2021年1月11日月曜日

2209「他者を思い生きる」2021.1.11

 木の花ファミリーのいさどんさんの2021年1月5日のジジイのブログから元旦のお話を紹介します。


ただただ、他者を思い生きること 〜 2021年1月1日 

私は、夢を見ました。

それはどこか工場のようなところで、ほこりっぽく、あまり衛生的とは言えない閑散とした場所でした。そこにビニールのようなものに包まれた、卵よりも二回りほど大きな水のかたまりが、ほこりにまみれて、いくつか転がっていました。それはどこからか現れて、少しずつ増えていきます。そして増えるごとに、その場が幸せになっていくのです。

 その感覚を、言葉でどう説明したら良いのかわかりません。そこは美しく整っている場でもなく、近代的な設備もないのに、まだ未完成のその工場を稼働させ、実験を繰り返していると、不思議と幸せな気分が満ちていくのです。何かを創ろうとしているけれど、何を創ろうとしているのかわかりません。何かのエネルギー源がそこにあるのかというと、そういうわけでもない。ただ幸せな気分が生産され、広がっていく。生産の仕組みはよくわかりませんが、そこにある原理は、「ただただ、他者を思って生きなさい」ということでした。

 もしもこんな世界があるのなら、これを最終到達地点としていいのではないか ——— そう思えるほど、その場は不思議な満足を与えてくれました。大きな卵のような水の玉が、その空気を生んでいるようでした。そこには美味しい食べ物が並んでいるのでもなければ、快適な空間があるわけでもない。何もたいしたものを生産していないのに、こんな気分ならもう何もいらない、これでいい ——— そう思いました。


先日、木の花ファミリーではクリスマス会がありました。会の最後に、大人も子供も一緒になって、木の花楽団の新しい歌を合唱しました。その歌はまだ不完全で、私は初めて聴いた時から「この歌には何かが足りない」と感じていました。ところがいざ合唱が始まると、小さな子供からお年寄りまでがひとつになって、みんながその場を良い場所にしようと歌っていました。みんなはこの日に向けて練習をしていましたが、それで何か得をしようとか、見返りを求めていた人はいなかったでしょう。ただ誰もが、人を喜ばせようとして歌っていました。

 その時私は、次の世界を見たような気がしました。そうすると、何かを得ようとする心が消えていくのです。もっと少ないエネルギーで、満足して生きていける。そういう世界を味わったのです。


夢の中の工場はまだまだ未完成で、さらにレベルを上げるために探求をしていました。ちっとも美しい場所ではないのに、そこには「なぜだろう。どうしてこんな気分になるのだろう」と不思議になるほど、幸せな気分が満ちているのです。まるでこれまでに体験したことのない麻薬でも使っているかのようでした。そのベースにあるのは、ただただ、他者を思って生きること。それがその場の原料となり、自らの幸せの元となり、新しい時代を創っていく原動力となるだろう、と感じたのでした。

今、新型コロナウィルスの感染拡大や地球温暖化など、世界が大きな行き詰まりに直面する中、それでもなお、人々は現在の暮らしの延長線上に未来を描き、それを維持することでしか先が考えられない状態になっています。しかし、過去を振り返ってみれば、現代の私たちの暮らしは、人類が歴史上経験してきた多様な歩みの中のたった一つである、ほんの一瞬のものに過ぎません。現代の人々は、そのたった一つの生き方に縛られ、社会の先行きに不安を感じながら、今なお同じ生き方のままで突き進もうとしています。しかし、それは進めば進むほど、さらに無理のある世界を突き進めていくことになるのです。

 その進んできた道を振り返り、冷静になり、本当にこれしかないのかを考える時が今、来ています。視野を広げ、客観的に捉えてみれば、これまでの延長線上を突き進むのとは違う、新たな方向が観えてくるはずです。


