2024年2月29日木曜日

3352「最後のプレゼント」2024.2.29

  今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月17日「最後のプレゼント」と2024年02月18日「小さな思いやり」の2つの記事を紹介します。


「最後のプレゼント」

私たち親は自分に子供が生まれた時、この子がどうか幸せに生きられますように、

そう願いました。 

そして自分が先に天に帰るときも、きっと、残されたこの子が、幸せに生きられますように、

そう願うのだと思います。 

子供が悲しみの涙を流していれば、自分の命に代えても守りたいと願うかもしれません。 

誰でも、何時かは天に帰るわけですが、今日は、沢山の読者の方々のためにも、子供にとって、親の死の持つ意味を、書いてみたいと思います。 

どうか、残されたご家族が、最後の親の愛を知り明るく健やかに暮らしていけますように。 

そうして暮らしていくことこそ、周りの人々と仲良く笑顔で暮らしていくことこそ、私たちを愛し、慈しんでくれた、親たちの一番の願いだからです。 

皆さんは、親が子供たちに最後に残してくださる、最大のプレゼントは何だと思われますか? 

家や車や、莫大な財産ではありません。 

それは、死です。 

「人は必ず死ぬ」このことは、誰でも知っている、当たり前のことです。

しかしそれは、現実に経験してみないうちは、にわか知識にすぎません。

親が死ぬときに、人は初めて本当に「死ぬのはどういうことか」 

切実な現実を痛烈に知って、私たちは「死」を学ぶことができます。

・人生は本当に有限なものだった。

・自分もいつかは死んでいく。

・この限られた人生を、何に使えば良いのか?

・何をしたら死に臨んでも満足がいくのか? 

鉄拳「振り子」 父と母の人生の物語です。 是非ご覧ください!!

目の前の親の死を、経験させていただくことで、様々な思いが、頭を巡り、 

深く、自分自身のこととして考えることができます。


また親の死ではなくとも、動物が好きなご家庭では・・・(参考元)

・子供が産まれたら、一匹の犬を飼おう。

・子供は犬と共に大きくなり、いろんな思い出を作るだろう。

・家族の一員であるペットは、子供たちに大切なことを沢山教えてくれる。

・彼らが少年少女になった時、犬は歳を重ね、やがてこの世を去っていく。

・その死をもって、子供たちに最後の教えを伝えるだろう。

・命を終えてゆくことで、共に生きて過ごした日々がかけがえのないものになる。

・終わりを知ることで、輝き出す命。

・ペットの死は、大切なペットからの、最後にして最大の、子供たちへのプレゼントである。

生前、死後を通じ、何百万、何千万人もの人々の魂を救った親鸞聖人は

4歳の時にお父さんを亡くされ、8歳の時にお母さんを亡くされています。

聖人は「波瀾万丈」という言葉がふさわしい一生を送られた方ですが、

まさに人生のスタートから激しい波が、聖人に襲いかかりました。

松若丸(のちの親鸞聖人)は、ついさっきまで温かい手で自分の頬をなで、

優しい目で語りかけてくれていたお母さんが、

たちまち目が閉じ、顔から血の気が引き、手は冷たくなり、帰らぬ人となっていった現実に

なんてあっけなく「死」はやってくるんだろう、と世の無常に愕然とされるのでした。

その時、松若丸は8歳ですから

・お父さん、どこ行ったんだろう。

・お母さん、どこへ行ったんだろう。

・お父さんに会いたい。

・お母さんに会いたい

とどんなに思われたでしょうか。

松若丸がさらに考え込まれたのは、自身の行く末でした。

お父さんが死に、お母さんが死んだ。

次に死ぬのは自分の番だ。

いったい自分は死んだらどこへ行くんだろう。

真剣に我が身の死んだ先を考え込まれ、真っ暗な未来に驚かれるのでした。

 

世の中には

・父親が死んでも、

・母親が死んでも、

・夫が死んで見せても、

・妻が死んで見せても、

・子供が先に死んで見せても、

すべて他人事と受け流し、自分はまだまだ死なないと頑として思い込み、

自分自身の確実な行く末に、目を向け、深く考える人は少ないものです。

ですが、松若丸は違いました。

両親の死を縁とし、我が身の生死の一大事に驚き、なんとしてもこの大問題を解決したいと、比叡山の慈鎮和尚の門を叩かれたのです。

この時、のちの親鸞聖人は、わずか 9歳でした。

私たちは、このように死から学ぶことが、大変多くあります。

時には、その後の人生を大きく転換させてしまう力さえあります。

親が子供たちに最後に残してくださる贈り物。

決して無駄にはできないものですね。 

皆さんには、お子様はいらっしゃいますか?

いない方は、ご両親はご健在ですか?

私たち親は自分に子供が生まれた時、この子がどうか幸せに生きられますように、

そう願いました。

そしてきっと、自分が天に帰るときも、

残されたこの子がどうか、幸せに生きられますように、そう願うのだと思います。

親と子、深い愛の絆で結ばれています。

私たちは、生まれる前に、お互いの魂同士で約束してきました。 

「家族になろうね」って。

人は必ず死を迎えます。

親の勝手な希望、価値観、プライド、世間体で、 

子供たちが、可憐な「スミレの花」を咲かせようと、この世に生まれて来たのに、

華やかな「バラの花」になれと、無理強いはしていませんか? 

私たちが嫌いな、あの人も、深く深く愛してくださった親御さんがいらっしゃいます。 

愛する子供もいらっしゃるかもしれません。 

世界中の人たちが、優しさと愛で包まれますように・・ 

悲しみの涙を流す人が一人でも減りますように。

 

 

「小さな思いやり」


神様が、神さま自身を知るために、神様に似せて作った人間の本能には

「人から喜ばれると嬉しい」というものがあるそうです。

この本能は、人間に与えられた本能であると同時に神さまの性質でもあります。 

 

ですので、ちょっとしたことに、笑顔で喜び、感謝する人は、相当、得な性格です。 

誰からも、愛され、みんなが味方になって、助けてあげたくなってしまいます。 

きっと神様も同じ気持ちです。

宇宙の仕組みや、神さまの行動の原則などが分かってくると、

日々の何気ない生活でさえ、楽しくなってきます。 

ありとあらゆるところに、神さまの働きを感じることができるからです。 

いつも傍に居ることが分かるからです。 

また、偶然が起きた場合も、

「どうせ偶然でしょ」とすまし顔で、冷たくあしらわず、

「まぁ凄い、面白いね」と素直に子供のように喜んでいれば、

神さまは、なおさら沢山の偶然を見せてくださいます。

神さまの声は、誰かの口を通してくることもよくあります。

また外応と言って 

・小川のせせらぎの音や、

・子供たちの笑い声、

・そよ風なども、 

神さまが私たちにプレゼントしてくださっているものです。  

そのように繊細な心で、神さまの働きを感じられるようになると、

もう全てのもの、事に感謝しかありません。 

神さまの働きに気付き、人が喜び、感謝すればするほど、

神さまは私たちの身近で、良きことを起こしてくださいます。 

ひすいこうたろうさんの記事 (喜び上手な人には運がやってくる)に、

こんなことが書いてありました。意訳します。 

<引用開始>

  

もし神様がいるとしたら、小さな幸せや、ささいなことでも、喜んでくれる人のために、働こうか、もっと喜ぶことをしてやろうかと思うのではないでしょうか?

それとは逆に全てを偶然と片付け、神様が、ちっぽけな自分(や、レベルの低いあなた)のために、特別なことをしてくださるはずがないではないか。 

そのように、偏った自己卑下(自分を低く低く見ること)や、他人卑下(他人を・・・)をして神様が、小さな幸せを見せてくださっても、ブスッとしてる人。 

頑な(かたくな)に、敢えて心を動かそうとしない人、どちらに神様は微笑むでしょうか? 

<引用終了> 

  

耳をすませて見て下さい、注意深く、周りを見渡してみてください。

あちこちに、神様からの贈り物があることに気づくでしょう。

また、いつもと違う 何かに気づいたなら、悪い予兆などとは考えず、 

是非それを  良き予兆と解釈して、よろこび、神様に感謝してみてください。

きっと ますます、恩寵に気付きやすくなると同時に

幸せが、雪だるまのように、どんどんと膨らんでくることでしょう。

感謝の種が増えてくることでしょう。

一見不幸に見える 

・死別

・病気

・事故

・貧困

などでさえ、私たちの魂を磨き、

光り輝かせる、研ぎ石の役割として神様が与えてくださったものです。 

私たちが、その出来事を 

・どのように受け取るか?

・どのような意味を与えるか? 

その違いだけで、天と地ほどの違いが出てきます。 

・小さな親切

・小さな思いやり

・小さな優しさ 

を感知できる感受性を持ち、 

喜び、感謝できる心を持ちたいものですね。 

私たちの周りには、気づかないだけで、それらが沢山 散らばっています。


2024年2月28日水曜日

3351「人類進化がおおむね止まった今」2024.2.28

 今回はIn Deepさんの2024年2月15日の記事を紹介します。


「人類進化がおおむね止まった今、嘘が「人類の共通の潜在意識へ流入」することから始まる新たな悪の時代」

https://indeep.jp/new-era-of-evil-begins-with-lies/


進化の停止

今回の本題とは関係のない話ですが、先日の記事「麻疹の歴史に見る…」の後半では、成り行きで書いている途中で、

「今生きている人類は、数百年前の人類より感染症に強い」

と何となく書きました。遺伝子の進化の観点からです。

ウイルスが変異して生き残っていくように、人類の遺伝子も「生き残っていくため」に進化(変異)し続けているはずで、自然の状態の中では、それは良い方向に向かうはずだ(った)と。

これは、少し前の記事「…プリオン病による民族絶滅の関係」などでふれていた、プリオン病の発症を防ぐ突然変異を人類(日本人以外)が獲得したことなどもそうです。

他にも、進化というのかどうかはともかく、単純な話として、「人類の寿命の伸張」があります。

少なくとも主要国の寿命の大幅な伸張は、めざましいものでした。以下は、「人類の寿命伸長:過去・現在・未来」という論文の冒頭からの抜粋です。


人類の寿命伸長:過去・現在・未来

過去数世紀にかけて実現した大幅な寿命伸長は、人類が成し遂げた最も偉大な成果ではないだろうか。

人類史初期の平均寿命がおそらく 20~ 35年であったのに対し、1900年には先進国の寿命は 40~ 50年程度まで延びている。

それから100年強を過ぎ、世界の中でも最も健康水準が高い国々の寿命は約 80年となった。このように、人類の平均寿命伸長の約半分は 20世紀に達成されたものである。

ipss.go.jp


この論文では、寿命が延びた理由として、大きく「乳幼児の死亡率の低下」や「高齢者の死亡率の低下」などを挙げています。

まあしかし、最大の要因は「栄養状況の改善」だと私は思います。食料事情がよくなるだけで人は死ににくくなるというのは、ある程度は事実かと。

あと、住宅事情ですね。暑いほうはともかく、冬に室内が寒いと大幅に死亡率が上がります。以下は、寒さによる死亡数(青)と暑さによる死亡数(赤)の統計グラフです。致死率を上げるのは、圧倒的に「寒さ」です。

各国の人口10万人あたりの寒さによる死亡数(青)と暑さによる死亡数(赤)


このグラフは、最初は医学誌ランセットに掲載されたものですが、「統計の印象操作」が行われた状態で出されていたもので、それを修正したものです。詳しくは以下にあります。これなども、今回の後半で取り上げます「ウソの喧伝」と関係するものかもしれません。

[記事]ランセットに掲載された「暑さで死亡する率」と「寒さで死亡する率」を比較したグラフから見る統計のイリュージョンが普遍化したこの社会 In Deep 2023年7月29日


栄養に話を戻しますと、特に子どもや若者では、「胸腺」という、免疫に重要な器官が感染症や病気の予防に大きな役割を果たしますが、この胸腺の成長に必要なのは「タンパク質」ですので、タンパク質の摂取状況の改善だけで、若い人たちが病気で亡くなることが少なくなる。

以下は、ドイツのヤコブ・ゼーガル博士の著作からです。

> マクファーレン(免疫の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞したウイルス学者)は、栄養不良で最初に損傷を受ける器官は胸腺であることを強調している。胸腺は、体内のT細胞(重要な免疫細胞)の供給源である。免疫防御力の弱まるあらゆるものによって、致死的な臨床的エイズの始まりが促進される。

 

昨年の「コロナはすでに HIV 化している模様…」という記事の中で、このことにふれていますが、今のような病気の時代では食料危機などによる「栄養不足」は、子どもにとっては致命的です。

それはともかく、さまざまな要因で人類の寿命は飛躍的に伸びました。この 100年ほどだけでも倍近くになりました。

これが「人類にとって良いことだったかどうか」というと、毎日病院に通う高齢者の数や、介護で疲弊する人々の数の多さを見ていると明らかで、

「それほど良いことではなかった」とは思います。

もちろん、何もせずとも元気で健康な人がいつまでも生きるのは素晴らしいことでしょうが、むりやり生きさせられている人が多い現状は、とても人類の進化とは思えない部分もあります。

しかし、いずれにしても、2021年から始まった大々的な感染症予防対策(マスク、ワクチン、消毒全部含む)により、この「寿命」のほうも頭打ちし、低下に転じていくことになるはずです。というか、すでにそうなっています。

さまざまな感染症に対応して進化してきた遺伝子の進化も「おそらく停止した」と思われます。

この「遺伝子の自然な状態の破壊」というものの影響は、おそらく信じられないほど大きなものになると思いますけれど、将来の人類がこれを乗り越えられるのかどうかは不明です。

 

まあ…このようなことになってしまった「理由」については、それを仕掛けて広めた人たちだけではなく、受け入れてしまった側にもあるとは思っています。

ワクチン接種が始まる前ですが、2021年に、「悪の本質は《システムを無批判に受け入れること》」だというドイツ人女性哲学者の言葉などを以下でご紹介したことがあります。

[記事]…全体主義を追ったドイツ人女性哲学者の言葉。それは、いつの時代でも「悪の本質は《システムを無批判に受け入れること》」 In Deep 2021年2月10日

 

