2019年5月10日金曜日

1665「南三陸5」2019.5.10

 奥松島を後にして石巻市渡波の佐藤造船所です。ここのS社長は生体エネルギーの縁での古い仲間で仙台テンメイの会員です。2011年の311東日本大震災で甚大な被害を受けました。私が佐藤造船を訪問出来たのは3月31日でした。以下の写真が造船所の様子です。



 その時から、更に支援の始まりの頃の状況をこの「自分で自分を自分する」ブログの記事で紹介します。

81.「曙光」2011年4月1日
「3月31日に、今回の大震災被災地の石巻市のテンメイの仲間Sさんのところに支援物資を搬送しに行ってきました。震災から3週間になるのですが、石巻市内の幹線道路は走行できますが、少し入ると未だ瓦礫がうず高く、家屋の倒壊、車や舟がいたるところに散乱しています。津波を直撃された地区にはビル以外の建物は全て消え去り、根こそぎ持ち去られた様子、自然が大掃除をした感じすら抱く廃墟です。
 Sさんの処への海岸沿いの道路は流された舟で寸断されていて、大きく迂回してたどりつきました。Sさんの造船所は津波の直撃を受けました。地の利で全壊は免れましたが、1階は抜けた状態で鉄骨がむき出しで未だ中は散乱状態です。大きな重機無くしては片付けが難しい状況です。
  
 3月11日に造船所には、修理の為に5隻の船が引きこみ線の上に設置されていました。地震の直後、その1隻の舟がレールから外れ海に流されたため直ぐに船主さんと連絡を取り海に出て頂き、他のずれた舟を固定しようとしている時、海が音を立てて引き始めました。津波は来るだろうと予測していましたが、危険を察知して直ぐに両親を高台に避難させ、再度戻って仕事をし始めた矢先、第一波の津波が押し寄せました。慌てて車で高台に避難しました。そこからつぶさに見た光景は海の男の経験を超えるものでした。何度も押し寄せる津波の轟音と共に近隣の家々、船は波にさらわれ、対岸は一面、海と化して故郷の姿は激変しました。それから避難所での生活が始まりましたがライフラインは完全に止まりました。食材はたまたま運送中のトラック1台分の魚が差し入れられて豪華だったとか。しかし、彼だけ一人、造船所3階の事務所に寝泊まりしています。

 震災直後、多くの人の死に遭遇し、未体験の修羅場を生き、極限状態で自分を奮い立たせ頑張って来た彼は言います。「段々人間の感情が無くなって悲惨な姿を見ても涙すら出なかった。人と話すうちにだんだん感情が呼び戻されてくる。しかし一人で過ごすうちに又どんどん人でない自分がいる。」そんな自分だったと。携帯電話も通じない中、充電も出来ず、かなりの日が経過して発電機を借りてようやく数日前から携帯が使えるようになり、私ともようやく連絡とれました。
 一緒に働いていた弟さんは地震直後に、家族を案じて自宅に車で帰る途中、津波に遭遇してしまいました。津波が近づくのを確認して、車を出て直ぐ近くの工場の様な建物の階段を駆け上がり2階に逃げ込みました。しかし水嵩は増してきて梁の上に上がっていましたがいよいよの時に、天井を足で打ち破って屋根に上がり難を逃れました。どうして天井が破れたのか不思議です。しかし雪降る夜はかなり冷え込みます。彼は幸い水にぬれずに逃げられたのが生死を分けました。屋根から流れて行く人や車、家が見えたそうです。電柱の上に逃げてしがみついている人もいました。皆で声を掛け合って眠らない様に激励し合ったのです。しかしその晩は凍死した方が沢山いたようです。ようやく帰りついた弟さんの家はほぼ全壊でしたが、再会した家族は幸い無事でした。

 片付けに追われるある日の午後、造船所の作業場で彼が疲れて眠りこんだ時に泥棒が入ったようで、貴重な記録を収めたデジカメが盗まれたそうです。愛犬が不審者を監視しているのですが、何故か吠えなかったと言います。どうやらドックフードを投げ込んで犬の気をそらしていたようです。無表情な黒光りした顔に怒りが読みとれました。天災と対峙する気持ちと、人の気を逆なでするような人災は意味が違うのです。

 実はこの日を期して、結局6名の仲間が想い思いの支援の物資、仏心を持って集いました。持参した食べ物を食べ、これからの事、暫定的に住める場所の提案など談笑して行く中で、今一番必要な物は、重機を動かせる発電機ということに成りました。数百万の発電機をどうしようかと思案していると6番目の助っ人が牛乳を持って登場です。何と彼の牧場で一時期借りているものがあると言うではありませんか。そして翌日に持ってきてくれる事に成りました。
 3時間以上歓談する内に彼からも笑い声が出てきて、段々穏やかに明るく成って来ました。皆で再建、再会を念願してそれぞれ解散に成りました。少し光が、エネルギーが彼に注がれたようです。復興させるという彼の決意を皆で支援して行こうと思います。


 同じ石巻市でも内陸部のKさんの田んぼは何の変わりも無く、穏やかな風が吹き光が輝いています。Kさんを同乗し、案内して頂き、市内の惨状を解説して頂きましたが別世界、天国と地獄の違いでしょうか。震災4,5日後に彼を訪問したKさんは、まだ水が引かず、かなり悲惨な状況に相当気分を害し精神的に疲弊しました。そして、その時会った彼に戦慄を覚え、別人の彼をどうにかしないと思ったと言います。
 そして我々が訪問した翌日、4月1日に彼と話したらとても明るく穏やかになっていたと連絡を下さいました。きっと我々のささやかな訪問が役立ったのでしょう、嬉しいことです。

 Kさんを自宅に送り帰りの夕陽は珍しい輝きでした。旭山に沈む太陽はかつて栄て、幾度か滅びたであろうこの日高見の地を全てを無しにして、今一度再生の道を歩ませ始めた様に感じました。



 既に日暮れでしたが、テンメイ松島農場を回り見てきましたが想像通り、後かたもない廃墟で、畑のまわりの全ては消えて無くなっていました。名取農場とはあまりにも対照的でした。