2018年1月21日日曜日

1191「救世主9」2018,1,21

7、過去の正統の忘却
  これは難しいですね。つまり、正統なる縄文神、瀬織津姫、宇賀神、アラハバキなど、かつてこの地球を統べ、宇宙の中心核となっていた正統なる神々の存在を封印しただけでなく、封印した事実すら忘れてしまうこと。
 そして地球の運営者、権力者たちも自らが封印したそういった存在のことを世代が変わるにつれ、徐々にその精緻な記憶が消滅していっているわけです。
 しかしサタニズムに携わる者であるならば、そういった過去の正統な流れについて決して忘れてはならないということです。

(これは、かつては広く受け入れられていたものを新しくする場合に利用される洗脳の一つの方法である。過去を忘れて”創始者”の才能ばかりを称えるのは使い捨て社会を助長するものである。)

8、非生産的なプライド
 プライドとは誇りのもとであり自尊心のことです。非生産的とは何も産み出さないこと
であるのと同時に、それは逆説的な意味で、すべてをぶち壊す、という意味に通じます。つ
まり、おしなべますと、非生産的なプライドとは、すべてをぶち壊す自尊心という意味に
なります。
 これは現在の日本の日本すごい論に通じます。身の丈以上の自尊心はやがて、自分の都合の良いように物事を解釈しはじめます。そしてプライドは得てして虚栄を生じさせます。これはまさに1の愚鈍さに通じていることです。
 自己中心的に生きること、利己主義に生きることと、自尊心は違うのです。自己中心的、利己主義に生きるためにどれだけ修練を積まねばならないのか。そして自己鍛錬、修練を積むことによって、じつは自尊心というものは滅却されていくのです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がありますよね。人は立派になり、偉大にな
ればなるほど謙虚になっていくものなのです。しかし多くの人は地位や立場が上になればなるほど偉そうになっていくのです。つまり表層的な肩書きによって妙なプライドとやらが持ち上がってくるのです。つまりプライド、自尊心というものがあるうちは、まだまだそのものは偉くなどないということ、立派でもないということになります。
 偉くもないし、立派でもない者がサタニズムだなど片腹痛いわ!という感じになりましょうか。

(非生産的という言葉を強調しよう。あなたが大切なものまで捨てるはめにならなければ、プライドは素晴らしいものである。自分のためになるならそれでよし。しかし、そうでないときに、惨めな思いをして、「許してくれ、間違いだった。なんとか折り合えるといいのだが」といえるのなら、そうするがよい。)

9、美意識の欠如
 美意識とは無条件で絶対的な美を見抜く力と、それを常に行使し物事を選択的に観察するものが持つ意識のことです。つまり美意識とはオシャレに格好つけることとは根本的に違います。ここで言う美とは人為的で計算された美のことでもありません。宇宙を構成する絶対的な自然と均衡のことを美と称しているのです。つまり美意識とはそれを見分けられる目のことです。
 今ある状態から何が多すぎて、何が足りないのかを見極める視点です。それはいわば、大自然の完全均衡を図るアラハバキの働きに似ています。また、人のあり方に付いて精緻に考量できる意識も美と言って良いでしょう。人が生きる上で何が大切で、何が不要かを選択できる目でもあります。
 およそサタニストになるのであれば、通常おおくの人々が気にも留めないような些末とも思われる出来事や事物に対して、精妙に意識を向けなければならない。そういうことです。
 そして何よりも、己自身この人間としての生物が常に大自然と共にいられるのか?宇宙と共にいられるのか?それは大自然の運行に逆行していないか?宇宙の運行に逆らっていないか?私自身が大自然や宇宙の均衡を乱していないだろうか?こういうことに常に気を払えることこそが美意識であるといえましょう。

(これは調和の問題で、美意識は小魔術に必要なものであり、洗練されるべきものである。消費社会では古くなった美的観念から金や時間を得ることはできない。しかし、美を”見る目”は悪魔主義にとっては欠かせない道具であり、魔術の効果を上げるものである。それは確実な喜びをもたらしてくれる。美意識は個人的なものだが、多くの人を喜ばせる調和のとれた配列というものがあることも否定できない。)