御神体は瀬織津姫で、春祭は3月9日で、例大祭は9月9日です。掲示板の神社案内を見てここは私とご縁があるな、と思った次第です。何しろ私の誕生日と最高数999ですから。
大澤滝神社は、安倍氏の歴史悲話とともに、源義家による「瀬織津姫命」勧請を色濃く伝える社ですが、その由来は以下です。
「康平五年(一〇六二年)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が、厨川柵を攻め滅ぼし、俘囚の長兼六郡の郡司安部(安倍とも…引用者、以下同)頼時の長男安部貞任を戦死させた。源氏の基盤を固めた前九年の役である。
安部貞任が、一族の本拠地奥六郡から北の厨川へ、山峡を忍んで駒を進めたであろう、栄華の後の寂しい最後の逃避行となった。
安部貞任の娘「真砂姫」が父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。
後に源頼義の子八幡太郎義家が「真砂姫」を哀れみ、現在の古滝大明神の地に社を建立して「瀬織津姫命」を勧請、姫の霊を弔ったと伝えられており、地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。」
由来に関しての物語が言い伝えられていますが、その一部も紹介します。
「真砂姫は、大澤の瀧にある大石の上で法華経を唱えると、川の中に飛び込み姿が見えなくなってしまったが、滝壺の中から白い光が飛び出して東の空に消えたという。それは九月九日の夜の事だった。
残された家来の直義は次の日、笹岡城へ行くと義家に昨夜の事を伝えた。義家が姫の事をあわれに思い、父である源頼義[みなもとのよりよし]に相談してみると、「大澤瀧大明神[おおさわたきだいみょうじん]として奉るのが良い。」と言われた。
こうして、真砂姫の霊を「瀬織津姫神[せおりつひめのかみ]」としてはじまったのが大澤瀧神社であり、九月九日が祭りの日と決められている。」
中山さんも以前同行した事があります。今回は拝殿の後ろの小川に下りて小さな滝を見ていただきました。川の水量が多く、いつもの流れよりも激しく水しぶきが立っています。川岸の巨石の上に石塔があり、そこに十和田神社と記されているではありませんか。この地で出会うとは驚きです。
3,4年前に中山さんと奥入瀬渓流の石ヶ戸である儀礼が為されました。今、中山さんと行動を共にして秘書的役割をしているOさんとTさんの2人にあるお役目を頂いたのです。その後に十和田神社の奥宮の青龍神社を参拝して社の扉を開けるとそこに2個の玉子が置かれていました。二人共に酉年生まれの同年で、二人を象徴しての配剤ではないかと思われ、二人を前にしてあわ歌を奏上してそれ以来、お二人はそれぞれのお役目を果たして今日に至っています。
そして、大沢瀧で十和田神社に出合うということで、お二人が前に立ち、あわ歌を奏上させて頂きました。ここで又、新たな始まりなのかもしれません。その時のお言葉です。
「今こそ大きく開き行く。それぞれの身より発し行く響き、元なると一つとなり行き、
この地へと響かせなされ。
変わり行く、行く、大いなる時、開かれませ。」11:53
参道の帰り道でTさんがそこかしこに珍しい色合いの石を見つけて、その中で良さそうな手ごろな小石を拾って来ました。以前に胡四王神社で拾ったものに似ているのです。
神社案内に附記に以下の記載もあり、古からの聖地であったようです。
「この地は遠く縄文時代の三〇〇〇年前から、清水を求めて人が住み着き、東和町では数少ない弥生時代(天ヶ沢や八日市場)の遺跡も残されており、水と共に暮らす人々の跡を止めているところです。神の依代であった大桧木とともに、水に浮かぶ真砂姫の心を思い浮かべながらお参りください。 平成十五年三月九日 大澤瀧神社」