2019年5月13日月曜日

1668「南三陸8」2019.5.13

 昼食は佐藤造船所から近くの万石浦に面した女川温泉 華夕美での海鮮丼です。美味しい海の幸にお腹も満たされました。


ここで皆さんに予定変更の相談をしました。外は雪です。午後のメインは雄勝町の石神社・石嶺山の登山と、そこから近くの白銀崎・白銀神社です。この天候では無理と判断しキャンセルすることで如何かと。木内さんの骨折の事もあり当初から難しいと思っていたので、この天候で中止と決める事が出来ました。早めに宿についてゆっくりすることで皆さんの賛同を頂けました。 午後はサン・ファン・バウティス館の見学です。そこは石巻市渡波字大森にあり、佐藤造船所の直ぐ東側になります。以下の様に紹介されています。

・サン・ファン館、サン・ファン・バウティスタパーク
「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)は、今から約400年前に慶長使節ら一行を乗せ、太平洋を往復したガレオン船「サン・ファン・バウティスタ」の復元船を核に、慶長使節の歴史や大航海時代の帆船文化を紹介する博物館です。当館は牡鹿半島と太平洋を一望できる景勝地の高台にあり、イタリア風庭園の石巻市サン・ファンバウティスタパークに囲まれています。
 施設は地図上の等高線をデザイン化、自然と共生型の展望棟とドック棟が丘陵地に組み込まれる形で設計され、1996年(平成8年)に開館しました。東日本大震災での大津波によりドック棟と復元船が大きな被害を受けましたが、国内外の多くの支援により2013年に再開館を果たしました。

伊達政宗と慶長遣欧使節
 慶長遣欧使節とは今から約400年前、仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。
 使節に選ばれた家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡りました。常長はメキシコを経てイスパニアに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しました。しかし、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができず、7年後の1620年、仙台へと戻りました。

使節に支倉常長が選ばれたのはなぜ?
 朝鮮出兵の際の海外渡航や異国滞在の経験や、鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力があると評価されたためと言われていますが、失敗したときの影響を考えて上級の家臣ではない常長が選ばれたとの説もあります。いずれにしても史料が失われているため、その真相は分かっていません。

仙台藩を襲った慶長大津波
 2011年の東日本大震災からちょうど400年前の1611年12月、東日本大震災による大津波と同規模の「慶長大津波」が仙台藩を襲った記録が残されており、震災以後、これまでほとんど注目されなかった慶長大地震と慶長使節の関係が着目されるようになりました。
 政宗が徳川家康にしたという報告『駿府記』では、この震災により仙台領だけでも5,000人を超える死者を出したと言われ、仙台藩の正史とされる「貞山公治家記録」では、1,783人の死者を出したと伝えられています。また、使節派遣に重要な役割を担うセバスチャン・ビスカイノは、仙台領三陸沿岸を探索中でしたが、海上で大津波に遭遇した記録を残しています。

使節派遣の意図と仙台藩の復興
 この慶長大津波からわずか2週間後、政宗は造船と慶長使節派遣の構想を明らかにし、その2年後、サン・ファン・バウティスタは月浦からヨーロッパへ向かって出帆しました。
 このような事実を踏まえ、改めて慶長使節派遣の意義を問い直してみたとき、この計画には大きな災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないか、という新しい解釈が生まれます。
 政宗と常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流ももたらしてくれます。そしてそれは復興の基盤になりえます。
 私たちが経践した東日本大震災のちょうど400年前、まさに復興の最中に、慶長遣欧使節は大航海時代に打って出たのです。使節を派遣した伊達政宗は、震災によって大きく傷ついた仙台藩を、より良い国に発展させようとしたのではないでしょうか。」

 雪の降る中ですから室内見学は幸いです。最初に映画鑑賞をして館内の見学をしました。


サン・ファン・バウティスタ号は陸地に固定されて航行出来ない見学専用の展示です。2011年の311東日本大震災の津波で被災し、マストが折れるなどの被害を受けました。復元補修工事がされたのですが、2022年までに解体されることになるようです。佐藤造船所のS社長はこのサン・ファン館の有り様に以前から批判的に語っていました。


支倉常長の肖像画は残されていますが以前、仙台市博物館でその姿を見た時に、S社長にそっくりだと思いました。知っている方々にその事を話すと似ていると言います。S社長にも話したのですが見た事が無かった様で、博物館に家族で見学に行ったところ、本人も納得した様でした。私はS社長の中には支倉常長の御霊が何らかの形であるのではないかと思っています。400年の時間を経て相似的に何かが現象化するのかもと。