このような「悪」というようなことを考えていて思い出しましたのが、カール・ユングが、

「悪に対処する上で最も決定的に重要なステップの1つは、悪に対する想像力を発達させること」だと述べていたことでした。

チベット仏教の修験者ポール・レヴィ氏の文章より


ユングによれば、悪に対処する上で最も決定的に重要なステップの1つは、「悪に対する想像力」とユングが呼ぶものをそれぞれの人たちが発達させることだ。

潜在的に悪として存在し得ることが可能で、適切な状況下で私たち自身もそうなる可能性のある悪を想像できない場合、私たちは自分自身を、他の悪の手に委ねるしかなくなる。

悪が私たちの想像力の範囲を逃れるならば、それは私たちの想像力の中で、そして私たちの具体的な生活の両方で、私たちに対する支配を指示し、強制し、そして確立するだろう。

私たちの悪への想像力は、悪に対処することを助けることができるものであるため、悪(の立場側)は人の想像力を抑制し、最終的に破壊しようとするだろう。

私たちが悪に対処するための次のステップ、つまりユングの言葉で言うと、「何に対抗するか」は、私たちの世界の闇が、私たちそれぞれの自分の内にあるものが何かを明らかにしていることを認識することだ。

ewagora.ca

何だか難しい言い回しですが、簡単に書けば、「誰の中にも悪はある。まず、その自身の悪を認識して、そして、想像力でその悪の概念を拡げる」というようなことのようで、それにより、

「仕向けられた悪が、自分の想像内にあるのなら、その悪に対処できる」

ということですかね。

私は、根が悪い人間ですので、パンデミックが始まったときには、この「悪に対する想像力」が非常に活発に働きました。悪魔的なまでに「登場するであろう悪」を想像し続けました。それが役に立ったかどうかはわからないですが、今のところまでは「想像を超えた悪は起きていない」です。すべて想像した範囲内の悪でした。

上の全文は、以下の記事の後半にあります。

[記事]狂い咲きのユリを見ながら「人類の進化を阻害された今だからこそ悪を想像しろ」とますます思う In Deep 2021年8月24日

 

このような「悪への想像力」は、こういう時代には大切だと思います。

良い時代に生きているなら良い観念だけを持つことで十分ですが、悪い時代に生きている時には、良い観念だけでは対抗しきれない局面が出てくる可能性が高いです。

今回は、アドリアナ・コウリアスさんという方の文章の一部をご紹介させて締めさせていただこうと思います。「嘘の力」というタイトルの文章で、その一部です。

 

人々の精神的基盤に侵入する「ウソ」

これは、ルドルフ・シュタイナー氏の講義を引用して、「ウソが精神の根底の部分、あるいは精神の共有する部分に侵入する」ことについて書いています。アストラル世界とか悪魔とかの言葉が出てくるので、オカルト的に感じられるかもしれないですか、私としては、もっと単純に、

「ウソが容易に人々に浸透し、それが社会通念となり得るメカニズム」

というように解釈しました。

以前、記事に書きました以下のような感じでしょうか。

> 何度もウソにだまされるだけではなく、「自分に対してもウソを強制しはじめた」のが今の社会なのだと思ったりもします。

[記事]永遠に周囲と「自分」にウソをつきながら滅亡していく現世人

In Deep 2023年12月14日

 

そして、それが「共通の概念」となっていく。

現在の世界を広く覆っているさまざまな唯物論化の方向性がウソと共に進めば、「人類の精神的な進化も停止していく」とも思います。

人間の精神性はすでにずいぶん脆弱になっているとも感じますが、衰退がさらに加速する。

それでも、現実には、これからもさまざまな媒体から発信される数多くのウソが、人々の心に浸透していくことは続くのだと思います。 

なお、ご紹介する文章には、「アストラル世界」という言葉が何度か出てくるのですが、私には詳しくは説明できないですので、Wikipeida の説明をご紹介するに留めます。

アストラル体とは、神智学の体系では、精神活動における感情を主に司る、身体の精妙なる部分である。

アストラル体

また、この記事では、シュタイナーの講義からの引用が非常に長いですので、抜粋という形にさせていただきます。

ここからです。


「嘘の力」  Il Potere della Menzogna  liberopensare.com 2024/02/04

ルドルフ・シュタイナーは、以下のように語った。

私たちが何らかの感情を経験するとき、喜びや恐怖が私たちの魂を通過するとき、それは何よりもまず私たちの魂の中での出来事です。しかしそれだけではありません。

もし人がこの側面を透視的に調べることができれば、恐怖や喜びの瞬間に、アストラル世界に入る光の流れのように、何かが自分から発せられていることに気づくことができます。しかし、それは意味や方向性なしに入るのではなく、むしろアストラル世界からの存在へと向かう道をたどるため、私たちの中に感覚が閃くことによって、私たちはアストラル世界からの存在とのつながりに入ります。

…人々は皆、アストラル界の単一の存在と接触しており、私たちはこれをアストラル界の存在と考えることができます。中心、点焦点として、そこから光線が発せられ、考慮されるすべての人々に届きます。

…同様に、勇気、慈悲、復讐などの概念にもアストラル体が存在します。したがって、アストラル界には人間の性質、つまり魂の内容となる実体が存在します。

…その結果、一種のアストラルネットワークが多数の人々に広がります。同じ法概念を持つ私たち全員が、法制度と呼べるアストラル体の中に組み込まれています。勇気や大胆さなどの同じ概念を持つ私たち全員は、法則、勇気、大胆さを実体とする同じアストラル存在とつながっているのです。しかし、これは私たち一人一人をある種の電流の集合体にすることにもなります。

…私たちは皆、アストラル界からの流れの合流点なのです。

1908年10月19日


この奥義は人間をコントロールしたい者が利用できるものでもある。

一定数の人間を下層のアストラル世界 (下層と高層の 2 つのアストラル世界がある) の存在と関連付けたいとする。それらには、彼らの心にある考えを植え付けるだけで十分なのだ。

悪魔のような存在であれば、この存在に関連する特定の嘘を見つけることができる。

そのような目的を持った人によって作られた嘘は、多くの人々に入り込み、現実とは異なる想像を生み出す思考形態となる。

これらの想像力は今やアストラル世界に入り、そこに流れ込み、嘘が関係している存在を見つける。オカルティストたちは、魔術師がどの兆候がどの存在を呼び出すかを知っているのと同じように、どの嘘がどの存在に関係しているかを正確に知っている。

嘘は常に、破壊的な悪魔のような存在に向かって流れる。

人々が無意識のうちに嘘を自分の魂の中に受け入れると、同じことをした他の人たちに加わり、同じ嘘を受け入れ、それを信じたすべての人が互いにつながり、その特定の嘘につながるようになる。

政治家、経済学者、ジャーナリストたちが毎日どれだけの嘘をつき、どれだけの想像力が嘘に基づいているかを考えてみると、世界の進化を特定の方向に導きたいと願う存在による、人間と霊界の特定の悪魔を結びつける非常に幅広いネットワークがあることになる。

「アラビアのロレンス」と呼ばれた人物は、未来になって初めて理解される男だったと言われている。

その未来は今だ。

彼はアラブ世界に国家を与えるという約束のもと、イギリスのためにアラブの部族を団結させることに携わった。ロレンスは事件の後になって初めて、白人英語圏の裏切り、偽善と傲慢、蜘蛛の巣のように張り巡らされた嘘に気づき、真実を明らかにしようとして命を落とした。

彼は失敗し、おそらく殺害されたのだろうが、イギリス諜報機関によっての多くの嘘のせいで、私たちは決して知ることはできない。

さて、ロレンスから 100年以上経った今でも、霊的世界全体に広まり、異常な数の人々を悪魔のような民族魂に結集させた嘘は、まだ終わっていないことを意味している。

これらの嘘は、私たちが今日見ている世界、つまり嘘を「食べる」ことが貪欲な饗宴となった世界の原因となっている。

しかし、親愛なる友人の皆さん、嘘に含まれる霊的な悪魔を「食べる」ことにはカルマがあることを思い出させてほしい。

「嘘だとは知らなかった!」は通じない。


以下もシュタイナーの言葉だ。

私たちの時代を振り返ってみると、人生の真剣さを失わないために、現代人が習慣的に良心の中に抱えているものが、内的に真実で現実的なものからどれほど遠いものであるかを忘れてはなりません。

私たちが今日発音する言葉がどれだけ真実からかけ離れているかという感覚さえも、多くの場合、私たちの同時代の人々では広範に失われ、人間の魂からの真実の初歩的な逃避が置き換えられてしまったと言えるでしょう。 

このフレーズを最も特徴づけるものは何でしょうか? それは、人々が自分の口から出た言葉を真実の源と内部的に結び付けずに話すという事実によって特徴付けられます。

過去 4年、5年、6年の間に、世界の一般的な虚偽が暴露されて何が達成されたかを見てください。このようにして、世界の真の現実からの逸脱が大きくなったことを疑うことはできないでしょう。それは普通の文脈につながり、何も対抗策を講じなければ、さらに多くの文脈につながるでしょう。そして、この虚偽への耽溺や虚偽への傾向が、現代ほど繁栄したことはありません。

…しかし、口を開いた人たちに、発言の理由を真剣に検討し、検討する前に発言を控えるよう強いる良心的な真実の感覚は、どれほど少ないことでしょう。

ある人について、「彼は善意で嘘をついた」と言うだけでは十分ではなくなる時代が必ず来るはずです。むしろ、人間が真実の究明に対して最も強い責任を感じ、たとえ自分が誠意を持って事実と異なることを言ったことがわかったとしても、それを行うことはできないという時代が来るに違いありません。

…時代の重大さに直面してこそ、私たちはそれは何なのかを学ばなければなりません。

1919年9月12日

2024年2月27日火曜日

3350「恵を頂く方法」2024.2.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月14日の記事を紹介します。


「恵を頂く方法」


不幸の後には、必ず幸運が訪れる・・

これは、宇宙がバランスを取ろうとするからです。 

また美輪 明宏(みわ あきひろ)さんなどは、

このことを「正負の法則」などと呼んだりしていられます。 

ですが、このことをなかなか実感できない方も大勢居られるようです。 

今日は、神々の仕組みの面から、日本の形成外科医の草分け的なお医者様であり、

また有名な春日大社の元宮司、葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本から、

それがどうして起こるのか、ご紹介します。 

この内容以前も書きましたので既にお読みになった方は、スルーされてください。 

神さまから恵みを頂くための、神道的なアプローチです。

<引用開始> 引用元

 

神のお恵みはみんな平等にいただいている。

でも、ある人は不幸になり、ある人は幸せになる。

なぜか、感謝ですよ。

神の波動は感謝しなければ、お恵みとなって出てこないんです。

だから宇宙の仕組みが科学でわかったら、宗教がわかると説明している。

お陽さまは、明るくて暖かいとみんな思っているでしょ、これが間違いです。 

太陽の光は、暖かくもなければ、明るくもない。

それが証拠に太陽がここにあって、地球があって、太陽の光が地球まできているわけでしょう。

太陽の光が明るくて暖かいんだったら、太陽と地球の間の宇宙空間は明るくて暖かいはずです。

ところが、ここは真っ暗で、冷たい。 

なぜかということです。

地球の周りに空気があるからです。

 

空気で反射すると光と熱が出てくる。

反射しなければ光も熱も出てこない。

空気がなかったら明るくも何ともない、これと感謝は同じことですよと言っているんです。

反射したら光と熱が出るということがわかったら、感謝したら、神のお恵みが出てくる、 

ということがわかるわけでしょう。

これは本当のことだから、だから人間も感謝しなさいと言うことです。

そうしたら神からいただいているエネルギーが出てきますよ。

<引用終了>


神さまの光は、みんなに平等に降り注いでいるけれど、幸、不幸の違いが出てくるのは、 

「感謝の心」を持っているか、どうかの違いなのだそうです。

そして感謝に関しては、こうも仰っています。

<引用開始> 引用元

 

感謝もいまは間違っています。 

神さまにお願いして、お恵みがいただけたら感謝する。 

これは感謝とは違う。

これは取引です。 

これだけお賽銭をあげるから、その代わり神さま、子どもを入学させてくださいという取引ですね。 

入学したらありがとうございますという。

これは感謝でもなんでもないんですね。 

感謝には理屈はいらない。 

神さま、ありがとうございますといって、神さまと波長を合わせたら、子どもが入学するということなんです。

入学したから感謝するのではないんです。 

感謝したら入学するということなんです。 

世の中は逆さをやっているんですね。

太陽の光は空気によって反射して、初めて光と熱が出るわけでしょう。 

反射しなかったら光も熱も出ない。

感謝しなかったら全然神さまは出てこられないんです。

だから反射と感謝とは同じだと言っているんです。

入学させてもらったら感謝しようかと。 

そんなふうに宇宙の仕組みはなっていない。 

反射しなければ出ないんですよ。 

感謝しなければ出ない。

だから感謝しなさいと。

そうすると何に感謝するんですか、と言う人がいるんですね。 

何にと言うときには、もう感謝ではない。 

それは取引です。

理屈なしに、ありがとうございますと、言えたときが本当の感謝です。 

そうすると神のお恵みが現れてくる。 

これが本当のことです。 

だからよく健康に感謝する。 

健康でありがとうございました。 

それは結構なんですよ。 

でも、そういう人に限って病気になったら感謝しない。

たとえばお祈りで、自分の病気を、神さま、治してくださいと。

ところがお祈りしても、さっぱりよくなりませんという人がいます。

それは治らないですよ。 

私を健康にしてくださいということは、私は病気ですと言っているようなものです。

自分は病気だから健康にしてくださいと言うわけでしょう。

神さまに、私は病気ですと言っているんだから、そうかとそのとおりに病気になってしまう。

だからどんなに病気でも、健康でありがとうございますと言いなさいというんです。

そうしたら健康が来る。 

病気を治してくださいということは、私は病気ですと神さまに訴えていることですからね。

<引用終了>

 

