「正法寺は南北朝時代の貞和4年(1348)に開かれた東北地方最初の曹洞宗寺院で、重要文化財に指定されている本堂・庫裏と惣門はそれぞれ寛政11年(1799)と寛文5年(1655)の建築です。
茅葺き日本一といわれる大屋根が圧巻の本堂は、間口約30メートル、奥行約21メートルの規模の大きな茅葺の建物で、内部の広大で豪快な造りなどに寺の格式の高さと近世仏堂の特徴がよくあらわれています。」
「1348年(貞和4年)、無底良韶(むていりょうしょう)は、天台宗の古刹として知られた黒石寺奥の院に曹洞禅の道場を建てた。これが東北地方初の曹洞宗寺院、正法寺の始まりである。かつては大本山の永平寺、總持寺に次ぐ第三本山と呼ばれた。」
これだけ有名な正法寺ですが何故か1度も中山さんをお連れしたことがありません。本家本元は黒石寺だからなのでしょう。そして今回も正法寺参拝ではなく、お寺の裏にある早池峰山が目的なのです。
江刺郡昔話に以下の記載があります。
「正法寺の境内に早池峰と云ふ小山があり、頂上に早池峰権現を祀っている。昔当所に蛇体の女神が棲んでいたが、後に閉伊・稗貫・岩手の三郡に跨った名山早池峰に、其の神は飛んで往ったと謂ふ。この寺の本堂前にある蛇体石 は其の神の残して往った形見だと謂ふている。」
そして正法寺と裏山の早池峰山についても以下の記載がありました。
「正法寺の裏山を”早池峰山”と称し、年に一度その”早池峰山”に御山がけするのだと述べていた。正法寺の裏手にはミニ早池峰へ登る登山道が整備されており、頂には早池峰の祠があり背後には本物の早池峰山が聳え立ち、ここから遥拝しているようである。また、登って気付くのたが、この山の形はまるで本物の早池峰山頂→剣ヶ峯→安倍ヶ城への道程を凝縮したような感じであり、まるでミニチュア版早池峰山となっている。」
「正法寺では熊野・白山・早池峰を三所権現として祀るのだが、その中に「富山鎮守早池峰権現」とある。富山といえば白山を思い浮かべるのだが、ここでもう一つ思い出してみよう。熊野から室根山に勧請された十一面観音の隠れ本尊として運ばれたものの正体は瀬織津比咩であった。
正法寺の七不思議の一つに飛竜観音があるが、これは熊野那智の飛龍権現であり、その正体はまた瀬織津比咩であった。ならば「富山鎮守早池峰権現」の意味は、白山権現と早池峰権現は同じであるという意味ではないのか?そうなればつまり、正法寺で祀る三所権現とは、全て共通する女神という事なのだろう。
だからこそ正法寺では、裏山を”早池峰山”とし、早池峰権現を祀り、その本来の早池峰権現であり、早池峰の女神を遥拝しているのだろう。それは早池峰を祀り信仰する事により、熊野と白山の神を同時に拝むと同じ事であるからなのだろう。」
早池峰山の登山口は分かり難く、最初の下見に来た時に檀家の方に尋ねて教えて頂いていました。部落の檀家集が年に1度、確か五月に皆さんで早池峰山参詣をするとのことです。2度目の下見の時に山頂まで登ったのですが1直線に頂上に上る20分程の軽登山です。
皆さんで登り始めましたが、中山さんが先頭をどんどん進んで登っていきます。山頂は岩山に成っていて、暫し岩の上で休憩です。木々に囲まれて見晴らしは今ひとつですが、北東の方向に早池峰山が鎮座しています。
山頂で北を向いてあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「潜りたればそこにあり。生まれ変わりは、この大きなる巡り。
さあさあ皆々様、方々、ご用意なさりて、集いて下され。
これより大いなる元なるを、出だす時。
皆々一つと成りなって、この時が旅立ち。」15:24
この山は山頂近くにはいたるところ巨石が顔を出しています。色は少し灰色ですが、下山途中に私が足元の岩が欠けていた石を拾ってみると中は黒い石です。やじり様の形で手ごろな小石を1つ持ち帰りました。大澤瀧神社で拾った石と早池峰山の石はほとんど同じ種類のようです。黒曜石でしょうか。