2019年5月19日日曜日

1674「南三陸14」2019.5.19

 ちょっと寄り道です。歌津町で語り継がれる田束山のお話しがありますので紹介します。
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田束山の「カラ猫」
「昔、「歌津」の「田束山 たづかねやま 」には「カラ猫」が、「貞任山 さだりやま 」には「トラ猫」が、「鳥ヶ森 ちょうがもり 」には「三毛猫」が、それぞれ住んでいました。
 ある日、猫たちは、長者の美しい一人娘が、悪代官に無理矢理、花嫁にさせられそうになっているという話を聞きました。三つの山の猫たちは怒り、何とかしようと話合いを持ちました。
 ところが、ちょうどその時、いちばん力のある「貞任山」の親猫が、全国の猫たちが集まる「京の都」での寄合に出るため、留守にしていましたので、「カラ猫」と「三毛猫」だけの話合いでは、なかなか意見がまとまりませんでした。
 困り果てた二ひきの猫は、「田束山」にある「清水寺」の「薬師如来」に、「貞任山」の親猫をもどして下さい、とお願いしました。すると不思議なことに、たちどころに「貞任山」の親猫がもどってきました。夢に「薬師如来」が現われて、事件のことを知らせてくれたのだと、親猫は言いました。
 その後、「貞任山」の親猫を中心にまとまった三びきの猫たちは、悪代官をこらしめ、長者の娘を助けました。長者は、たいへん喜び、「いつもは、犬猫などとバカにされているが、この義理人情の厚さは、人間でも及ばない」と言って、たいそう感謝したということです。

・この話について
 何だかわたしが題名に選んだ「田束山 たづかねやま のカラ猫」よりも、「貞任山 さだりやまのトラ猫」の方が主人公のような話ですが、「田束山」の「薬師様」の力にすがったのですから、そこに住む「カラ猫」も重視されるということでお許し下さい。
 しかし、このお話では、仏さまを敬う猫たちの信心も立派なのですが、やはり、猫たちが力を合わせて、自分たちとは関係のない、むしろふだんは自分たちのことをバカにしている人間のために悪者と戦うという心意気に胸を打たれますよね。わたしたちは、いざという時、この猫たちの半分ほども勇気のある行動がとれるでしょうか?もちろん、猫たちだって、信頼できる仲間がいたからこそ、勇気もわき起こったのでしょう。
 このお話を語りついできた「歌津」の人々は、近所の猫が庭でトイレや砂浴びをしたり、あるいは単に昼寝をしたくらいで、その猫たちを追いはらったり、殺すべきだと言ったりしている現代人のことをどのように思うでしょうか?ときおり考えてしまいます。
 人間から見れば、本当は大変に弱い立場の猫たちが、その強い人間を助けるために、さらにもっと強い人間に戦いをいどむ今回のお話には、色々なことを考えさせられます。人間も、自分たちとは立場がちがったり、あるいは自分よりも弱い人間や生き物に対して、「負け組」などと言って馬鹿にしたり、「関係ない」と言って目をそむけたりしないようになれば、ずいぶんと生きよい社会になるのではないかとわたしは思うのですが、みなさんはどのように考えますか?
 このお話が伝わる「歌津」は、いまは「南三陸町」にふくまれるのですが、みなさんもニュースで見たり聞いたりしたように、この町は三月に起きた「東日本大震災」で壊滅的な被害を受けたところです。人間社会をおそったこの大きな危機に、「田束山」「貞任山 さだりやま 」「鳥ヶ森」の猫たちは、きっとすでに立ち上がっていることでしょう。はたして、おなじ人間であるわたしたちは、仲間の人間に対して、どのような心意気を見せることができるのでしょうか?
 わたしは、いま、自分が三びきの猫たちや、「田束山」の「薬師様」に、みずからの心意気を試されているような気がしてなりません。」

a) 「田束山」などについて
 旧「歌津町」と旧「本吉町」の境に立つ「田束山 (幌羽山) 」 (512m) は、山の形が龍の伏す姿に似ていることから名がついたとされ、「歌津村」の『安永風土記』には「龍峯山」とも記されており、「りゅうほうざん」と主に訓まれたようなのだが、「たつがみね」とも訓めることから、これが訛って「たづかね」になったと云う説もある。
 「峯・峰・嶺」などと表記して「みね」と訓む語は、本来、神聖さを表わす接頭語の「み (御) 」が「山」を表わす語根の「ね」について成立したものなので、「ね」と訓むこともあるのは人名などでも明らかである。したがって、「龍峯山」と書いて「たつがね」と訓んだのではないか、と云うのが筆者の見解である。実際、『平泉雑記』 (1773) には、「辰金トモ書ス」と記されており、この辺りが往古、金の産出地であったことを併せ考えると、こちらの説も捨て難い。
 ただし、いずれの場合であったとしても、この山が「龍神」信仰と関係があった可能性は高い。そもそも、『本吉郡誌』によれば、「歌津」と云う集落名の由来自体が、霊山とされた「田束山」の卯辰の方角 (東南東) にあったからだとされ、何かと「たつ」とは関係の深い土地柄なのである。ちなみに、「馬籠村」の『安永風土記』には「田束山」とあり、『奥羽観蹟聞老志』には「田束嶺」とある。

 その霊山としての「田束山」の開山は、「仁明天皇」の承和年間 (834-848) と伝えられ、当初は「天台宗」の一山だったと云われている。「坂上田村麻呂」や「源頼義・義家」父子が、その東征のおりに、この地で祈願したとも云うが、定かではない。「高倉天皇」の安元年間 (1175-1177) に「平泉」の「藤原秀衡」が再興、「清水寺・寂光寺・金峰寺」などの七堂伽藍の寺院を築き、新たに七十余坊も設けたと伝えられる。このとき、山中には大小の寺院が四十八、坊は旧来のものも併せて百を越えたとされる。
 「鎌倉初」の「平泉」の滅亡後、「田束山」は一時、荒廃したが、後に「葛西氏」が新たに四十余坊を造営して再興し、一族の「千葉刑部」に祭祀を司らせたと『奥羽観蹟聞老志』巻之九 (1719) に記されている。(省略)
b) その他のことについて
 一方、伝説の中では親猫のいた「貞任山」 (360.3m) と云うのは、旧「歌津町」と旧「志津川町」の境に立ち、「伊里前川」の流れる「払川」の谷を挟んで、「田束山」の西南にある高く、険しい山である。「前九年の役」で敗れた「安倍貞任」が隠れ住んだと伝えられ、「貞任の隠れ穴」や「貞任屋敷」と云う場所などもあり、南麓の「米広・大上坊」の集落では、かつて全戸が「阿部」姓を名乗っていたと云う。一応、「南三陸町」では、この山名を正式には「さだとうやま」と訓んでいるそうなのだが、麓の集落などでは「さだりやま」と呼んでおり、「田束山頂」を「龍の頭」、「尾崎」を「龍の尾」と見立てた場合、「貞任山」が左足に当たるのでこう呼ぶのだとの説もあると云う。寛保元年 (1741) に成った『封内名蹟志』には、「高遊嶺」の名の下で記され、「往昔、貞任、妓を携え来りて此の山に遊び、遠望を称せしという。後人、貞任高遊嶺と称し、左足 さたり 山長川森という。何によって名とするや詳らかならず」とある。このことから、少なくとも十八世紀半ば頃には既に「さたり」の呼び名があったことが窺い知れる。」