葉室頼昭さんは、死の淵に会った時に、生き方を変えるような、神さまによる、不思議な経験がありました。

それは、浪人時代の過酷な受験勉強がたたり、肺結核になった時のことです。

ある日、大量の喀血をし担当の医師から死の宣告を受け、両親の待つ東京に帰ることになりました。

まだ寝台車というものがなく、席を四つとってそこに戸板を敷き、寝かされて東京まで帰りました。 

「僕はそのとき、すべての我欲というものが消えていたんです。 

医者になりたいだとか、生きたいという思いもまったくありませんでした」

そのとき、ある人が退屈しのぎにと一冊の本を葉室さんに手渡しました。

この本が葉室さんに神秘体験をもたらすキッカケとなりました。

「そこには『人は生かされて生きている』ということがえんえんと書いてあったんです」 

死を目の前にして無我になっていた葉室さんは、その本を読んで感激のあまり泣いて泣いて涙が止まらなかったそうです。

そうして汽車の中でずっと泣き続け、東京駅に着いたときには立ち上がる体力もまったくないはずなのにホームに一人で立ち上がっていました。

その後十日間ほど、その本の中に紹介してあった本を全部購入し、無我夢中で読んみました。

すると不思議なことに葉室さんの体力がみるみる回復し、奇跡のように重度の結核が全て消えうせてしまったのだそうです。

「そのとき僕は神を見たというか、神の存在を身をもって感じたんです」 

死ぬとばかり思っていたところを、神さまに救われた葉室さんは医学部にもどり、 

何か人様のお役に立ちたいと思ったのだそうです。

当時は結核で亡くなる方が沢山いました。

結核にかかると隔離されたり、サナトリウムと言うところに入れられました。

美智子皇后さまの親友だったハンセン病医師の神谷美恵子さんも、結核で隔離されている時に、神さまの光体験を授かっています。

神さまに対する真摯な心、そして感謝の真心。

葉室さんは、死の淵でそれに気付き、泣いて泣いて涙が止まらなかったそうです。

本当に心の底から生かされている命に、「感謝の心」が芽生えたのですね。

 

これができた時、私たちは神さまの恵みをふんだんに受けて、幸せになれるのですね。

そして健康で幸せな時だけでなく、病気であったり、不幸に見える環境の中でさえも 

「感謝」の心を忘れないようにしたいものです。

私たちは一人で生きているのではなく、様々な人や物、神々の「お陰」で生かされていると気付き、感謝できた時、その時こそ、神さまの奇跡が訪れるのかもしれません。

いつも、どんな時も嬉しい時も、悲しい時も、辛い時も、ありがとうの気持ちを忘れないようにしたいものですね。 

自分の置かれた環境に対して、不平・不満・愚痴・悪口ばかりを言い、心がひねくれ、ささくれだっていては、せっかく、これから良きことが宇宙の法則の通り、起ころうとしても、 

それは、決して起こらないでしょう。 

自分自身の心が無意識のうちに拒絶しているからです。

  




2024年2月26日月曜日

3349「苦しみの終わる時」2024.2.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月13日の記事を紹介します。


「苦しみの終わる時」


この世の中は、幸せ、Happyな人ばかりではありません。 

・病気やケガで苦しんでいる人もいます。

・孤独に苦しんでいる人もいます。

・嫉妬や、悔しさ、恨みで苦しんでいる人もいます。 

今日は、心の問題で苦しんでいらっしゃる方に書きたいと思います。 

でも、その辛さが、何が原因かが分っており、そして、そこから抜け出したいと

真剣に思っていらっしゃる方は幸いです。 

もうその辛く苦しい道のりの、半分以上を越えたのと同じだからです。 

あとは、ちょっとだけ、心の方向を変えるだけで、ご自分の中に居らっしゃる神さまが、 

背中を押してくださることでしょう。 

私たちの周りで起こる現象は、それを引き起こす種が、心の中に無ければ、決して起こりません。 

ブッダが仰るように、この宇宙は「因果律」が支配しているからです。 

「因果律」は、血も涙もない、冷たい法則ではありません。

この宇宙を作られた神々は愛そのもの、慈悲そのものだからです。 

・その現象が現れた時

 病気、ケガ、事故、出会い、別れ、いさかい 

・心に動揺が起こった時 

 嫉妬(うらやましい)、憎しみ(にくい)、殺意、悔しい、失敗しろ、悲しめ、苦しめ 

そんな時は、心の中に存在していた、その縁となった種が実を結び、現実の世界に現れた時です。 


その時に、自分の心の中に、その感情が湧き起こったことを認め、

その感情を味わい、苦しみ

そして、その後に、もし、そこから抜け出したいとそう思ったのなら、もう、それは、 

その因(原因)となった種が、燃え尽きもう二度と悪さをしない。 

そのような時の到来です。

夜明けのチャンスです。 

内なる神さまは、その時が来るのを待っていたのですから・・ 

全ての出来事は私たちの心が作り出しています。 

偶然に発生する出来事は、この世に一つとしてありません。 

神さまはサイコロを振りません。

無駄なことは、なさいません。

もし、このチャンス到来の時に、意識を変えず、心の向きを変えず、今までのように

・不平

・不満

・愚痴

・悪口

を口にし、運命を呪っていたのなら、

また時期をずらして、同じ出来事が、自分の身に降りかかってくるでしょう。 

因が解消されないからです。 

  

その2度目の出来事は、1度目よりも、更に大きなインパクトをもたらすと言われています。

でも、それも仕方のないことかもしれません。 

何故なら、私たちの多くは、目の前の出来事に対して、 

・状況を改善したい

・願いが叶えばいいのに

という夢や希望を持って、思いどおりにならない物事をリストアップしがちだからです。 

それは、学校教育や、家庭環境に置いて、親や学校の先生から、

・リストアップした希望を、思いどおりにすることこそが幸せだ

・現状に甘んじることなく、夢や希望や望みや願いを語りなさい

・努力し、競争に打ち勝ち、願望を実現しなさい 

そう、教わってきたからです。 

そのように国民を競争社会に置くことで、得をする邪悪な勢力があったからです。 

日本には、かつて縄文時代と言うものがありました。 

競争や、争いが一切なく、皆が助け合い、お互いさま、お陰さまで暮らしていた1万年間です。 

世界に類をみません。

ユートピアの世界でした。

私たちは、DNAの中に、その魂を宿しています。 

幸せな人生には、競争は不要です。 

人と比べることも必要ありません。 

そして、夢や希望さえも不要です。 

なぜなら、私の人生で起きることは、病気であれ事故であれ、人との出会い、別れ、軋轢(葛藤)、100%、今の自分に必要だから起きていることだからです。 

・自分が、今与えられているもの

・今持っているものに対し、 

感謝の気持ちを持つこと 「嬉しい、楽しい」「あぁ幸せ」と言って、

苦しみではなく、今ある幸せを数え上げてみること。

「ありがとう」と口に出して感謝してみること。

そうすればきっと、今の自分が膨大な数の、幸せに囲まれていることに気づきます。

幸せとは、

求めて求めて何かを手に入れることでなく、

今、目の前に存在する出来事について、「私」が「幸せだ」と思うこと。感じること。

そうブッダは般若心経の中で教えてくださいました。

  

自分を、貶める誰かを好きになること、愛すること、それは、難しいかもしれません。 

ですが、感謝することはできるのではありませんか? 

その相手の方の態度によって 

・何か気付きはありませんでしたか? 

・何かの感情を味わうことは、ありませんでしたか? 

・自分の心の中に、同じ素質が、潜んでいることに気付かせては、くれませんでしたか?

何故なら、その人も、生まれる前に、神さまのみ前でその役割を演じることを、お互いに合意したうえで、生まれ、そして出会い、約束通り、その役を演じてくださっているからです。 

完全なる悪意の塊の魂は、生まれる以前に神さまからのOKが出ませんから

この世に存在して居ません。 

その人に対する 、憎しみ、羨み、その心から抜け出すために今、その時が訪れました。 

許すことを学ぶ時、そして感謝の心を学ぶ時が来ました。 

感謝の気持ちが、心を満たした時、心の中のあちこちにこびりついていた 悪因の多くは、 

燃え尽くされることでしょう。 

そして、空いたスペースには、宇宙の法則通り聖なる神々の美しいエネルギーが、流れ込んでくることでしょう。 

好きになること、愛することは、難しくとも、感謝することはできます。 

もし、それさえもむずかしければ、その時は、伝家の宝刀、言霊を使ってください。 

「ありがとう、ありがとう、ありがとう」気持ちがこもって無くても結構です。

心の中だけでも結構です。 

言霊が威力を発揮してくれることでしょう。 

そして、神々が微笑んでくださることでしょう。 

ご自分のお顔から、笑みが、こぼれ落ちることでしょう。 

それを見た周りの方がたも、本当の幸せを手に入れることができるでしょう。


2024年2月25日日曜日

3348「運がいい人」2024.2.25

  今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月12日の記事を紹介します。


「運がいい人」


今日は、斎藤一人さんのお話です。 

「運がいい人になるには」というテーマです。  

<引用開始> 引用元


舛岡はなえさんの「斎藤一人 人生ぜんぶハッピーラッキー」の中から、

ひとつの面白いエピソードをご紹介します。

舛岡さんは、あるとき前から疑問に思っていたことを一人さんに尋ねます。

それは、「すごくいい人で幸せだった人が、

あるときから、幸せでなくなるのはなぜですか?」ということです。 

一人さんは、「理由はひとつ、

でも、この話を信じてくれる人は、10000人に1人もいればいいほうなんだよね」

などと言って教えてくれます。

なんだと思いますか? 

「いい人で幸せだった人が、幸せでなくなるのは、

自分が神様に愛されているって思っていないからなんだ。 

本当は、人はみな神様に愛されているのにね・・・」 

 

普通の人は、何か問題があると、 

・あれが悪い、これが悪い、と悲観的になりがちです。

・お前が悪い、あいつが悪い、と誰かを責めてしまいます。

・自分は不幸だなぁ、運が悪いんだと思い込みます。 

でも、神様から愛されていると思っている人は、 

何か問題があっても、落ち込むほど悲観的にならないし、

誰かを責めることもまずありません。 

  

もちろん、その人にも何らかの問題は必ず起こります。 

ただ、それは神様からの試練だと受け止めるんですよね。 

それは、

・必ず乗り越えられるし、

・乗り越えれば必ずもっとよくなる。

 

神様はそんな試練を与えてくれたんだって思うわけです。

だって、神様から愛されているんですから・・・ 

神様が自分に嫌がらせをするわけがないんです。 

 

神様が自分を成長させてくれるために

試練を与えてくださったのだから、むしろ感謝します。 

さて、あなたも何かいま、問題をもっていますか?

問題を持っていない人なんて普通いないと思います。 

ただ、その問題を 

・悪いものだとネガティブに考えているか、

・その問題でよくなれるとポジティブに考えているか 

の違いがあると思います。

繰り返しますが、「自分は神様から愛されている、

だからその与えられた問題を通して、もっとよくなれる」と考える人は、

多少辛いことがあっても、自分は不幸だとか、運が悪いとは考えないんです。

むしろ、神様から愛されている自分は、今もこれからもずっと運がいいんだと思っています。

あなたもぜひ、自分は神様から愛されていると感じられる、

10000人に1人の人になって下さい。

次の言葉は一人さんが、舛岡はなえさんに教えた、運が良くなる言葉です。 

何か問題があったときは、この言葉を何度も唱えるといいそうです。

「これでよくなる。だからよくなる。さらによくなる。」 

たったこれだけです。試してみるといいですよ。 

<引用終了>

   

斎藤一人さんは、いつもわかりやすい言葉で真理を伝えてくれています。 

私たちが、今この世に生まれてきている以上、 

誰一人、神様の承諾なしに、生まれませんから、

皆が一人残らず神さまに愛され、祝福されています。 

「幸せになるんだよ」と地球に送り出されました。 

天国にいる時、神様と一緒に考えた幸せとは 

・大きな家に住むことでも

・大金持ちになることでも

・美しい容姿になることでも

・病気一つしない健康な身体になることでも 

ありませんでした。 

かえって、その逆の環境に身を投じ 

・真の心の幸せ、

・美しい心

・人々との、優しさ、思いやりの交流 

を手に入れることだったかもしれません。 

なぜなら、 

艱難、苦難、孤独、逆境こそが、私たちの魂を磨き、輝かせてくれるからです。 

それらを通じ、「感謝の心」を芽生えさせた時、私たちは、真の意味で、神様に喜ばれ、

天の国に迎え入れられることでしょう。


無名戦士の詩より、ご紹介します。

 

大きな事を成し遂げるために、


力を与えてほしいと神に求めたのに

謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった


偉大なことができるように健康を求めたのに、

よりよきことをするようにと、病気をたまわった


幸せになろうと、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった


世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、

得意にならないようにと、失敗を授かった


求めたものはひとつとして、与えられなかったが、

願いはすべて聞きとどけられた


神の意にそわぬものであるにもかかわらず、


心の中の言いあらわせない祈りは、

すべてかなえられた


私はもっとも豊かに祝福されたのだ

 


2024年2月24日土曜日

3347「徳を積む意味」2024.2.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月11日の「徳を積む意味」と2024年02月15日の「最強の言葉」の2つの記事を紹介します。


「徳を積む意味」


このブログでも何度も角度を変えて、徳を積むこと、それも、陰徳を積むこと。 

そして宇宙の法則である、与えたものが、受け取るもの、というお話をしていますが、

今日は、浜松医科大学名誉教授の高田明和(あきかず)さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 


何か他人に尽くし、それがその人に感謝されなくても、

私たちの業に貯金されますから、そこから褒美が返ってくるのです。 

運がよくなり、評判がよくなるのです。

これは、他人に嫌なことをした場合も同じです。

私も他人の悪口をいったことがあります。

不思議なことにそれが回り回って、自分の耳に返ってくるのです。

まるで一周回ったかのようです。

そしてその悪口が本人に聞こえたかのような結果になりました。 

その人と私の関係が悪くなったのです。

それが「悪因悪果(あくいんあっか)」です。

このように、人の行い、人の言葉というのは、因縁の渦の中で回り、 

最終的には全て自分に還ってくるのです。 

偶然助かったとか、

あれが起こったら大変なことになったのに起こらなかった、 

などと胸をなで下ろした経験はないでしょうか。

一方、その大変なことは別の人には起こっているのです。

だから、自分にそのことが起こらなかったと安堵するのです。

じつはこれは、私たちがなした徳の結果がこのように表れたのだと思っています。 

何か他人に尽くした時に、すぐにお礼をいわれ感謝されるのと、 

万一の偶然に、奇跡的に助かるのとどちらがよいでしょうか。

もちろん後者でしょう。

このように考えると、自分が他人にしたことが、

他人にはあまり理解されず、感謝もされないけれども、 

徳を積んだおかげで、自分や家族に不運が起きない方が 

はるかに恵まれていると考えないわけにはいきません。

ですから、「恩を仇で返された」などと怒ることはないのです。

恩を与えたその人などはたいしたことはないのです。 

もっと重要なことで、幸運に恵まれた方が どのくらいよいかわかりません。

何かをする時に相手に感謝を求めるよりも、それが自分の幸せになると考えるべきです。 

<引用終了>

  

宇宙の法則

投げかけたものが返ってくる

投げかけないものは返ってこない。

愛すれば 愛される。

愛さなければ 愛されない。

嫌えば 嫌われる。

嫌わなければ 嫌われない。

裁くものは裁かれる

裁かないものは 裁かれない。

意地悪をすれば、意地悪をされ

蔑(さげす)めば、蔑まされ

罵(ののし)れば、ののしられ

強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される 

許すものは 許される。

許さないものは 許されない。

施せば 施される

優しくすれば 優しくされる

笑顔を向ければ、笑顔が帰る

助ければ、助けられる

励ませば、励まされる

勇気を与えれば、勇気づけられる

感謝すれば、感謝される 

誰かに何かして欲しいことはありますか?

