2019年5月20日月曜日

1675「南三陸15」2019.5.20

 田束山を下り南三陸町に戻り、入谷地区を目指します。最初の目的地は重ね石(続石、入谷天神)です。天気も回復してきました。市街地は未だ造成工事真っ最中ですが商店街が出来つつあります。市街を抜けて進みます。本吉街道から入谷地区に入り小さな川の橋を渡り左折すると川の脇の民家に重ね石があります。以下の様に紹介されています。

・重ね石(続石、入谷天神)
「入谷たら葉川の川中にある花崗岩の重なりで、現在は三段ほどが重なっているのが確認できますが、実際には七つの石が重なっていると伝えられています。かつてこの付近は沼になっており、多くの魚が取れ、続石屋敷と呼ばれる長者がいましたが、旅の僧(実は弘法大師)に無礼をしたために没落したという伝説が伝わっています。」

「宮城県志津川入谷地区の橋を渡るとすぐに民家の脇にある。ここは巨石が多い所である。岩手の遠野に準え、宮城の遠野とも言われる。遠野同様昔語りの多さにも関係している様である。この先は、あの神行堂山の巨石がある。
 重ね石は、案内看板には、安永8年(1779年)の伊達藩による国勢調査とも言うべき安永風土記御用書出しには、7つ重ねであったという。今見えるのは3段までであるが、この下にあと4段重ねてある筈であるが・・・・。地中に埋まっていると思われる。
 露出部分は、長さ5m、幅4m、高さ1、5mもあろうか!見た目よりはずっと大きく、どうして乗せたものか、あと4段はどうなっているのか!
 信仰の為乗せたものであろう!水神「続石明神」として祀られたとある。」

 何でこんなところにと言う感じです。かつては沼地が埋まったのだったのでしょうか。






 次に直ぐ近くの本吉明神に向かいます。入谷から弥惣(やそう)峠に向かう道の入口の小川の脇にあります。鬱蒼とした木々に覆われて余程注意して探さないと見つけられない所です。以下の様の紹介されています。
・本吉明神
「写真は南三陸町入谷、弥惣(やそう)峠の入口に不思議な角度で鎮座する「本吉明神」の岩座。「もとよし」という地名のもとになったと伝えられる神様です。
 以前は淵になっていたのか、この廻りに生えたアシで作った笛を源義経公が大層お気に召して、京に戻るときも手放さずに持ち帰ったという話が伝えられていますが、それって葦笛? それとも篳篥のリード? まさか京の五条の橋の上で吹いていた‥のは竜笛だよねえ‥て、それはまだ奥州に下る前の話ですかね。
 まままあ、伝説は伝説として、「こんな話が伝えられてきたんだ」という事実をまず素直に楽しむのが基本ですね。その上で、なぜその話がその土地に定着し伝えられてきたのかをじっくり考えてみるのもまた楽しからずや、ということで。


 当時、このあたりは秀衡公の四男・本吉四郎冠者高衡が治める「本吉荘」で、仲の良かった義経公は度々行き来していたのだそうです。という話が伝わる一方で、いや実は、高衡公の館を通り過ぎた先には義経公の愛妾「江島」が囲われていて、公はそっちメインで足繁く通っていたんだよ、なんて話もまことしやかに語り伝えられています。
 高衡は義経よりもだいぶ年若く、平泉において御曹司であった彼が本吉荘に常駐するはずもありませんが、一応の管理者として訪れることはあったのでしょう。そんなときに、悶々とした日々を送っていた義経を誘って馬を並べて道々鎌倉や京、西国での戦の話など聞きながら‥ なんて考えるとちょっと楽しくなりますね。
 ちなみに我らが高衡公、兄・泰衡の命によって義経の首を鎌倉へ届けたとされる人物です。また、平泉滅亡後は相模国へ流されましたが、後に赦され、義経の異母兄・範頼を養育した公家・藤原範季の庇護を受けていたようですが、平泉滅亡から12年後の建仁元年、謀反に関わったとして誅されてしまいます。生年がはっきりしませんが、おそらく義経自害と同じく30代前半での死だったろうと思われます。
 なんか、ドラマや小説の主人公にしたいような人物ですねえ‥」

 色々いわくがありそうですが林の中に社が祀られています。「本吉明神」と呼ばれる神仏はこの巨石に神代としておわしますのでしょうか。何故にこの様に陰々としたところにしているのでしょうか。そんな印象は否めない所でした。