胡四王神社の概要は以下です。
「胡四王神社の創建は大同2年(807)坂上田村麻呂が東夷東征の際、戦勝祈願する為に、自らの兜に納められていた薬師如来像を胡四王山(標高183m)の山頂に一宇を設けて奉納したのが始まりとされます。
中世には稗貫郡一帯を支配した稗貫氏の庇護を受け寺院(胡四王寺:天台宗)として末寺18寺を擁し大きく発展しましたが、天文年間(1532~1555)の火災により社殿が焼失し、天正18年(1590)、稗貫氏が豊臣秀吉による奥州仕置により改易されると庇護者を失い一時衰退します。
近世になり盛岡藩(岩手県盛岡市:本城-盛岡城)支配になると藩主である南部氏の祈願所となり社領8石1斗9升9合の安堵や社宝の寄進、例祭には藩主の代参が参拝を行うなど再び社運が隆盛しています。
古くから神仏習合していましたが、文化15年(1804)に別当だった杉道春が還俗し改めて神官となった事を受けて本地仏だった薬師如来を廃し、大己貴命と少彦名命の分霊を勧請し矢沢神社に社号を改めました。明治6年(1873)に郷社に列し、昭和29年(1954)に現在の社号である胡四王神社に改めています。祭神:大己貴命、少彦名命。
又、毎年1月2日に奉納され、慶応元年(1865)に流行病を鎮める為始められたという蘇民祭は花巻市唯一の奇祭として貴重な事から、名称「胡四王神社蘇民祭」で平成7年(1995)に花巻市指定無形文化財に指定されています。」
胡四王神社の創建は大同2年ですが、今朝訪れた遠野市の早池峰神社は大同元年です。この地域の主な神社は大同2年創建で、最初に早池峰神社が創建されています。ある意味で早池峰山、薬師如来、瀬織津姫神を中心にする信仰に従う形で要所に神社が祀られているのでしょう。ですからこの胡四王山は四方を見渡せる拠点として戦略上も重要視され、かつ又早池峰山の遥拝所であったと思われます。
胡四王の三女神伝説がありますので紹介します。
「太古、この盆地に薬の神様がおられ、秋晴れの日、三人の娘達と野外を歩き回った。娘達は年頃であったから、どこからでも仰ぎ見られる高い 山の神になりたいと思い、四方の山の品定めを密かにしていた。そして、 奥山の早い雪に包まれ、神秘の山になりきっている早池峰山へ行きたい と、それぞれぞれの心に決めた。
秋日和のぽかぽかした花園につくと、三人ともつい気持ちが良くなって 眠ってしまった。この時、天から蓮華の花がひらりひらりと落ちてきて、 一番上の姉の胸にとまった。最初に目を覚ましたのは妹だった。妹は、そっと姉の胸の上の花を取り上げ、早池峰にいち早く飛び去った。次に 目を覚ました二番目の姉は、南昌山へと。最後に目を覚ました姉は一番低い胡四王山の女神になった。この為に姉神は、目を覚まさずに遅れを取った悔恨を、盲目の人達に味方する事で晴らそうとしたという。」
胡四王神社は毎年1月2日に蘇民祭を行います。蘇民祭のそもそもの発祥は黒石寺です。現在この地方で8箇所で蘇民祭が行われますが、黒石寺に次ぐ規模のようです。黒石寺とも繋がりがあります。
社殿前の日陰で皆さんで円をなして、中央にTさんを配してあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「振り来る光は、踏み行くこの地を 照らし来たり。それぞれ皆へと参り来た。
新たへの道照らすは、響きと共なり。
一つとなりて、それぞれの身へ届き、発すれば、道開き行く。この時なるなり。
さあ さあ いざ いざ 参られませ。」11:08
2年ほど前にここに参拝した時に、Tさんが一際目を引く色合いの小石を見つけて拾いました。丁度、手のひらに収まる大きさで、受送信器の様な感じで、情報伝達に使えそうです。木に触れさせて通信したり、宮沢賢治と繋がったり、あわ歌の中山さんのツアーに同行してアメリカ、モンゴル、スペインにも持参されて世界各所を旅した石です。
今回、この小石が更なる鍵になることに成りましたが、ここで石を拾ったことも今回の参拝での話の中に登場していました。