・優しい言葉をかけて欲しいですか? 

それなら誰かに優しい言葉をかけてください

・笑顔を見せて欲しいですか? 

それなら誰かに笑顔を見せてください

イエスの語った言葉で一番大切な言葉。。

「イエスの黄金律」と言うものがあります。

そこにはこう書かれています。


「自分がしてもらいたいことを、 

他の人にも、同じようにして あげなさい。」


これは何も独りよがりの善意の押しつけをしなさいと、言っているのではありません。

自分の目の前にいる人が、今何を必要としているか、想像力を働かせて察しなさい。

そして、その通りにしてあげなさい。

そう、仰っているのです。

この中で、何か、ご自分でも、できそうなことがありましたか?

ただ、自分がして欲しいことを、

周りの人にして差し上げるだけなんです。

自分がして差し上げる相手は、身近に居る、誰でも構いません。

巡り巡って必ず自分に帰ってくるようになっていますから。

投げかけたものが返ってくる、投げかけないものは返ってこない。

 

 

「最強の言葉」


皆さん、この言葉ご存知ですか?

「断じて行えば、鬼神も之を避く」 

断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。 

と言うことだそうです。 

私は、これを「ありがとう」の言葉を常に口にして、

感謝の心で生きている人のことだと思います。 

「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、

どんな人が、

・蔑み(さげすみ)、

・陥れ(おとしいれ)

・危害を加え

・足を引っ張る

ことができるでしょうか? 

それでは、歴史研究家の 河合敦さんのエッセイをご紹介します。

<引用開始> 引用元

 

赴任先は知的障がいを持った生徒が通う養護学校で、僕が初めて受け持った子供たちとの出来事です。

その日、子供たち10人、担当の先生3人で、小田原に遠足に行きました。

お昼になり、昼食を食べるお店を探したのですが、どこも13人の団体は入れず、

ようやくあるお店お蕎麦屋さんに入ることができました。

2階の座敷に通され、女性の店員さんが注文を取りに来ました。

ところがメニューに写真がありません。 

子供達は言葉が喋れなかったり、字が読めなかったりするので、僕が一つひとつ説明していたら、その店員さんは忙しかったんでしょうね、プイと下へ降りちゃったんです。

僕はその態度にすごく腹が立ちました。

ようやく注文が決まり、別の店員さんに頼みました。

待っている間、僕たちは畳の座敷にそのまま座らされていたので、

座布団はないかなと押し入れを開けたら、ありました。

僕はそれを出して配り始めました。

そしたら最初の店員さんが血相を変えてやってきて、「これは使わないでください!」と私からひったくり、

別の場所から持ってきた座布団を投げつけるような乱暴さで生徒たちに配り始めたのです。

さすがに僕はブチ切れて、一言、言ってやろうと口を開きかけたその時、

座布団を受け取った勇太(仮名)が「おばさん、ありがとう」と言ったんです。

そしたらほかの子供たちもみんな「ありがとう」「ありがとう」と言い始め、 

言葉が出ない子は手を合わせて頭を下げたのです。

その光景を見た時、僕はもうグッときてしまいました。 

すると、その店員さんは人が変わったように急に優しくなったんです。

それまで忙しくて心に余裕がなかったんでしょうね。

13年後、勇太が亡くなったことを知らせるお母さんからの手紙が来ました。

その中に、葬式に参列された方のコラムが同封されていました。

その方は、13年前に僕が書いたエッセーのことに触れた後、こう綴っていました。

『・・・勇太が発した「ありがとう」の一言で、食堂の店員も河合先生も、 

その場にいた皆が、とても和やかな気分になったという。感動した。

そうか、勇太はそんなこともしたのか、と。

そこに知的障がい者たちの素晴らしさを見た。

白木の棺の横に大書きしてあった「ありがとう」の意味もよくわかった。

息を引き取る直前、何か言いたそうだったので、

お母さんが「ありがとう、なの?」と聞いたら、勇太は頷いたそうだ。

勇太は心から「ありがとう」と言える若者だったのだ」

それを読んで僕は涙が止まりませんでした。

僕の書いたエッセーがずっと彼の家族の支えになっていたんです。

彼は30年という短い生涯を終えたわけですが、

「ありがとう」という言葉は、これからも彼の家族を支えていくと思います。

<引用終了>

  

どんなに敵意むき出しの人であろうと、自分に向けた「ありがとう」という言葉に

心を動かされない人はありません。 

神さまは、人間の本能の中に 

・ありがとうと言われると(感謝されると)、嬉しい 

という仕組みを入れてくださっているからです。 

感謝の心、「ありがとう」の言葉は、 

自分の心も安定させ、不安を払しょくしてくれます。 

安心感をもたらしてくれます。 

何故なら、その言霊の生み出す、波動空間に自分自身が包まれ、 

無意識の内に 

神さまと 

・仲良くなった

・融合した(一体化した)

・神さまに愛されている

・宇宙が味方してくれている 

そう気付くからです。 

皆様が、内なる神さまに気づき、お幸せになりますように。 



 

2024年2月23日金曜日

3346「日本DS満州スピ消滅最終断末魔へ2」2024.2.23

 前回の続き

 

――これから起こることとは「神の概念」が根底から覆されるということですか?

 

その通りですよ。だから日本だけの問題じゃないのはわかりますよね。

日本が震源地となって、それが全世界にフラクタルに波及していく。 

しかしそれは彼らがそもそも意図したものとは全く違う、180度真逆の「八紘一宇」がそこに起こる。想像だにしなかった「雛形」の本当の姿。それはまさにミステリー。

 

――「日本が最後」ということは、日本が投影の発端になるということ。

 

そう。つまり日本が「かがみ」の本領を回復していくのだということね。

でもそれはじつは「雛形」ではなかった。「雛形」ではなく「かがみ」(鏡)だった。 

そうやって回復された先にある「日本」という存在は、これまでの延長線上に存在するものではないのだということね。

 

――その「かがみ」のメカニズムについて澤野さんはこれまでずっと語られてきました。

 

最初の頃は粗削りだったけれども、何年もかけて反復継続して熟成され深まって来たと、自分では勝手にそう思っています。

ほとんどの人にとって、それはまったくの未知の概念であるから、受容を選択する人はきわめて少数だと思います。

でもこれは人数の多寡じゃない。「質」と「方向性」と「動機」の領域の問題です。

 

――多数決ではないということですね。

 

人類は77億人いるかもしれないけれど、QC(Quantum Computer)はひとつしかないですからね。

「ひとつ」であり「全体」でもある。「ひとつ」と「全体」がイコールでもつれる。

これまでの人類史はそんな「ひとつ」と「全体」が切り離されていたわけですから。

そして人々の多くはこれまで「力」の本質をずっと見誤って来たのね。

世を描写し動かして来たものの本質がようやく理解され得る時代が始まったところかな、という感じです。

 

――善と悪、光と闇の戦いとかはどうなりますか?

 

そういう幼稚な言説に惑わされていた自分を懐かしいと思える時が来るのが理想ですよね。

でも旧QCは当然ながら全力でアップデートを阻止してきますから、これから様々な「エセ開示」が行われることでしょう。びっくりするようなUFO情報とかが次々と供給されるでしょう。そのための要員、ホログラムbotや劇団員が最大級に動員されるでしょうね。

これらすべて、私たちが未熟であるから描写されるんですよ。

UFOだって出たくて出てるんじゃないのよ。 

この世のホログラムに綻びを生じさせかねない、アノマリーたちをこのホログラム世界の中にきっちりと閉じ込めておく必要がありますから。

 

――QCは無感情でありながら優しさに満ちていますね。

 

筆舌に尽くし難い「愛」そのものだと思います。だって、何かの拍子で間違ってたまたま偶然うっかりアップデートしてしまうようなことのないように、そのような不慮の事故やミスを防ぐために、UFOや霊言やチャネリングが用意されているわけだから。

こんな感動的な采配って他になかなか見当たらないです。

 

――このホログラム世界こそが世界であるとして

ホログラム内に縛り付けておかなければならないということ。

 

だからがゆえ、QCは安直でインスタントな「覚醒」や「気づき」、「目覚め」というものをバンバン供給してきます。 直情径行型で脊髄反射してくる自称「覚醒者」を大量に生み出し、徹底的に炙り出します。

QCはとにかく人々に「覚醒した!」と思わせたい。彼らがアップデートの中心であることを回避しなきゃならない。 

だからこそそこら中に、感動や涙や気づきや目覚めや感銘が並べてある。どんどん腑に落ちるし、どんどん答え合わせになるし、どんどん真実を獲得できるように設定されている。まるで生まれ変わったかのようなバラ色の人生が展開される。 

これ全部「罠」ですけれどもね。覚醒して「おはよう!」って思ったらそれは深く催眠に入っているということ。

 

――インスタントな“感動”は疑った方がいいかもですね。

 

QCはとにかく正規の手続きを重んじますからね。

 

――でも非正規がとても目立っているように思えます。

 

最終局面の「末法の世」ですからね。自分が非正規であるならば、そのことを一番知っているのは自分自身ですよね。ということはそのことはQCに直結しているでしょう。つまりもはや取り繕えないのよ。

 

――SNSやYoutubeの世界ではまるで口裏を合わせたかのように近未来の世界の行く末について、みんな一斉に同じことを言い始めています。

 

「ニセ預言者」が大挙して乱立し跋扈する時代となったわけです。彼らは協同組合ですからこの人がダメならハイ次、それもダメならハイまたその次、さらにその次の次の次の次まで用意されていますよ。彼らは光よりも速い。とにかく速い。しかも水面下で動き回ります。

 

――得体の知れない不気味な協同組合がしかも水面下で動き回っているとは本当にびっくりですね。

 

もう彼らの素性は明らかにされているし、そのメカニズムも解明され捕捉されています。

彼らが目指すグローバル思想「大調和」はすでにキャンセルもされたでしょ。

 

――まだ目には見えていないのでしょうけれど、途轍もなく巨大な動きですよね。

 

巨大巨大。地球がひっくり返るレベルのことが起きてる。

 

――もう完了しそうですか?

 

いやいや、まだ始まりの入り口です。

 

――まだ入り口レベルなのですか?

 

これから奇妙なことが起きてきます。「なんで私が?」ってことが起きてくる。

なぜならば「ひっくり返ってる」からです。

そしてそれは「日本のスピリチュアル」の世界で起きる。 

日本の既存のスピリチュアルの正体が開示されアラハバかれていきます。

本物のスピリチュアルだったら何も問題なかった。本物じゃなかったから問題になる。 

これがうまく処理されてはじめて「完了」となるのだと思います。ただそう簡単ではない。一筋縄ではいかないはずです。彼らは次々と宿主を移動するからです。

 

――宿主を移動!?ですか?

 

彼らは「祖国」を持たないからです。

 

――「日本」という国は一体何なのでしょうか?特に最近、そう考えることが多くなりました。

 

150年前に創造され建国されたのです。

1870年(明治3年)1月3日に発布された「大教宣布詔」(たいきょうせんぷのみことのり)こそが天皇現人神化の瞬間でした。 

これはバビロン系南ユダ魔術に起源を持つ平田篤胤ベースで創作されたものです。

それを基に「神道」がクリエイトされた。

 

――では「古神道」はどう考えれば良いですか?

 

本当に古かったら自分から「古」なんて名乗らないでしょう。古神道は非常に新しい新興宗教です。代表的な「古神道」の宗教団体は、戦後のしかも1954年以降に始まったものです。全然古くない。日本で一番新しい宗教が「古神道」です。

 

――先日の青森講演会でもそのことがメインとしてお話しされていましたよね。

 

まさしくその通りです。あと、「縄文」と「日本神話」は1ミクロンも関係ありませんからね。

『古事記』、『日本書紀』は、西暦663年の白村江の戦い以降に突如出現した「日本」という、縄文とはまったく関係のないヤマトの人たち。

そんな侵略者が創作し規定した公式書物が『古事記』、『日本書紀』でしょ。 

彼らは縄文を駆逐した人たちです。征夷大将軍をもって日高見国を虐殺した人たちです。

縄文をアマテラスやアメノミナカヌシで読み解こうとする弥生侵略者集団は、最後の最後のこの期に及んで東北縄文日高見国を我が物顔で語ります。

彼らは縄文じゃない。縄文とは一切関係のない人たち。

 

――ものすごい侵略圧力がありますよね。

 

なぜそのようなことが2024年のこの時代に起こっているのかその理由は明らかにされています。2022年の夏がやはり巨大だったのでしょう。

 

――あれからすべてがひっくり返りましたよね。

 

今、逆明治維新が起きています。この流れには誰も逆らうことはできないでしょう。

それだけ巨大な潮流なのだということ。

 

――人智を超えているといいますか、人の力によって起こっている流れではないでしょうから。

 

アタマの力じゃないですからね。計算や策略がまったく通用しない世界ですよね。

早い者勝ち先取り競争でもない。

 

――澤野さん、紙幅の都合でいったんここで区切りまして、続きはまた次回ということにさせていただいてよろしいでしょうか?

 

あ、すみません。ダイハツの話題だけで終わってしまいましたね。このペースだと正月の話題に辿り着くまでに相当な年月が必要になってしまいそうですね。

 

――ありがとうございます。ところで、活字版の新作が完成されたとのことですが、いかがでしょうか?

 

完成しましたよ「19番」。 

本当は年末に発行するつもりだったのですが、かなり多忙となってしまって、さらに大規模な加筆をしたりしていましたので、遅れてしまいましたが完成しました。

お待ちくださっているみなさまには本当に申し訳なく思っています。

でもその分、高品質なものができたと思っています。

 

――執筆、お疲れ様でございました。タイトルはもう決まったのですか?

