唐松神社の紹介です。
「唐松神社の創建は物部氏の末裔が開いたと言われ、現在でも物部氏には「物部文書」と呼ばれる古文書が伝わっています。諸説あるようなので事実か分かりませんが、はるか古代から書き綴られていて、なかなか興味のある話です。
社殿は元々神社背後にある唐松山山頂に鎮座していたそうですが1673~1680年に山頂より現在地に移しました。その理由として秋田藩主の佐竹義処公が神社付近で落馬した事で逆鱗に触れ、社殿を街道より下がった場所に移したとの逸話もあります。この様に下がってく参道があるのは全国的に見ても珍しいそうです。
社殿は佐竹公が奉納したという樹齢300年の杉の巨木の参道(秋田県天然記念物指定)の奥にあり神聖な雰囲気が漂っています。拝殿の中にある奥殿は室町時代のものとされ秋田県重要文化財に指定されています。
唐松神社は特に安産に御利益があるとされ、江戸時代当時は「唐松講」と呼ばれる講の集団があり広く信仰の対象になっていました。拝殿内部には奥社と奉納された絵馬や鈴などが隙間なく埋め尽くされており何とも例えないような空間が広がっています。
天日宮概要
「唐松神社に向かって左隣に「唐松山天日宮」が鎮座しています。この神社も物部氏が創建したもので、池(堀?)の中に2段になる円形の造丘に玉石を施し、その上に建っていてとても不思議な神社です。
社殿自体は神明造りに似ていて、向きは唐松神社と間逆で向かい合っているようにも感じます。他の池の中には、男根を模った石柱があり、子孫繁栄を表現(池は女陰を現しているのでは?)しているようです。比較的新しい神社と思われますが古文書から古式にのっとった神社様式らしく、海、川、山を表しているそうです。」
祭神、由緒は以下です。
祭神
唐松神社 軻具突命、息氣長足姫命、豐宇氣姫命、高皇靈命、神皇靈命
日天宮 饒速日命、玉鉾神、愛子神
由緒
「神社発行の唐松山御縁起大略によれば、太古、鳥海山に降臨しこの地に居を構えた饒速日命が天祖三神を日殿山に祀り、十種の神宝を安置し日宮と称したのが創祀としている。 その後、饒速日命は畿内に降臨し、後裔の物部氏は神宮皇后の安産祈願と香具土神、宮毘姫命の御霊代を併せて大和国に社殿を建立したと記されている。
その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋の一子那加世が東奥の地に分け入り数代の後、元宮である現在地唐松山頂にお祀りしたとされる。」
これによると最初に饒速日命が天の鳥船に乗り鳥海山を目指して天降りしたとあります。
以下はこの表記に付いての解説ですが、その一部を引用しました。
「進藤孝一氏は「緑なす森林の国」:(古史古伝の謎:新人物往来社)に上記書籍の内容をコンパクトにまとめられているので、これを参考に以下に紹介する。
・天降り
饒速日命は祖神の大命により天の鳥船に乗り、千樹五百樹の繁茂する日本の国を発見し、ここは伊賀志美国なりと鳥海山の潮の処を目指して天降り、国名を「繁木之本」と号した。 天降りは海上経由の移動であるが、鳥海山の麓三崎の半島に上陸したのであろう。
・物部氏の出自
天降り伝承を持ち、緑なす森林を崇拝する氏族、朝鮮半島以北の緑の少ない地域の出であろう。 北方系の蒙古族が朝鮮半島を経由して天降り・神宝などの伝承を取り込み、日本列島に渡来した説もある。
・秋田物部氏の王国
鳥海山から雄物川中流あたりを支配した。船で雄物川を遡り支流の逆合川を遡上して日殿山に「日の宮」を置いたと物部文書には記載されている。 神祭りの土地である。農耕文化とは疎遠であった暗示する。
・秋田物部氏の神々
玉鉾神は地祇神で古代の武器である玉鉾から変じて、邪悪を祓う祭具となった。
愛子神はみやびひめであり、玉鉾の対神としての女神であろうか。
それとも愛宕神で香具土神であろうか。
・お姿
秋田は森の多い国である。唐松神社付近も余り開けておらず、森林の豊かな地域である。その中でも多数の杉の大木がそびえ立っているのが唐松神社参道である。 樹齢300年と言う。宮司宅庭内に唐松山天日宮が鎮座する。唐松神社の社殿は参道を徐々に下っていき、低地に鎮座する。古来より立て替えが繰り返されてきたのであるが、古のかたちを守ってきたとのことである。
低地に神を祀っている神社としては大和の広瀬神社が有名である。広瀬神社の現在の主祭神は若宇加能売命であるが、本来は饒速日命もしくは長随彦とも言われる。参道を下る地に祀られているのは蔑まれている神を意味するとも言われる。
長随彦は大和朝廷への敵対者である。饒速日命は共に国中を治めてきた長随彦を裏切った神である。また神社縁起の様に守屋の子孫が建立した神社であれば守屋公を祀るはずであるが、公もまた朝廷側に滅ぼされた敗残者である。祖神であるから祀らねばならず、さりとて朝廷側の目を気にし、また祖神の生前の行動を認めていない証として、低地に祀ったのであろうか。」 http://kamnavi.jp/mn/higasi/karamatu.htm
また以下は、『物部文献』により伝わる話です。
「・ニギハヤヒが鳥見山(鳥海山)に降臨。逆合川の日殿山に「日の宮」を造営(唐松神社の起源)。御倉棚の地に一時居住(大仙市協和船岡字合貝の三倉神社がその跡)。
・神功皇后の三韓征伐の際、物部膽咋連(いくいのむらじ)がこれを助けた。後に神功皇后は日の宮を詣で、韓国を服(まつ)ろわせたことを記念して月の宮を造営。以来、その社を韓服(からまつ)宮という。
・物部守屋の戦死後、その子の那加世(なかよ)が蝦夷の地に逃れてきて、日の宮の神官になった。唐松神社宮司家はその子孫。」
また、ニギハヤヒが天降りの際に持ってきた十種(とくさ)の神宝(かんだから)のうちの5つ(奥津鏡、辺津鏡、十握剣、生玉、足玉)が残されているということです。
長々と引用しましたが、立派な杉の参道は見事です。少し雪が積もっています。参道から下る本殿には三つ柏の神紋が目に付きます。Aさんの家紋が三つ柏とのことで親近感を抱いたようで喜んでいました。
この神社は女性の一生の幸せを願う神様が祀られており、子授け・安産の神様としてとても有名で、その祈願に多くの参拝があるようです。女性に優しいのでしょう。
天日宮は独特な作りです。不思議な世界を堪能しました。社の後ろには楕円形の卵の様な石、隣には石が石を抱えて子宮の子宝を思わせる石が祭られています。寒々とした冬の唐松神社です。