世界はもともと、調和で創られています。調和が表現されれば、そこには自ずと持続可能な世界が現れてくるのです。人間以外の生命は、すべてが調和し連鎖していく大生命生態系の循環の中にあります。近年、私たち人間がより豊かでより幸せな暮らしを追求してきた結果、現在の世界が持続可能でなくなっているとあなたが思うならば、私たちはもう一度、豊かさとは何か、幸せとは何かを捉え直す時に来ています。

 現代の人々は、何かしら心に不安を抱えて生きています。不安であるが故に、人と同じになることで安心を得ようとし、一律に同じものを求めてきました。個性の違いを無視し、一律な尺度で人と比較することで優劣を生み、人より豊かになろうとして争うようになったのです。そして自らが得することばかりを考え、その優越感を持ち続けなければ不安を感じるようになりました。その一方で、他者のことを顧みず、自らの好きなことだけで日々を送る人々も増えています。そのどちらも、根底にあるのは「自分さえ良ければいい」という心です。その結果、地球の本来の姿である大循環生命生態系とは程遠い世界を創ってしまったのです。

 しかし自然界の生き物を見れば、一見自らのためだけに行動しているようでありながら、その行動には節度があります。ここまで得たらそれ以上は求めない、即ち「足るを知る」ことを本能的に知っており、生態系のバランスを崩すことなく、自らの必要を満たしているのです。かつて人間も、他の生命たちと同じように、自らの命をつなぐために必要な分だけを生態系の循環の中でいただき、その仕組みから逸脱することなく生きていました。ところが産業革命以降、科学技術の発展によって自らの願望を叶える快感の虜となっていった人間たちは、際限なく欲望を膨らませ、他の生命を犠牲にしてまでも、自らの豊かさを追求するようになりました。

現代を生きる私たちは、とても豊かな暮らしを享受しています。日々働いてお金を稼ぎ、そのお金で物を消費し、食べ物を食べ、余暇を楽しみ、何も悪いことはしていない、当たり前のように思っている私たちの毎日の暮らしが、他の生命の犠牲の上に成り立っていることを認識している人々が、世界にどれだけいるでしょう。


人間は、多種多様な地球生命の長い進化の物語の末に、地上に誕生しました。その命は、自然から与えられるものによってつながれてきました。今もその仕組みに変わりはありません。ところがその仕組みの中にあって、人間はいつしか自分のことだけを考えるようになり、人間のためだけの社会が地球上に異様に展開するようになりました。

 その行き過ぎた人間の行いに対し、地球は今、警告として様々な現象を起こしています。他の生き物たちは、人間の行いの犠牲となっていくことはあっても、それを危機だと騒ぎ立てることはありません。ただ人間が気付くように、自らが絶滅するといった現象を通して、メッセージを送っています。それは、声なきメッセージです。そのように、強いメッセージを発することのできないもののことを思う心が、これからの時代を生きる人々には必要です。自己主張のできる人間のことばかりを優先することは、もう終わりにしなければなりません。それが、他者のために生きるということです。


今、新型コロナウィルスには外出規制や治療薬の開発、温暖化にはリサイクルやクリーンエネルギーの推進というように、世界中で起きている様々な現象を、人々は物理的な対処によってのみ解決しようとしています。しかしその物理的現象はすべて、人の心が元となり、発生しています。「自分さえ良ければいい」という根本に不調和を生む人間の心を変えることなく、テクノロジーの力で問題ごとの表面的な解決を図っても、その根本的な解決を先送りすればするほど、さらなる問題が現れてくるのです。

 人間は楽になることが豊かさであると思い、その高い能力を使い、便利なものをたくさん創りました。しかし、便利なもので身の回りを固めれば固めるほど、自らの生きる力(生命力)を失っていくのです。そして能力を失ったことで、さらなる問題が自らに起き、それを解決しなければならなくなるのです。だからこそ、際限なく求め続けるのではなく、「足るを知る」。そこに気付く必要があります。