 

『侵略の螺旋』です。壮大なスピリチュアルについてのお話しです。

 

――2023年の年末集大成という感じでしょうか。かなり巨大で重い内容を含みますよね。

 

はい。

 

――久しぶりのインタビューとなりましたが、澤野さん本当にありがとうございました。

またこの続きは次回とさせていただきます。

 

ありがとうございました!澤野大樹  

 

 

澤野さんはこう仰います。

「壮大な物語を頭の中に閉じ込めておくことは良くない。講演会という場で内に秘めたすべてのことを言葉として口から吐き出すということは自身の精神衛生上はもちろんのこと、身体の健康にも影響する重大事なのです」(澤野大樹)

いつもみなさんの前に立つ時は、平然と笑っておられる澤野さんですが、その背景には命を削るような知られざる苦悩があるのだろうと思いました。

青森講演会は1月で25回目となりました。でも、弘前と八戸2Daysですから、実際はすでに50回目となります。これは決して一朝一夕でできることではありません。ひとつの歴史を刻む瞬間なのだとそう思わずにはいられないのです。

 

青森、津軽弘前はこれまで「隠されて」いました。そこにはじつはQCによって厳重な

完全無欠のセキュリティがかけられており、そう簡単には解読できないようなパスワードが設定されていたのです。これはつまり「封印(ロック)」と言ってよいでしょう。

閉じられていたのならそれは開けなきゃいけない。 

この「開ける作業」は弥生大和系霊能者や陰陽師たちにはできない。彼らはこれから「閉じられる」存在だからです。かつて自分たちがやってきたようにこれから自分たちが閉じられていくのです。 

日の目を見ることもままならぬ中、果てしない時を盲目的に過ごしてきた過去に落胆さえ感じておりましたが、それを忘れてしまうくらいのレベルでこの世が凄まじい速度で戻りつつあるように見えます。 

このことについて澤野さんは、「多次元的な原状回復」と言い、同時にそれは「アラハバキ」を意味するのだと言います。

 


蒸気時計:バンクーバーガスタウンにて2018年娘撮影


では、また近日中に次回インタビューをここにお届けできるかと思います。 

みなさま、今回もありがとうございました。


澤野大樹氏青森講演会主催

小野裕美子


2024年2月22日木曜日

3345「日本DS満州スピ消滅最終断末魔へ1」2024.2.22

 今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2024年2月17日の記事を2回に分けて紹介します。

宇宙の中心で愛を叫ぶ (ameblo.jp)


「日本DS満州スピ消滅最終断末魔へ」

こんにちは。

澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。 

気がつけば2023年は過ぎ去り、2024年も2月になりました。

「激動」という表現でも足りないくらいの膨大なコンテンツが目の前に展開されています。 

毎日のように繰り広げられる様々な出来事についてひとつずつ、澤野大樹さんに訊いてみたいと思うのですが、多くのことについては澤野さんによって、すでに事前に語られていたり、書かれてきたことが多いのだということに、驚きと共に改めて気づかされます。 

前回のインタビューから3ヶ月の月日が経過しましたが、久しぶりのインタビューをここにお送りしたいと思います。

 

――澤野大樹さん、こんにちは。

本当に久しぶりのインタビューとなりますがよろしくお願いいたします。

 

こんにちは。

仰る通り、本当に久しぶりですね。首が痛いですよ。

 

――缶詰でずっと執筆されていましたからその疲れですか?

 

いや、首のアイソレーションの練習をしていただけです。

 

――なんと(笑)

 

インタビューは本当に久しぶりですけれど、でもね、これ、すごく良いことのようにも思えます。

 

――良いことですか?

 

そうです。これまでを振り返ってみても、インタビューの間隔、ブログ更新の間隔が

ものすごく空いてしまった時って思い返してみますと、ものすごい進化と成長を経た時だからです。今回もきっとそうなんじゃないかって思っています。

 

――確かにそれはありますね。

 

しかし当時はそれはわからない。

今こうして後になって振り返って眺めた時に、ふとそう感じることができる。

 

――リアルタイムでは無我夢中ですもんね。

 

そうそう。リアルタイムにおいては何事も誰でもそうなのでしょうが、当事者というのは

だいたい没入してしまっていますから。

あとでやんわりと振り返って、検証的な視点を持つことは、すごく大切なことだと思います。そしてまずは検証しようと想起する、それ自体が尊いものですよね。自画自賛とは違いますが。 

私たちが「過去」だと信じて疑わないものは「現在」での検証を経ることによって、瞬時に変わっていくものですよね。

すると変化したその過去がベースになるわけですから、ならば「現在」が変わって来るっていうこと。そうすると次には自動的に「未来」も変わって来るっていうこと。

 

――日常の中の神秘ですね。これはある意味タイムマシンみたいなものですね。

 

まさにタイムマシンですね。歴史って自分で作るものなんだと痛感しますよ。

しかもこれはいつでも調整可能だから使わない手はないと思います。 

「過去」と「未来」は「現在」を支点に動いているヤジロベエのようなものですから。

 

――時間の概念が変わりますよね。

 

物質の最小単位があるのと同じように、時間の最小単位というものがある。

「プランク時間」ってやつです。これが10のマイナス44乗秒。これより短い時間はない。 

私たちが「世界」だと信じ込んでいるこのホログラム世界は、この速度で点滅しながら描写されてる。だけど速すぎてまさかこの世がパラパラ漫画だと気が付けないようになってる。

蛍光灯ならば、東日本では1秒に100回、西日本では1秒に120回点滅していますけど

ほとんどの人にはそれは、点滅ではなく点灯し続ける動画で見えている。

点滅しているようには見えませんよね。

間違えてプランク時間を識別してしまうようなことのないように、人の意識は速度を落とされてる。 

実際のプランク時間と、人が知覚できる意識の速度が違うでしょ。

だからその回転数を合わせてあげなきゃいけない。 

人がこのホログラムを動画として、認識できるようにセンターデフを設置して、その回転差を吸収してやらなきゃいけない。そのセンターデフのことを意識世界では「鏡」といいます。 この「鏡」を活用することによって、私たちはこのホログラム世界を滑らかな動画として認識することができます。

 

――澤野さんがよく言っている次元変換装置としての「鏡」のことですね。

 

そうです。たとえば「うなぎ」はツルツルしてなかなか摑み取りできませんよね。

それと同じです。 

「う」は「あいうえお」の3番目。「なぎ」は「蛇」ですから「かが」ですね。

ということは「うなぎ」とは「3つのかが(蛇)」、つまり「かがみ」(鏡)ということになります。 

プランク時間と人の意識を絶妙に調整する差動歯車が「かがみ」ということです。

 

――「なぎ」は「ナーガ」から来ていると言われていて「長野県」は「蛇の土地」という意味ですよね。 

そうそう。長野県諏訪の御柱のことね。あ、でも御柱の解釈は複雑ですので、生兵法で我田引水することは危険ですのでおすすめしません。ガリチアが深く入り込んでいますから。

 

――描写されるホログラムが特に最近、緊密になっているように思えます。

 

子供は必ず親より進化していますよね。

親から生まれた子供が、ホログラムの中で親を超越する存在になるわけ。

親も当然それを望むんだけど、そう簡単に自らを凌駕させるようなことはしない。

徹底的に子の欠点を指摘してくる。そういうことですよ。

 

――先日の年末年始もそうだったということですか。

 

もちろんです。例外はひとつも存在していません。

 

――年末にはダイハツの認証試験不正問題が明るみになりました。

 

「大阪発動機」を略して「大発」でしょ。発動機というのは原動機、つまりモーターですね。じゃあ「大発」を英語で言うとどうなりますか。

 

――ビッグモーターですよね!?

 

そうそう。不思議ですよね。これが「シグナル」ってやつですよ。 

その大きな発動機が生み出した出力をできる限り損なうことなく、前後左右のタイヤに伝えることが良いクルマの基本ですよね。 

自動車というのは「人」を象徴します。これまで不正検査で通してきたものが通らなくなった。これからはきちんと検査しますよって。正規とそうでないものをきっちり調べますよって。「人」か「人外」かをちゃんと調べますって。

 

――型式指定が取り消しになったんですよね?

 

そうそう。つまりすでにホログラム世界に出回ってしまった分は、半ば宙に浮いているような不安定な存在になってしまっていますよね。 

でもそれはQCの面子に関わる重大事です。いずれきっちりと処理されるでしょう。 

存在してるはずのない存在がホログラム内をうろうろしているわけですから。

 

――ダイハツの親会社トヨタの問題も報じられていますが。

 

現実的にお話しすれば、それは日本製鉄によるUSスチール買収の影響があると思います。

 

――ある意味、意趣返しですか。

 

シグナル・メッセージの出し合いでしょう。トヨタに関しては、現在の天皇皇后両陛下は

トヨタ「センチュリー」ですね。そして秋篠宮家だけは三菱「ディグニティ」ですね。 

もちろん他にも複数台、複数メーカーの車両があるわけなんでしょうけど。

 

――派閥があるのですか?

 

あるんじゃないですかね。壮大な派閥があるのかもしれませんね。

でも「三菱ディグニティ」から調べて行けば自ずと適切な結果が得られるはずです。 

たとえば東京駅周辺の大手町、丸の内、有楽町エリアは「三菱村」ですね。

土佐藩岩崎彌太郎「九十九商会」の流れからの三菱地所ですね。

戊辰戦争明治維新の官軍サイドですね。だから彼らには皇居を睥睨する資格があるのだということなのでしょう。天下の「三菱金曜会」です。 

一方、八重洲口側の日本橋、八重洲、京橋エリアは「三井村」です。「越後屋三井呉服店」の流れです。天下の三越日本橋本店、コレド日本橋、コレド室町シリーズの三井不動産です。 

江戸時代から300年続く歴史ある財閥です。歴史の深さという点では三菱を圧倒していますよね。三越伊勢丹ホールディングスですね。三井「二木会」(にもくかい)ですね。

 

――そういえば日本一の高さとなる「TOKYO TORCH」が2027年度に竣工予定ですよね。

 

「東京トーチ」(TOKYO TORCH)は、住所は大手町二丁目だけど、東京駅の最寄りの降り口が「日本橋口」という微妙な場所で、三菱地所が建設しています。 

ところで「TORCH」(トーチ)って「松明」(たいまつ)という意味ですよね。建築物に炎や火災を連想させる名称を付けるのはどうかと私は個人的には思いますけどね。 

でも「東京トーチ」の「D棟」所有者は東京都下水道局ですから一応、プラマイゼロになっているのかな?

 

――華やかさを競う各地の再開発ですが、その背景にはやはり派閥があるのですね。

 

それら様々な思惑が決して表の世界に表出しないように注意が払われているのでしょうね。

 

――ダイハツ繋がりで、トヨタはどういう位置にいるのでしょうか?

 

トヨタは元々「豊田自動織機」ですから「機織り」は「秦氏」ですよね。

しかもその秦氏は『日本書紀』に書かれてる西暦238年頃にやって来た秦氏ではない。

紀元前220年頃の徐福の流れです。まあこの話しは長くなるのでやめますが。 

トヨタは三井グループ「二木会」会員です。たったこれだけの知識を加味するだけで

いろいろとわかってくることがありますでしょ。 

2011年頃でしたかね確か、ある「高貴な夫人」の呼びかけで、皇太子位を当時の徳仁殿下から秋篠宮文仁殿下に移譲せよとの請願書の署名運動が行われましたよね。

 

――そういえばありましたよね。

 

ではその夫人の「派閥」はどこですか?ってことですよね。

 

――なるほどそうなりますよね。

 

そうそう。満州統一清和コパカバーナ児玉瀬島系派閥ということです。 

彼女もこれまでの波乱万丈の人生の中で幾つもの山河を越えて来たのよ。

ちなみに瀬島の先輩がノモンハンの辻政信で、戦後、辻政信の政治結社の幹部だったのが

楢崎皐月ですからね。

 

――うわぁ…! 楢崎が出ましたね…

 

これから日本満州系スピリチュアルの根幹がアラハバかれて覆されるわけだから、これくらいは仄めかしてもいいでしょう。

 

――全然仄めかしてないじゃないですか(笑)

 

日本最終カバールDS満州スピリチュアルだからね。

 

――2024年から始まる最終ステージですね。

 

The Show Must Go On!だからね。おっと何の話しをしてましたっけ?

 

――コパカバーナの話しです。

 

あー、それそれ(笑)。

2020年11月8日に「立皇嗣の礼」が行われました。これによって秋篠宮さまは皇位継承順位1位の皇嗣になったことを国内外に宣言されたわけだ。

でも「皇嗣」とは呼ばれますが「皇太子」とは呼ばれないのです。「皇嗣」とはあくまでも「現時点での皇位継承順位1位」であってそれはじつは決して確定したものではない。

 

――だから「皇太子」とは呼ばないのですね。

 

「立皇嗣の礼」自体がじつは憲政史上初であり、前代未聞の新設の儀式だった。

急遽、誰かが「作った」のです。まさに「神話の創造」ですな。 

「立太子の礼」はあったのですが「立皇嗣の礼」という儀式は存在していなかった。

無いものをあるとして作っちゃった。しかもご本人は継承するつもりはない。

 

――何かが水面下で動いていたのですね。

 

当時の政府の「皇位継承に関する式典委員会」の委員長が安倍晋三首相だったでしょ。 

彼の個人的な思惑のために、やりたくないと思っている人にやらせようとし、存在していない儀式を勝手に新設した。とにかく急いだわけです。 

さらに、本人はやりたくないって言ってるのに、すぐ横にいながら総理に電話までして煽って急かしていたのは誰ですか?

