狭い坂道を登り切ると開けた空間が現れます。そこが留石公園で右側に留石が鎮座しています。
以下の様に紹介されています。
「留石(とめいし)
「1674年の総検地の際にこの名が付けられたという
遠く安達太良連峰を望む見晴らしのよい高台にある「留石」。
米沢藩の60余年にわたる長い支配が終わり、信達両郡が幕府直轄領となって寛文4年から代官の支配となりました。
福島代官の国領半兵衛は、寛文11年(1671)3月から延宝2年(1674)10月までかけて信達両郡の総検地(土地の面積を計り税金等の算定基準にする。現在の国土調査)を行いました。小手郷内(現在の月舘町、川俣町、飯野町)村々の検地は秋山村(川俣町秋山)より始まり、大窪村(飯野町大字大久保)の字久保山にあった大石の所で検地が終了したので、ここで「留る」と言うことからこの石を[留石]と呼ぶようになったというのが留石の由来です。
また、最近の調査で、この場所が館跡ではないかと言うことが分かってきました。隣接する山林にも昔の遺構が残っています。見通しの良い場所で、北側には鼠舘や越中舘、南は苅松田城、西には向舘、南西に針木戸舘などが見渡せます。何か事あれば「のろし」などで連絡がとれる距離でもあり、当時が偲ばれます。
留石は現在公園化され、桜の名所として春から秋にかけて多くの人の憩いの場として親しまれています。
所在地:飯野町大字大久保字久保山・寸 法:最大地上高2m80cm・最大周囲長8m」
「滝おやじの巨石奇石の地学 訪問記録」の表記を以下で紹介します。
http://chibataki.moo.jp/kyosekihukusima/iinomatitomeisihoka/tomeisihoka.html
「<留石の立地>
山頂の緩斜面上に、小丘があり、2つの露出コアストーンとその下に複数の埋没コアストーンからなっています。
丘の裾に、転落移動したと思われる、コアストーン岩塊が1つ見られます。
岩質は、粗粒花崗閃緑岩。露岩は表面がかなり風化が進みもろくなっています。
<岩塊の微地形>
いずれも、表面は風化してもろくなっていますが、風化球面で、破断面は見られません。
この形は、山頂平坦面にある無移動のコアストーンに通例の形です。
2つの露出コアストーンは、下に埋没コアストーンがあるが、明らかに下とは分離した岩塊になっていて、根石ではありません。
東側下部から見上げた2つのコア石
北側山頂側から見下ろした上のコア石
西側から、見上げた上のコア石