ここで何故か、私のTシャツの背中のプリントが皆さんの注目を浴びることになりました。手塚治虫の火の鳥の中にある一こまですが、山々に太陽がパワー溢れる光を放射して新世界を照らす様な感じです。
お店の床には小さな黒石と白石がちりばめられていて、大きな黒石は配置されています。今回のテーマそのもので、象徴的な図柄です。
2つのサインを頂き、心身を満たしていよいよクライマックスへ向けて午後からの行動開始です。
多岐神社は北上市立花にあります。集落を過ぎて田んぼの奥にありますが、知る人ぞ知る「東光水の瀧」がある神社です。多岐とは瀧のことです。ここにも何度も訪れています。
その内容は以下のブログに記載されていますので参照ください。
323「日高見6」2014,6,30
http://tenmei999.blogspot.jp/2014/07/3232014630-10020-17-178-10020-67120.html
この多岐神社、東光水の瀧に関して以下の考察がありますが、興味深い内容です。
「多岐神社由緒は、田村麻呂が悪路王をはじめとする岩盤石の討伐に難渋していたとき、「東光水と申す瀧」の「化神」の加護によって勝利を得たとしています。また、田村麻呂が一社を建立し「多岐宮と号し崇め」たのは「延暦二十一癸未年(癸未は延暦二十二年…引用者)八月の事なり」としています。延暦二十一年八月は、阿弖流為たちが斬刑に処された月でもあり、由緒が延暦二十一年にこだわっているとしますと、この符合は偶然ではないようにみえます。
『日本紀略』同年七月二十五日条には、蝦夷平定の祝賀の会が朝廷内で催されたとあるように、朝廷サイドからすると、積年の難敵・阿弖流為たちの降伏(→処刑)は祝賀に値するほどの画期だったようで、その象徴的な年が延暦二十一年でした。
朝廷側による一方的侵略に対して、自立自尊・専守防衛に徹する蝦夷は、侵略側にとっては理解の外にある存在で、これも一方的というしかありませんが、蝦夷は未開の野蛮人・異人、つまり「蛮夷」とみなされていました。しかし、阿弖流為の時代、彼の本拠地近く(奥州市水沢区黒石)には、天平元年(七二九)行基による薬師如来の造像および薬師堂建立伝承(開基伝承)をもつ黒石[こくせき]寺(旧正月七日夜半から行われる「黒石寺蘇民祭」の奇祭でよく知られる)がすでにあり、ここは阿弖流為の信仰とも関わる可能性があります。
黒石寺の山号・寺号が東光山薬師寺から妙見山黒石寺へと変遷したことがわかりますが、当初の山号に「東光山」とあることと、多岐神社由緒に「東光水と申す瀧」といった滝名がみられることは興味深いといわねばなりません。
阿弖流為(悪路王)の時代、あるいは田村麻呂の時代、すでに東光山薬師寺があったように、「東光水と申す瀧」が当地にはありました。田村麻呂は、この瀧の神に鬼神討伐の加護を祈ったということになります。
さて、境内由緒の文面を読んで、社殿の背後にまわってみますと、小さいながらも、たしかに「東光水と申す瀧」があります。いや、もう少し正確にいいますと、多岐神社社殿の真裏にはもう一つ社殿(祠)があり、その背後に「東光水と申す瀧」があります。この祠は「新山宮」といいますが、参拝の信仰ラインを重視するならば、多岐神社社殿(拝殿・本殿)自体が新山宮の拝殿を構成し、いいかえれば、新山宮こそが本殿に相当するようにみられます。
境内案内に、関白・藤原頼通時代の長元八年(一〇三五)四月に「稲倉大明神と改号せり」とあり、以後、多岐宮(多岐神社)の表の祭神は「稲倉魂命」となったものとおもわれます。しかし、多岐神社の氏子崇敬者は、そういった表(建前)祭祀の背後で本来の多岐=滝の神を「新山様」としてまつりつづけてきたことになります。ここに至るには千年近い時間を経ていて、さらにいえば、明治期の祭神変更の猛威もかいくぐってのことでしょう、本殿背後に「新山様」をまつりつづけてきた多岐神社氏子衆、その崇敬信仰の心が並でないことを想像させます。
新山宮の祠の施錠されていない扉を開くと、そこには、土製とみられる瀬織津姫の坐像姿の神体像が安置されています。」
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30181010.html
新山様の奥にある東光水の瀧は黒い巨石を幾筋にも水が流れ落ちるもので、その黒石と周囲の木々とのコントラストが目を引きます。川底も黒石です。東光水と黒石の繋がりは明らかなようです。新山様、瀬織津姫神の前で円をなしてあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「スサなる超え行くこれよりは、無しへのその入口に立ちて、響き行けば、元へと参る必ずの事、起きるまする。
二つは一つに区別も、一つに、皆々一つとなり行けば、大きなる元へと向かいます。
これよりなり。」13:56
次はいよいよ黒石寺近くの正法寺に向かいます。