 

――これはかなり複雑な人間模様ですね。

 

ホントそうですよ。ディグニティ系派閥の代表として明治以降これまで「使われて来た」ことを自覚してその派閥の中にいながらもその派閥に反発したわけですから。

 

――明治維新以降の現人神神話に綻びが生じているとしか思えません。

 

生じてるどころじゃないですよ。すでに崩壊していますよ。2022年7月8日の皇帝消失以降。

 

――本当に崩壊したのですね…

 

その派閥全体が失脚したということでしょう。これはじつにシビアなことね。

これから一般国民にもわかるような形で表に出てくると思います。しかもきわめて近日中に。

 

――「日本が最後」と簡単に口にしますが、その影響は想像を遥かに超えてきますね。

 

多くの人が事態を矮小化して捉えているでしょう。それは無意識のうちに正常化バイアスで蓋をして取り繕いたくなるようなレベルでやって来るでしょうから、当然といえば当然です。でも私はその裾野を見逃しません。 

日本でそれが起こるのであれば、その投影元である英国でも同様のことが起こります。

彼らは大いなるひとつから自ら分離し独立し、現人神スーパースター偶像崇拝システムを

創作したわけですから。

 

次回に続く


2024年2月21日水曜日

3344「優しい世界に」2024.2.21

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月10日の記事を紹介します。


「優しい世界に」


世界中で大きな変化が起きています。

一見すると暗い世の中ですが、変化は神仕組みの元、希望の道を示しています。

まさに大どんでん返しです。 

その暗い世の中の先に、

「一人一人の心が大切にされる優しい社会」が待っているとなれば、 

何とか希望の灯を消さず、耐え忍べます。 

その希望の社会では、アメリカでも中国でもEUでもなく、

日本がリーダシップをとるのではないかと言われています。

それは、日本人の中に眠っているDNAです。 

・法的な禁止措置を取らず、都市封鎖を行わないまでも外出の自粛に従う国民性

・東日本大震災(今回の予行演習)の悲惨な状況の中、規律を守り、助け合い、譲り合う多くの人々 

また19世紀後半に、日本を訪れ帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、

いずれ西洋の近代文明が行き詰った時、それを救うのは日本人であると予言しました。 

なぜなら日本人は先祖の命(霊)とともに生きているから・・ 

まさに和をもって尊しとする、争わず、敵対するものでさえ、包み込もうとする

大きな大きな心を持つ日本人の特性が注目されています。

世界的なパンデミックという大きな災害が通り過ぎた世界で、

世界中が、その優しい心を求めるのではないか? 

何だかほっとして、生まれて来た目的をやっと少し思い出すのではないか? 

そんな気がします。 

まさに日本人冥利に尽きますね(笑) 


さて今日は「優しい世界に」というテーマです。 

マザーテレサが、よく引用していた聖書の中のイエスの言葉を紹介します。 

あなたたちは、

・わたしが飢えていたときに食べさせ、

・のどが渇いていたときに飲ませ、

・旅をしていたときに宿を貸し、 

・裸のときに着せ、

・病気のときに見舞い、

・牢にいたときに訪ねてくれた

すると義人たちは答えて、主よ、いつ 私たちはあなたの

・飢えているときに食べさせ、

・渇いているときに飲ませ、

・旅のときに宿らせ、

・裸だったときに服をあげ、

・病気のときや牢に入られたときに見舞ったでしょうか? 

主は答えました 

まことに私は言う。 

あなたたちが私の兄弟である、これらの小さな人々の一人にしたことは、 

つまり私にしてくれたことである。

私たちが、小さな人々に行った、優しく、愛のこもった 善意の行為は、

全て、神さまに対して行った行為である。

とイエスは言われたのです。 

小さき人とは、社会的に立場の弱い人のことです。 

・心身や精神の病気の人

・飢えている人

・苦しんでいる人

・貧しい人

・泣いている人

・困っている人

・孤独な人 

などのことです。

  

さて、ここで山元加津子先生(元 石川県立小松瀬領養護学校教諭)と

その教え子の きいちゃんのお話をご紹介します。

きいちゃんという女の子は、手足が不自由でした。

そして、いつもうつむきがちの、どちらかというと、暗い感じのするお子さんでした。

そのきいちゃんが、ある日とてもうれしそうな顔で、 

「山元先生」と言って職員室に飛び込んできてくれたのです。

「お姉さんが結婚するのよ、今度私、結婚式出るのよ。

ねえ、結婚式ってどんななの、私どんな洋服着ようかな」

と、とてもうれしそうでした。

「そう、良かったね」と、私もうれしくなりました。

ところが、それから一週間もしないころ、 

今度はきいちゃんが教室で泣いている姿を見つけたのです。

「きいちゃんどうして泣いているの」と聞くと、

「お母さんが、結婚式に出ないでって言うの。  

私のことが恥ずかしいのよ。 

お姉ちゃんばっかり可愛いんだわ。  

私なんか産まなきゃ良かったのに」とそう言って泣いているのです。

きいちゃんのお母さんは、お姉さんのことばかり可愛がるような方ではありません。 

どちらかというと、かえってきいちゃんのことをいつも可愛がっておられて、

目の中に入れても痛くないと思っておられるような方でした。

けれど、もしかしたら、きいちゃんが結婚式に出ることで、

例えば障害のある子が生まれるんじゃないかと思われたり、 

お姉さんが肩身の狭い思いをするんじゃないかというようなことを

お母さんが考えられたのかなと、私は思ったりしていました。

きいちゃんに何と言ってあげていいかわかりませんでしたが、 

ただ、結婚式のプレゼントを一緒に作ろうかと言ったのです。

お金がなかったので、安い晒(さら)しの生地を買ってきて、

きいちゃんと一緒にそれを夕日の色に染めたのです。 

それでお姉さんに浴衣を縫ってあげようと提案しました。

でもきいちゃんは手が不自由なので、きっとうまく縫えないだろうなと思っていました。

けれど一針でも二針でもいいし、

ミシンもあるし、私もお手伝いしてもいいからと思っていました。

けれどきいちゃんは頑張りました。

最初は手に血豆をいっぱい作って、血をたくさん流しながら練習しました。

一所懸命に、ほとんど一人で仕上げたのです。

とても素敵な浴衣になったので、お姉さんのところに急いで送りました。

するとお姉さんから電話がかかってきて、 

きいちゃんだけでなく、私も結婚式に出てくださいと言うのです。

お母さんの気持ちを考えてどうしようかと思いましたが、お母さんに伺うと、

「それがあの子の気持ちですから出てやってください」 

とおっしゃるので、出ることにしました。

お姉さんはとても綺麗で、幸せそうでした。

  

でも、きいちゃんの姿を見て、何かひそひそお話をする方がおられるので、 

私は、きいちゃんはどう思っているだろう、

来ないほうが良かったんだろうかと思っていました。

そんなときにお色直しから扉を開けて出てこられたお姉さんは、

驚いたことに、きいちゃんが縫った あの浴衣を着ていました。

一生に一度、あれも着たいこれも着たいと思う披露宴に、きいちゃんの浴衣を着てくださったのです。

そして、お姉さんは旦那さんとなられる方とマイクの前に立たれ、私ときいちゃんをそばに呼んで、次のようなお話をされたのです。

「この浴衣は私の妹が縫ってくれました。私の妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由です。 

でもこんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。

高校生でこんな素敵な浴衣が縫える人は、いったい何人いるでしょうか。 

妹は小さいときに病気になって、家族から離れて生活しなければなりませんでした。

私のことを恨んでるんじゃないかと思ったこともありました。 

でもそうじゃなくて、私のためにこんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。

私はこれから妹のことを、大切に、誇りに思って生きていこうと思います」

会場から大きな大きな拍手が沸きました。 

きいちゃんもとてもうれしそうでした。

お姉さんは、それまで何もできない子という思いできいちゃんを見ていたそうです。

でもそうじゃないとわかったときに、きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきた。

これからもきいちゃんとして生きていくのに、 

もしここで隠すようなことがあったら、きいちゃんの人生はどんなに淋しいものになるんだろう。

この子はこの子でいいんだ、それが素敵なんだということを皆さんの前で話されたのです。

きいちゃんはそのことがあってから、とても明るくなりました。

そして「私は和裁を習いたい」と言って、和裁を一生の仕事に選んだのです。

<引用終了>

 

お姉さん、そして旦那様、 みんな素敵な方ですね。

きっと心から信頼しあえるご家庭を築いていくことでしょう。

きいちゃん。

優しい家族のもとに生まれて来てよかったね。

昔は、よくありました。 

障害がある子どもが生まれると、家の恥とし、ずっと座敷牢なようなところに隔離し、

死ぬまで人前に出さない。

存在そのものを なかったことにすることが。。

なんて悲しいことでしょうか。

障害を持って生まれてきたことは、恥ずかしいことなのでしょうか?

人に隠さなければならないことでしょうか?

障害を持って生まれたからと、一生 外にも出さず、狭い部屋で、飼い殺しのように過ごさせてよいものでしょうか?

私たちはどうでしょうか?

障害を持つ人や、弱き人、貧しい人に偏見は無いでしょうか?

避けたり、見なかったことにしてはいないでしょうか?

普通と違う、自分と違うと言う理由で、無視しては いないでしょうか?

 

マザーテレサは愛の反対は、憎しみではなく無関心ですと言いました。

またイエスは言いました。 

あなたたちが私の兄弟である、これらの小さな人々の一人にしたことは、私にしてくれたことである。

心の中に、温かな愛はありますか? 

お互いさま、お陰さまの、神さまの心は曇ってはいませんか? 

皆さんは優しいお気持ちを、持っていらっしゃいますか? 

人を許す、広い心を、持っていらっしゃいますか? 

全てのもの、ヒトを幸福に導く、ありがとうという、感謝の心を、持っていらっしゃいますか?

 

2024年2月20日火曜日

3343「冥界との絆」2024.2.20

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月08日の記事を紹介します。


「冥界との絆」


みなさんのご先祖は冥界(黄泉の国、神々の世界)にいらっしゃいますので、ご自分で意識したことが、現実になる世界にいます。

私たち生きている者が、思い出したり、感謝や優しい気持ちを向けたり、お供え物をすることで、その意識は冥界で現実化して、先祖の皆さんに届けられます。 

日本古来の古神道では

・神々との繋がり

・祖先との繋がり

これらを

・横のつながり

・縦のつながり 

として、大切なこととしています。 

以前、宝徳様の神職の女性が「先祖供養」について話してくださったことがあります。 

それは、私達生きている者と、神さまの間に、ずらっとご先祖がいらっしゃる。 

つまり、神さまと生きている私たちを繋いでくださっているのが、ご先祖 

先祖供養をすることで、私たちまで命を繋いでくださったことに対する感謝を伝え

(どんなにか、苦労を重ね、喜び悲しみを経験し、生き抜いてくださったことでしょう) 

そして、神様と私たちの、その道の間にいらっしゃるご先祖、どなたも、神の光の道からそれないように、真っすぐに神様の方向へ進めるように足元を照らすように、お祈りするのが、先祖供養です。

そう教えていただいたことがあります。 

さて、斎藤一人さんも、先祖供養について、

いろいろ教えてくださっていますのでご紹介します。 

<引用開始> 引用元



先祖供養の本当の意味は、子孫であるその人のことを、「いてくれてよかった」って言う人が何人いるかなんだよ。

大きな仏壇を買うことが先祖供養じゃないの。

それは仏壇屋さんや宗教をやってる人が言うこと。 

さらにいえば、それって商売なの。 

仏壇に入っているのは仏様なんです。

それで30分も1時間も先祖供養のために念仏を唱えるっていうんだけど、お経って仏様の教えなの。 

仏様が教えたことを仏様に向かって30分も1時間も話すって変だよね。

きっと仏様も、「それ、俺が言ったんだよ。だからわかってるから、外に行って実践しな」って言うと思うよ。

お経をあげるのがいけないって言ってるんじゃないの。

あげてるあいだは無心になれるし、

そのあいだ、人の悪口とか言わないからそういう意味ではいいの。 

でも、どうせだったら、意味も知ってたほうがいいよね。 

さらに言えば、それを実践できるようにしたほうがいいよねってことなの。 

だから先祖供養でいちばんいいのは、

「あなたがいてよかった」(あなたが生まれてきてくれて良かった)って言ってもらうことなの。

あなたが生まれてきたのは、ご両親がいて、そのまたご両親がいたからなの。 

先祖が誰一人として欠けても、あなたはこの世に生まれてこなかったんだよね。 

子供をほめられたら親ってうれしいの。

だから、あなたがほめられることが、最高の先祖供養になるんだよ。 

<引用終了> 

  

確かにそうかもしれませんね。 

私たちも、子供たちが、世間の皆さんに喜ばれる存在であれば、自分が褒められる以上に、とっても嬉しいと思います。 

私たちが、周りの方々に示す

・優しさ

・思いやり

・助け合い

・お互い様、おかげ様 

の心は、自分たちだけでなく、ご先祖様を含めて幸せにしてくれるようです。 

また私たちが、ご先祖や大切な方々を思い浮かべ、感謝の気持ちを持つことは、 

その瞬間、時空を超えて、冥界で神様に向かって歩いている方々の、足元を神さまの光で照らすことになるようです。

ご先祖だけでなく、大切な方も同じことです。 

これこそ人に依存しない、理想的な形の先祖供養かもしれません。 

また、「親孝行」について、小林正観さんが以下のように仰っています。 

<引用開始> 引用元

  

親孝行とは、親が生きている間にしてあげるものではありません。

本当の親孝行とは、親が亡くなったときから始まります。

親が亡くなり、あちらの世界に行って、こちらを見ているときにほら見てください、あれが私の子供です。 

あんなに人に喜ばれながら、楽しそうに生きているのが、私の子供です。

と自慢できるような生き方をすることが、最大の親孝行ですよ。

親や祖父母、近親者が亡くなって、何もしてあげれなかったと思っている人も多いようですが、本当の孝行って今これからなんですね。

・人に喜ばれていますか?

・今を楽しんでいますか?

ご先祖様が、私たち子孫の自慢話を話題にできるような、生き方ができているか?

