2018年10月10日水曜日

1453「ジャズ2」2018,10,10

 今年の28回ジャズフェスティバルは2日間にわたり、94のステージで779バンド、約7000人のメンバーが熱演を繰り広げました。そして生憎の雨ですが70万人以上の方々が熱い演奏に魅了されました。私も8日は数か所のステージを巡り満喫しましたが、ビックバンドのエネルギーには会場の皆さんも身体が動き、凄い盛り上がりでした。私も生バンドのリズムに饗応して忘れていた感動が蘇ってきて楽しい時間を過ごせました。両日のエンディングの演奏は最高でした。また参加したくなる、病みつきになる感じです。

















 定禅寺ジャズフェスティバルの第1回は1991年ですがその時は9ステージで25バンド、150人のメンバーで観客参加者5000人とのことです。こじんまりしたものですが、最初に企画、開催しようとした仕掛人の皆さんの熱意が全ての始まりです。この年のテーマは「奏勢、百人」です。
 節目の第10回 2000年は2日間の開催になり、61ステージ、520バンド、2900人、参加者380000人です。この10回で仙台ジャズフェスティバルへの評価が定着して参加することがひとつの目標、ステータスとして評価が定着してきたのでしょう。
 第20回 2010年は 92ステージ、776バンド、5071人、740000人で、10年間でほぼ倍増です。テーマは「10th Anniversary」。
 そして2011年3月11日の東日本大震災の後ですが、震災復興支援プロジェクトとして始動しました。90ステージ、747バンド、4903人、790000人の参加です。この時のテーマは「音楽の星・地球 ~ここから~」です。
 20回以降はほぼ同規模ですがステージをこれ以上増やす事が出来ないことで、確実に出演バンドのレベルが上がり、エントリー出来るハードルが高くなったようです。

 ジャズフェスティバルがスタートした1991年を思い出すと私は38歳、宮城県歯科医師会の専務理事として歯科医師会の取り纏め責任者に就任した時です。それから6年間、日本1若い県歯科医師会専務で、若造で世間知らず故に出来たお世話役でしたが今は昔です。
 そもそも私は1970年(昭和45年)に東北大学に入り仙台で学生生活を始めたのですが、全てが新鮮で自由な中に青春を謳歌していました。しかし学内は東大闘争、安田講堂事件の翌年で、我が大学も学生紛争が最盛期で、破壊と権力への抵抗が渦巻いていました。教養部1年目からストライキ続きで授業が無く、そんな中に友人の紹介でジャズに初めて触れたのでした。そしてジャズの魅力に引き込まれて行きました。
 やがてあるジャズ喫茶に通うようになり、昼夜、時間があれば入り浸っていました。私を探す時はそこに行けば見つかる、そんな感じです。大学紛争で私が教養部2年の時に試験ボイコットが行われ、結果的に大量留年が起きましたが、御多分に漏れず私も教養部3年生となりました。同級生は試験を受けた3名だけが進級して学部に行きましたが、3年目はこれまで以上に時間が出来、ジャズ喫茶、そして悪友と過ごす日々です。機動隊に追いかけられたり、友人が捕まったり、思い返せば色々ありました。バリケードで封鎖され授業が無い時は、カニ族になりユースホステルを利用して国鉄周遊券で当てのない全国放浪の旅です。各地のジャズ喫茶を訪れるのも楽しみの一つでした。

 3年で教養部をどうにか卒業出来て、目出度く学部に上がる事が出来ました。暫くしてお金を工面してレコードプレーヤー、スピーカー、アンプを入手して、自宅アパートでジャズのレコードを聴く楽しみに移って行きました。そしてジャズ喫茶のオーナーと仲良しになり、アンニュイな、退廃的なムードでアバンギャルドな映画、絵画に魅せられ、自分で油絵を描き、そんな学生時代でした。
 兎に角、いつでも身近にジャズがあり、聞いていた青春時代でした。卒業してだんだん時間が取れなくなり当時収集したレコード数百枚と埃をかぶったオーディオが残っています。たまに院長室でレコードを回しますが、ジョンコルトレーン、マイルスデビス、ビルエバンス、クリフォードブラウン、チックコリア・・・懐かしい音色です。

 かつて通い詰めたジャズ喫茶は遥か昔に姿を消し、そこ以外で当時通った店で今も健在な店は「カウント」です。ある雑誌10月号に「秋、ジャズの音につつまれて」の特集の中で1番目に登場していました。今でもたまに「カウント」に行きリフレッシュすることがあります。