本武尊東征の折、磐坂皇子を祀ったとも伝えている。村名元磐坂(後・破坂・葉坂)と称したのもこれによるという。・・・(後略)」とあります。
 由緒の通り、中腹から岩が裂けているように巨石が積まれ、周囲は神聖な雰囲気が漂っています。古来から山岳信仰や巨石信仰など、このような場所は神聖視される事が多く、この場所も古くから信仰の対象になっていたのではないかと思います。
 古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が排除され社号を「拆石神社」に改めて明治6年(1873)に村社に列し、大正3年(1914)に供進指定神社に指定されています。」

「拆石神社の創建には諸説あります。
 一説には大同年間に坂上田村麻呂により勧請された。
 一説には日本武尊が東夷東征の際に磐坂皇子の御霊を勧請した。
 一説には大同2年に御神体の山の中腹にある巨石から神が出現しその岩に宿ったとも云われています。
 古くから神仏習合していたようで往時は「拆石明神」と呼ばれ、現在も神社山門や梵鐘などが残されています。
 拆石神社の創建由来には上記のように所説ありますが、境内背後には奇岩怪石が控えている事から古代から巨石への畏敬の念から自然崇拝の対象となり、その祭祀施設が前身だったと思われます。
 巨石の裂け目は生命の源のようにも見え、祭神である大宜都比売神が穀物の神である事からも自然の畏敬から生産への期待に変化したと思われます(大宜都比売神は養蚕の神でもある為、養蚕業が盛んな地域だったのかも知れません)。」


 Sさんが梵鐘を打ち鳴らし、参上したことをお知らせし、裏山の巨石のところへと進みます。両側に巨石が連なり、その間はV字形になっています。そこは風が吹き抜けてかなり冷えます。  
 その巨石に向かって皆であわ歌を響かせ、あわ歌の後に「あゐうゑを」を発しました。今日皆さんとあわ歌を響かせたのはここが初めてです。

 その時のお言葉です。
「この度の大きなる事、いよいよ成るなり。しっかり 支えよ。
 この地の大いなる岩、響きと共に動き出す。
 大きなる動きに乗り行きて、この岩、遥かなるをここに見せる時迎えます。
 深きその中より出でるは、新しき水ぞ。
 ここより流し行かれませ。」10時48分








 新しい水がここから流れいくとありますが果たして如何なことでしょうか。