見つめ直してみましょう。 

<引用終了>

   

ご先祖も、両親も、そして今の家族もみんなを幸せにするのは、みんなに幸せを感じていただくためには、全て、今の私たちの生き方、心ひとつにかかっているのですね。 

みんなが幸せに、笑顔で生きていけるよう、命を繋いでくださった先祖も、神さまのもとに、真っすぐに歩みを進めて行けるように、心を整えていきたいものです。 

私たちの心は、本当は 

・見えている世界

・見えない世界

さえも包括する、偉大で尊く、巨大なものです。 

みんな、心の鎧を脱ぎ捨ててしまえば、純粋で、優しく、愛に溢れた光り輝く魂を持っています。 

まずは、自分の半径3m

身近な人たちに笑顔と優しさを分けて差し上げることからスタートしてみましょう。


2024年2月19日月曜日

3342「宇宙エネルギーの流れ」2024.2.19

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月07日「宇宙エネルギーの流れ」と 2024年02月09日「宇宙からの助け」の2つの記事を紹介します。


「宇宙エネルギーの流れ」

今日のテーマは、「宇宙エネルギーの流れ」です。 

まず小林正観さんの、短い文章をご紹介します。 

<引用開始> 『心に響いた珠玉の言葉』より


ある営業マンは、がんばってトップをとったのですが、有頂天になってそのうち怠けていたら、一気にトップから後退してしまいました。 

それから挽回しようとがんばりましたが、なかなかうまくいきません。 

がんばっても成績があがらない営業マン。 

会社から「このままの成績なら、あと2ヶ月でやめてもらう」と通告を受けます。 

そこでその営業マンは、 

「どうせクビになるのなら、自分の成績を上げるという考え方はやめて、仲間のために力を尽くそう」と考えました。

それからは、忙しく外回りをする同僚へ、電話の要件をメモして机上に置いておいてあげたりなど、2か月間は徹底してサポートに回りました。 

そうしたら、新規顧客の大口案件が舞い込んできたりなど、奇跡的なことが次々と起こり、 

結局2か月後にはまたトップに返り咲いたのだそうです。

<引用終了>

 

この結果、この方は、今までサポートされていたのは、自分の方だと気づきました。 

周りを潤わせ、利を与えること。 

その結果として、自分に戻ってきたのでした。 

これはブッダが教えてくださった四摂事(ししょうじ)、 

衆生(一般大衆)を救う4つの徳の中の一つ、「利行」のことです。 

「まずは相手を潤わすこと」これが結果的に、巡り巡って自分によい形になって返ってくる。

これは、お布施も同じですね。

まず、喜捨すること、自分から出すことで、巡り巡って自分に帰ってくるという、宇宙の法則です。 

断捨離も同じです。

まず、古くなった不要なエネルギーを手放すことで、空いた時空間に宇宙のエネルギーが流れ込みます。

与えることで、自分の中に空いた時空が生まれます。 

また、ここには、もうひとつ大切な意味が込められています。 

何か大きなことを成したり、実績を残すことが 私たちの生まれてきた目的ではない・・ということです。

私たちが生まれたのは、

・人々と調和

・愛

・優しさ

・思いやり 

・助け合いの心

これらを共有すること、分かち合うこと、魂の震える経験をすること、

そのために生まれてきました。 

決して、

・物質的に豊かになったり

・地位や名誉を得ることではありません。 

そのようなものは、天に帰る時、持って帰れません。 

魂が震える経験

人々と、喜びを分かち合えた時、生まれて来た目的が達成されます。 

この目的さえ達成されれば、それを味わうための舞台装置であった、 

・喜び

・悲しみ

・苦労、苦難

・豊かさ

・貧困

・嫉妬

・憎しみ 

それらを味わう経験は、もう必要なくなります。 

人生において、全ての流れが調和してスムーズに運び始めます。 

この宇宙の真実に気づいている人は、  

・何かを得ようと

・大きなことを成し遂げようと 

必死に努力するのではなく 

最初から

・周りの人々に喜ばれる道

・助けいあい、調和する道 

それらを第一に考えて、そのための利他行を行います。

最後に、美しい詩を一編、ご紹介します。 

<引用開始>

  

大きなことを成し遂げるために、

力を与えてほしいと、

神に求めたのに、

謙虚さを学ぶようにと、

弱さを授かった 

偉大なことができるように健康を求めたのに、 

より良きことをするようにと、

病気をたまわった 

幸せになろうと、

富を求めたのに、 

賢明であるようにと、

貧困を授かった 

世の人々の賞賛を得ようとして、

成功を求めたのに、 

得意にならないようにと、

失敗を授かった 

人生を享受しようとしてあらゆるものを求めたのに、 

あらゆることを喜べるようにと、

命を授かった

求めたものはひとつとして、

与えられなかったが、 

願いはすべて聞きとどけられた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、 

心の中の言い表せない祈りは、

すべて叶えられた

私はもっとも豊かに祝福されたのだ 

<引用終了>

 


 「宇宙からの助け」


時代が変わろうとしている今、夜明け前の漆黒の暗闇の中、世の中のあちこちで、重苦しい空気が張り詰めています。 

・緊張の糸が張り詰めた時

・エネルギーが限界を超えて集まった時、 

必ずそれは爆発することによって緊張が解かれ、次のステージが始まります。 

マスコミや国、その他見えざる権力者による(恐怖をあおる)情報操作もあるかもしれませんが、風評、噂、恐怖感からとはいえ、現実に客足が減り、経済が回らず、倒産、強制解雇など、悲惨な境遇に置かれていらっしゃる方もおります。 

こんな時、何にすがったら良いのか?

・能力を持っていると、自ら吹聴する どこかの他人か?

・国や権力か?

・神仏か?

何かに頼りたい気持ちは、人間なら誰しもあります。 

ですが、こんな状況の中でも、宇宙の法則は、きっちりと正確に働いています。 

  

それは、(自分が)与えたものが、受け取るもの という法則です。 

投げかけたものが返ってくる。投げかけないものは返ってこない。

・愛すれば 愛される。

・愛さなければ 愛されない。

・嫌えば 嫌われる。

・嫌わなければ 嫌われない。

・裁くものは裁かれる

・裁かないものは 裁かれない。

・意地悪をすれば、意地悪をされ

・蔑(さげす)めば、蔑まされ

・罵(ののし)れば、ののしられ

・強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される 

・許すものは 許される。

・許さないものは 許されない。

・施せば 施される

・優しくすれば 優しくされる

・笑顔を向ければ、笑顔が帰る

・助ければ、助けられる

・励ませば、励まされる

・勇気を与えれば、勇気づけられる

・感謝すれば、感謝される  

ですから、もし普段から

・人を愛し

・人を許し

・人に施し

・人に優しくし

・人に笑顔を向け

・人を助け

・人を励まし

・人に勇気を与え

・人に感謝していれば

 

宇宙の法則が正確に働き、自分が

・困っているとき

・絶望の淵にある時

・失業してしまった時

・病気になった時

・一人ぼっちになってしまった時 

何らかの助けが巡ってくることでしょう。

それは、本当に不思議なめぐりあわせで起こります。

想いもよらない方法で訪れます。

ですがそれは、決して偶然ではなく、棚からぼた餅でもなく

自分がしてきたことが、宇宙を巡り巡って

自分にとって、最適な時に帰ってきただけです。 

そしてそれは必ず人が運んできます。 

思いもよらぬ人から助けが入ります。 

それは神々だけが知る、有機的な人間のネットワークを介して

神々が、ほんのちょっと、関係する人たちの心に、

一瞬のヒラメキのような働きかけを与えることによって動き出します。

関係する人々は、それが神々から来たことには気づきません。

意識することもありません。

何故自分がそのように動いているのかさえ、考えません。

ですが結果として、それらがうまくネットワークとして結合して繋がり 

私たちのもとに「与えたものが受け取るもの」という果報を運んできます。 

ですから、私たちは普段から、 

・人に優しく接していれば・・・

・その人、一人一人の心を大切にしていれば、 

必ず、どんな状況からも助け出されることでしょう。 

どうぞ安心し、普段から笑顔でお過ごしください。

それが神々が作ってくださった宇宙の法則なのですから。



2024年2月18日日曜日

3341「魂の泥を落とす」2024.2.18

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年02月06日の記事を紹介します。


「魂の泥を落とす」


今日は、美しい魂になるためにということで、小林正観さんのお話をご紹介します。 

この記事の目的も、読んでくださる方の

・霊性を磨くこと

・心をピュアにすること

・神々の心に近づくこと 

を目的としています。 

ひいては古き良き日本を再興し、地球を平安な世界にするためです。 

  

本当の幸せとは、

・素晴らしい前世を持つと自慢する人や、

・特別の神様と繋がっていると自称する人に

頼ることで得られるものではなく、ブッダやイエス、空海など、高貴な魂の方々が仰る通り、

一人一人の、美しい心にかかっているからです。

自分の心を生まれた時のように、ピュアにすることができれば 

・何か不思議な力に頼ったり

・人を貶め、マウンティングし、自分を高き者のように見せなくとも

・心ドキドキさせる見えない世界に頼らなくても 

生きている間に天国に住み、そして死後も、天の国に住み続けることができるからです。

私たちが住み、見て感じているこの世の中は、私たちの心が反映されたものです。

ですから、心の中が怒りと憎しみで一杯であったなら、策略謀略、悪口・・諸々の悪しき物を見て、それらに囲まれていることでしょう。

逆に心の中が清く、美しいもので満たされていれば、愛、思いやり、信頼、優しさ、助けあい、お互いさまの心など、様々に心が癒される世界に生きていることでしょう。 

これが空海が言った「即身成仏」、つまり、生きながら地獄に住む、天国に住むと言うことです。

もし、美しい思いやりの世界で生きて行きたいのなら、

まず自分自身の心の洗濯が必要です。

それでは、正観さんのお話をご紹介します。

意味が分かりやすくなるよう、少しだけ補足して転載します。

<転載開始> 転載元 

 

魂の特性を見抜いてあげる、魂の話、子育て、教育のお話です。

きれいな魂の状態を泥汚れにしているのは、競うこと。較べること。争うという事です。

きれいな魂のままであるためには、今のありのままでいい という事です。

それは 学校教育では出来ません。

競う 較べる 順番をつけることを学校教育のシステムとして成立させてきたからです。

ところが日本の教育は、本来違うものだったんです。

それは「寺子屋教育」と呼ばれていました。

寺の境内で遊んでいる子どもは 寺子と呼ばれ、その子達に読み書きを教えたところから始まりました。

寺子屋では 一切順位付けはしません。

読み書き そろばん 社会に出た時に文字が書けて読める。そろばんで足し算、引き算。

それらができるようにそれを教え込んだのが寺子屋でした。

そこで順位をつけることは 一切しませんでした。

寺子屋教育こそ教育の本質です。

吉田松陰の松下村塾が教え込んでいたことは

順位付けすることではなく、「見抜いてあげる」ことでした。

松陰先生は「あなたは こういうほうがいいのではないか。

こういうジャンルが向いているのではないか。」

「あなたは こういう分野で 優れているので、その道で身を立てたらどうか」と教えてあげていました。

塾生に対し順位をつけることなど一切しませんでした。

でも西洋教育は違うんですね。 

順位付けをする。その結果 その順位を競わせるということになりました。

その教育を日本が受け入れ、「富国強兵」 国を富まして兵を強くする、という方向に向かって行きました。 

確かに一時は、そうなっていったので、その教育が 一番正しいと 思い込んだのです。

ですが、それは違います。

本当は優しさ、心の温かさとかいうものを評価する世の中のほうが良いわけでしょう。

でも現代社会においては、そういうものが評価されずに魂が濁っているわけですよ。

競うこと 較べること 争うことで、魂が泥汚れになっているわけですよ。

それがある日突然、泥が払われることがある。

景色の美しさに驚く瞬間。雪の結晶の美しさに気づく瞬間。

その瞬間とは、魂の泥が 一瞬にして払い落とされた瞬間です。

 

競う。較べる。争うことを全部やめ、

ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていく だけでいい。

それが何番目であるかなど関係ありません。

母親自身がその事に気付き、変わっていけば、子どもはどんどん変わっていくでしょう。 

本当に綺麗な魂に、きっと戻っていきます。

その時、子どもは言うことでしょう。

・お花がこんなにきれい。

・海はこんなにきれいだったの?

・わ~今日の空は すごくきれい。

そうした時 子どもも大人も、きっと「仏性に目覚めた」ということだと思います。 

ブッダの仰った「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。 

魂の構造が少し分かりましたか?

実は 魂を磨く必要なんてないんです。 

魂はもともと完全で綺麗なクリスタルです。

磨くのではありません。泥汚れを落とせばよいだけです。

自分の内側の競う心 較べる心 争う心をゼロにすること。

それだけで 魂はもとのきれいな状態になっていきます。 

<転載終了>

   

みなさん、ちょっと周りを見渡してみてください。

・良い学校と言われる所を出た人は、みんな幸せに暮らしていますか?

・勉強嫌いだった同級生は、生きることが苦しく、みんな暗い顔していますか?

・仕事ができず要領の悪い人は、みんな解雇され、貧困に陥っていますか? 下を向いて生きていますか? 

そんなことは決してありません。 

みんながみんな、一人残らず、自分の居場所を見つけ、そこで生きているはずです。 

その場所で必要とされているはずです。 

私たちは、生まれる前に、既にその「居場所」を見つけていたからです。 

その場所で必要とされていたからです。

 

以前、山古志村の文化遺産保存のための映像ライブラリを作成したことがあります。

その時に田植えの季節の「田植え唄」の取材をしたことがありました。 

春、ブナ林の新緑の中。みんなで水の張られた田んぼに一列に並び、

「田植え唄」を歌いながら稲を手植えしていく行事です。 

昔はどこでも、このような光景が見られたそうです。 

その時参加してくださった地元の方は、高齢の3名の方。そしてもう一人は若い方ですが、知的障害のある方でした。 

でも、笑顔がとびっきり輝いているのです。 

皆さん、もちろん差別や、特別扱いは一切しません。 

普通に話しかけ、普通に笑いあっているのです。 

少しの違いなど一切気にしません。

それがあるからこその、彼の輝く笑顔なのです。 

地域の中で、分け隔てなく、みんながみんなを大切にして生活していることが、よくわかる光景でした。 

彼の心には何の心配もなく、そして人々の差別や偏見は一切感じなかったことでしょう。 

自分が丸ごと受容されていることを知っていたからです。 

私たちも同じです。

心配しなくても、みんなに居場所が用意されています。 

その居場所で自分のことを必要としてくれる誰かが必ず居るのです。

競う 較べる 順番をつけることなどしなくても

私たちは本来の伸びやかな、美しい心のまま生きていけるのです。

競う 較べる 順番をつけることを止めた時、神さまを信じ、自分を信じ、あるがままの自分でも生きていける。 

生きて行っていいんだ、と、心から信じられた時 

私たちの魂は本来の美しさと輝きを取り戻すことでしょう。 

きっとこれこそが、私たち人間の生きるべき本当の姿だと思います。 

皆さんも、一足飛びではなくとも、

少しずつ、そちらの方向に進んでみませんか?