 それには、既に十分であることに気付くことです。私は既に、十分与えられている。自分で獲得したと思っていたものも、実はすべてこの世界の大いなる循環の中で与えられたものであり、私がこうして存在していること自体が、生きることを与えられている。存在することを与えられている。ありがたい。そのような謙虚な心になった時、初めて、これまで追い求めてきたものとは違う豊かさに出会うこととなるのです。それは、心の豊かさから生まれてくるのです。

人間がこれまで築いてきたものを否定し、返上しようということではありません。この世界が循環によって成り立っているならば、循環とはすべてを肯定することです。これまでにあったことはすべて、それが必要な時代だったから存在したのであり、それが行き過ぎた結果様々な矛盾が現れてきたということは、私たちは自らの姿勢を振り返る段階に来たということであり、それは次のステージへ進むために大切なことです。否定ではなく、肯定し、そこから学ぶ。そうすることによって、私たち人間は進化することができるのです。


有史以来の6500年の歴史の中で、地上には様々な文明が生まれては消えていきました。その消滅の原因は、行き過ぎた文明の発達によってバランスを欠いた環境破壊であったと言われます。産業革命以降の急速な科学技術の発展により栄えた現代文明は、過去に類を見ない速度で環境を破壊しながら、その高度なテクノロジーにより文明を維持し続けています。しかし、矛盾の根本にメスを入れることなく、矛盾を生み出す元である現代文明を人工の力のみで保ち続けることは、さらなる重大な結果をもたらすことになります。だからこそ、その根本の原因に気付くことで、偏った豊かさを突き詰めてきた鋭い矛先を収め、破壊の手を止めなければなりません。

 右肩上がりの経済から一歩引き、本当に必要なものは何であるのか、余分なものは何なのか、その仕分けをする時が来ています。今まで通りの生活を維持することから、求める心を少しだけ引いて80%にしてみれば、足りないものはみんなで共有するチャンスを得ることができるのです。それが難しければ、まずは90%から始めてみる。やってみて大丈夫なら、今度はさらにその90%にしてみる。そうやって少しずつ慣らしていくうちに、みんなで助け合い、無駄がなくなり、生きることの新たな方向性に出会えるのです。

それは難しいことのように思えるかもしれません。しかしこれまで他の生命の犠牲の上に成り立ってきた私たちの欲望は、100%でも飽き足らず、さらに120%も200%も求めてきたのです。その矛を今収めなければ、鋭い矛先がいずれ、自らに向かうことになるでしょう。

新型コロナウィルスは、その行き過ぎた人間の行いに歯止めをかけました。今はコロナウィルスによって無理やり強いられているように思えることを、私たちが自らの意志でできるようになったなら、コロナウィルスが現れることはなくなるかもしれません。その力を借りる必要がなくなるからです。それが次の時代に求められる私たちの生き方です。

 人間は失ってから気付くものです。だからこそ今、これまで当たり前であったものが失われようとしていることで、世界は私たちにメッセージを送っています。しかしそのような痛みをもらわなくとも、私たち人間には、これまでの行き過ぎた行いを振り返り、そこから学び、傷付いた世界を再生させ、新たな方向性を見出す能力と可能性が秘められています。その道の始まりとなる心が、他者を思うことです。


世界は、共有のもとに成り立っています。私たちはすべての生命と、太陽や水や大地や空気や風を共有しながら、大いなる命の循環の中で生かされています。その中で、他者を思い、他者のために生きることは、私たち生命にとって当たり前の姿なのです。

 私たち人間の本質は、愛や絆によって、みんなで力を合わせて生きることが幸せな世界を生む元になると、どこかで知っています。ところが自我が膨らみ、自分のことだけを考えるようになった人々は、他者のために生きることがまるで自らの自由を阻害されるかのように感じるマインドコントロールにかかっています。しかし、他者のために生きることは、本来とても心地良いことなのです。

 これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。

 それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる —————


私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。

そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。

 この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。

 そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。

そのような世界があることを、私は観たのです。