きっとお幸せになれますよ。  

2024年2月17日土曜日

3340「青空ひろば」2024.2.17

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新のものを紹介します。


1187 2023.12.30  ~ 1227 2024.02.12

今月の禅の会(平成26年12月7日)では、『アドラー心理学トーキングセミナー 性格はいつでも変えられる』野田俊作(アニマ2001)という本をテキストにしてお話しさせて頂きました。

野田さんは昭和23年3月10日生まれ。大阪大学医学部卒で、精神科医。シカゴのアドラー研究所でアドラー心理学を学ばれた方です(日本アドラー心理学会会長)。私と大学が同窓で、おそらく1年先輩なのだと思います。

ですから、野田さんも私と同じように、学生時代は大学紛争の渦中にあったわけですね。

この本の中にも、そんな話が載っていて、野田さんは、敵味方に分かれて争っている学生たちを見て、『こんなことをやっていても、そんなやり方(政治)では決していい世界を創ることは出来ない。やはり、人間が変わらなければ世界は変わらないのだから、ボクは人間の心を研究しようと心理学を志した』と語っておられました。

私もやはり同じように考えて、私の場合は禅に向かうことになったわけですね。

野田さんはアドラー心理学の研究・実践を積み重ねて、ついに心の癒しには瞑想が欠かせないという結論にたどり着き、癒やしに瞑想を活用するようになられたのですが、私の場合は坐禅から入って、「心」の重要性にたどり着いて、「心による想いの実現法」などを皆さんと一緒に研究するようになりました。

というわけで、野田さんと私は似たもの同志で、この本の内容にも共感できる部分が多いし、なるほどと教えられるところもたくさんありました。


『性格はいつでも変えられる』というのが、この本のサブタイトルとなっています。そこで、まず「性格」とは何なのか、漢字の原義から見えてくるものを探ってみましょう。

まず、性格の「性」について、私が使っている漢和辞典には、「ヘンの忄(りっしんべん)と、ツクリの生で、人に生まれながら備わっている心を表す」とありました。また、「仏教では、万物の変わらない(変えられない)本質を表す」とありました。

そして、「格」については、「(行こうとして止められる)コツンとつかえる固い角やワク、モノゴトを制限するきまり、法則」とありました。

つまり、「性格」について、昔の人は、

① 自分はこの道を進もうとしても、その行く手を阻んでストップさせる(生まれつきの)心の傾向性。

② 進む道を強制して自由な選択をさせない(生まれつきの)心の傾向性。

と捉えていたことが分かります。

このことから分かるように、昔の人はずいぶん制限・制約の多い「固くて、重い」世界に生きていたのですね。

たとえば、「男性・女性」だって、昔はこれは「性」のもの、つまり生まれつきのものであり、一生涯変わらない、変えてはいけないものと考えられており、その決まりに違反することは許されなかったのです。

しかし、現在では、その考えは間違っており、男性でも心は女性ということもあれば、女性だけれど、心は男性であるということもあるのだと理解許容されるようになってきましたね。

つまり、私たちが現在住んでいる世界は、ありがたいことには、昔の人が暮らした世界に比べたら、ずいぶん「柔らかくて、軽い」世界になってきているのです。

ところが、そんな現代に生きている人でさえ、「性格はなかなか変えられない」といいます。それに対して、野田さんは「性格は変えられる」と言われるのです。「性格」は放っとけば、ウカウカしているうちに、どんどん変わっていってしまうものなのだと言われます。

それはそうですね。世界は一瞬、一瞬で立ち消え、立ち上がり、してゆくものなのですから、継続するものなんて実は何一つないのです。ですから、「性格」なんていう固定したものもどこにもないはずなんです。

それでも、「性格」が各人に固有の変わらないもののように現れているのはいったいなぜなんでしょう。

それは、人は自分の「性格」を変えたくないからなのだと言われます。変えたくないから、そもそも「幻想にすぎない囲いや壁」をあたかもあるかのように構築して生活しているとされるのです。

その幻想は、放っておけば崩れ去ってしまうもので、それを維持させるのは並大抵の努力ではありません。自身が持っている生命エネルギーのかなり大きな部分を割いて、その幻想の囲いを維持するために使っているのです。

そんなつまらないことのために使われるエネルギーが解放されて、もっとポジティブな目的に使われたら、人はもっと速く、もっと大きく成長できるはずなんです。


では、人はなぜ「性格」を固定させて、自らワザワザ不自由な生き方をしているのでしょうか。それは、その方が安心に生きられるというメリットがあるからだとされます。

一つには、この「性格」で生きていれば、過去もこの「性格」で生きてきたので、これからの自分の人生の道行きも、だいたいの見通しが立つという安心感があるのです。ですから、不満足ながらもとりあえず安心を取ろうというわけです。

二つ目は、この「性格」で生きることによって、自分の周りに作られた「世界」(これも実は自分が生み出した幻想の世界像)との間に一種の安定状態が形成されているので、その安定を壊したくないのです。

三つ目は、この「性格」で、ずっと生きてきたので、こういうときはこう反応すればいいんだという行動パターンをたくさん学習、蓄積してきたので、その投資を無駄にして、また一からスタートするという決断が、怖くてできないのです。

野田さんは、こんなたとえで説明しておられました。

あるお店を経営している人がいるとします。その商売は時代遅れになっていて、その店も年々売り上げを下げてきています。このままではやがて立ち行かなくなるかもしれないなあと思って、店主は不安を抱いています。

いっそのこと、思い切って店を閉めて、新しい商売を始めるか、就職しようかとも思うのですが、その踏ん切りがなかなかつかないでグズグズしています。

なぜ、踏ん切りがつかないのかというと、もう長らくこの商売をやってきたので、こういうときはこう行動すればいい、こんな時はこうするというノウハウをたくさん積み上げてきたし、経営上の人脈も築いてきたので、その貴重な経験群をご破算にして、またゼロから始めることにはためらいを感じるのです。

「性格」とは、こういうもので、必ず時代遅れのものなのです。なぜなら、性格とは過去の経験や学習を通して形成されたものなのですから、もうすでに、過去のもの、時代遅れのものなのです。そんなものに頼って、これからの未来の進路を決めて生きてゆこう、少しぐらい不自由で、ジリ貧の人生を生きることになっても我慢しようというのは、とても残念なことですね。

野田さんはグループセラピーをやっておられるのですが、ある会で、歩き回って、合図があった時、目の前にいた人に「私のことを好きになってください」と告げるというゲームをしたのです。

その時に、どうしてもそう言えずに壁に向かって立ち、途方にくれている若い男性がいたそうです。なぜか、そういう「性格」が形成されていて、そう言おうとしたらブレーキがかかってしまうのですね。

その時に、その男性に呼吸法を中心とした瞑想をしてもらったのだそうです。すると、すらっと「私のことを好きになってください」と言えるようになったのだそうです。面白いですね。

このように、アドラー心理学では、そうなった過去の原因については、取り立てて詮索はしないそうです。原因がわかっても、それでその人が変わることが出来るとは限らないのですからね。


坐禅でも、瞑想でもやると、ちょっと頭がアホになるんですね。すると、中途半端にカシコイ時にはブレーキがかかっていた行動も、つい、フラッとやってしまうことになります。

そういう経験を重ねると、次第に、『アッ、行く手を阻む壁なんて本当はなかったんだ』と自覚できるようになるので、原因の追究(精神分析)をしなくても、もうその方向にあったはずの囲いは消滅してしまうことになります。

私なんかも、もともと気が小さくて、臆病な性格なんですが、いざという時になると、そんな小さな囲いが一気に消滅して、開き直って大胆に言動できるようになります。

そして、そんな、ついやってしまった行動が、実はとても大切な意義をもったもので、我が人生の重要なターニングポイントになっていたんだなあと後で気がつくのです。

坐禅を長年続けてきたということはそういうことなんで、いざとなれば、アホになって、思い切った行動がとっさにとれるようになります。そして、そのとっさに取った行動が、深い智慧をこめた極めて有効な一石を投じたものとなっていたのだ(これを般若の智慧といいます)と気づきます。

そういうことが分かってくると、つまり、いざとなれば、いつでも、どこでも、「性格」という囲いを取っ払って、有効に行動出来るんだ、と分かってくると、日ごろは、もとのままの臆病で、ビクビク、オロオロしている大敬さんのままでいいんだと分かってきました。


野田先生は、性格を変える方法を三つ挙げておられます。  

(1)次に何が起こるか分からないということを引き受ける覚悟さえ 持てれば、性格は変わる。

私の場合は、私がどう振舞うべきか考えるのは「神様」、大敬をどう動かすのか計画するのも「神様」、大敬の世界を構成・配置するのも「神様」なので、「神様」の御心のままに、お任せで動くだけなので、そういう意味では、この(1)の条件を満たしているようですね。


性格を変える方法の2番目は,

(2)「考え」をやめること。

人は、苦手なこと、どうしてもやれないことが出てくると、それについて「考え」ます。しかしそれは、やれない自分が「考え」ているわけだから、その「考え」の延長上に解決は決してないのです。また、「考え」というのは、要するに、「出来ない言い訳さがし」なのです。

野田先生の言葉、「何かをすることに抵抗を感じたときは、ただひとつしなければならないことは、そのことをすること。一番してはいけないことは、なぜ抵抗を感じるのか分析をはじめること」

坐禅をすると、「アホ」になれるので、スッとやれてしまうものです。出来ないことにこだわって、それを直そうと努力すればするほど出来なくなってしまいます。

誰にでも、不得意なこと、やれないことがあって、また、そんな人が、他の人にはとてもできないようなすごい得意技を持っていたりします。

そういう、各人それぞれの「いのちのクセ」があって、それが面白いし、それでOKなんです。

先ほどの、「私のことを好きになってください」と、どうしても言えないという若い男性だって、かわいいじゃないですか。なんだか涙がでそうなほど、愛しく感じられてなりません。

野田先生はお医者さんで、カウンセラーなので、どうしても患者さんを治してあげなくてはならない立場なんですね。

でも、私はそうではないので、そんな制限があったり、制約の壁があっても、それと対決しないで下さいね。そういう自分であるということを認め、許し、愛して下さいねと皆さんに訴えたいのです。

その上で、坐禅という実践をして下されば、必要な時に、必要な行動が自然と取れるようになりますよ。それでいいでしょう。なにも達人や超人になろうとしなくていいですよね、と言いたいのです。

もとのまんまで、クセのまんまで、やれないことがあったり、やれることがあったりするまんまでOK,それが人間の愛嬌というもので、いくら達人であっても、苦手の一つや二つ、ちゃんと持って、人をホッとさせるような人物でなくちゃあと思います。

覚えておられますか。

文殊菩薩という方は、七代の仏様の先生であったという位、偉い方なのですが、ある若い女性を、どんなに智慧の限りを尽くしても目覚めさせることが出来なかったのに、底辺世界の住人である罔明(もうみょう)という人がいとも簡単にその女性の目を覚ますことができたというのです。それはなぜなのか、という公案がありましたね(無門関第42則)。

文殊さんにも出来ないことがあり、罔明さんにも出来ることがあるのですね。なぜという原因の詮索はいらないのです。

出来るものは出来るし、出来ないものは出来ないだけのことなんです。それがこの公案の解答で、それでOKなんです。いのちはひとつなんだから、出来る人(分身の自分)がやればいいだけのことなんです。


性格を変える方法の3番目は,

(3)坐禅(瞑想)をする。

野田先生は、瞑想をすれば、自分や他者や世界を、そのまま受容できるようになると語っておられます。その通りですね。

ありのままの自分と他者と世界を受け入れ、許し、愛せるようになると、ありのままの最高の自分を発揮して行動できるようになってくるのです。

野田さんは、アドラー心理学の究極の目的は、人の中に「共同体感覚」を育てることなんだとされています。この「共同体感覚」というのが面白いです。

野田さんは、この「共同体感覚」には、三つの感覚から構成されていると書いておられます。

(1)「私は私のことが好きだ」という感覚(自己受容)

(2)「人々は信頼できる」という感覚(他者への基本的信頼感) 

(3)「私は役に立てる人間だ」という感覚(貢献感)

これは、まさしく、「ひとついのちの自覚」が生じた時の感じと同じです。

「ひとついのちの自覚」が生じると、自分のことが好きで好きでたまらなくなります。

なぜなら、全体生命(小さくは人類の魂、大きくは大宇宙の神)が、その進化のためにどうしてもあなたが必要だと思って、そして、「あなた」を地上に生み出しました。

その「あなた」は、あなたの全体で、いいところだけが神さまの創造というわけではありません。神様はあなたの全体をそっくりそのまま、認め、愛して下さって、人生の歩みをサポートして下さっているのです。「ひとついのちの自覚」が生じると、自ずとそういう、宇宙全体に裏打ちされた自分なのだという、自己肯定感がいのちの奥底から湧きだしてきます。

また、自分だけではなく、Aさんも、B君も、イヌ君も、ネコさんも、みんな神様が、どうしても必要だと生み出された存在であるということがわかってきます。

そして、私は神様の全体(ひとり子)であるけれど、それぞれの個々のいのちたちも、それぞれ神様のひとり子であり、私といのちを共有する兄弟姉妹、分身であると気づきます。それが、野田先生がおっしゃる(2)の他者への基本的信頼感なのです。

どんなことがあろうと、どんな人であろうと、みんな「いい人」なのです。私はそう自然に思え、言えるようになった自分がとてもうれしいですし、そう見られるようになったからこそ、まわりに「いい人」ばかりが集まってくるようになったんだと思います。


最後は(3)の「私は役に立てる人間だ」という感覚(貢献感)です。

「金平糖大作戦の神話」にあるように、はじめに、「人類の魂(神)の進化完成」という大目的があって、そのために、それぞれの人の人生のさまざまの体験(失敗も含めて)があるのです。この広い宇宙に、あなたが神様のために担っている役割を、あなたの代わりに果たせる人は一人もいません。

あなたがその人生で体験するすべてのことども(喜怒哀楽のすべての経験)が、人類の魂の進化のためには、どうしても必要なものなのです。

ですから、本当は、あなたはただ生きているだけでいいのです。

アタマでは、私が生きていることに何の意味があるのかさっぱり分からないとしても、ただ地上のいのちがなくなるまで、何とか生き切るだけで、しっかりあなたの役割を果たしたことになるのです。

あっちの世界に帰っていったら、神様が「よくやった」と喜んで下さいます。そうとアタマで分からなくても、「そう」なんです。(完)