2011年の311東日本大震災の津波の被害は、松島は多数の島々が津波の勢いを止めて松島海岸周辺は多大な被害を免れましたが、東松島市では多数の犠牲者があり、多くの家屋が流失しました。
当時、NGO仙台テンメイには東松島農場がありました。仲間の所有地をお借りして栽培をしていましたが、砂地で水の確保など色々難儀をしていました。人家が密集する集落の中の畑でしたが、震災でその集落は跡形も無く消えてしまいました。畑の場所も、畑のランドマークの巨木も消えてしまい、近くの携帯電話のアンテナ塔の位置から推測する感じでした。その後の復興状況は分かりませんが、その農場は自然に無くなり、津波の心配のない山の手の地を求め、今の大和農場を確保出来る事になりました。
先人は海岸に住む教えとして、定期的に津波が来ることを分かって準備する事、住居は井戸を掘って飲み水が出ない所は住んでは駄目だという事でした。
奥松島はその自然の海岸美で多くの方々に親しまれていました。野蒜海岸は砂浜が綺麗で海水浴場として賑わっていましたが未だ防波堤工事で立ち入り禁止です。大高森を過ぎて到着です。資料館は以下の様に紹介されています。
奥松島縄文村歴史資料館 東松島市宮戸里81−18
「資料館では、傍らにある縄文時代の遺跡「里浜貝塚」から出土した縄文土器や骨角器、石器、装身具、縄文人の食料である魚や獣の骨などを展示し、縄文人の知恵と生活をわかりやすく紹介しています。
2009年にちょっぴりリニューアルし、丸木舟の上からマグロをねらう縄文人の立体模型や、骨からわかる縄文人大解剖コーナ、暮らしぶりを復原したイラストパネルなどが追加。より「みて」「ふれて」「たのしめる」資料館になりました。
映像シアタでは、縄文時代の里浜に生きた“げんちゃん”一家の暮らしを再現した「JOMON-今、蘇る縄文-」を上映しています(上映時間15分)。
資料館なかほどで出迎える貝層断面は、約2500年前のほんものの貝塚を剥ぎ取ったもの。アサリを中心に貝殻や動物の骨、土器などがぎっしりつまっています。見る人を縄文にいざなう、まさに“タイムカプセル”です。」
入館して最初に映像シアターで「JOMON-今、蘇る縄文-」を鑑賞して展示物を見学しました。そこから少し浜の方に移動して里浜縄文の里史跡公園です。以下の様に紹介されています。
「宮城県には約210か所の貝塚がありますが、このうち松島湾沿岸には約70か所もの縄文時代の貝塚が集中しており、松島湾沿岸は、特に貝塚の密集する地域として全国的に知られています。
里浜貝塚は、松島湾に浮かぶ最大の島「宮戸島」にあります。縄文時代前期(約6800年前)から弥生時代中期にかけての集落跡で、保存状態の良好な貝塚が広範囲に残存し、日本最大級の規模(東西約640m、南北約200m)を持ちます。その規模や質などから、松島湾沿岸地域の拠点的集落のひとつであったと推定されています。
古くから、多数の縄文人骨や、漁具・装身具などの多彩な骨角器が出土することでも知られており、大正時代にはすでに、考古学の基礎的な方法論に基づいた科学的な発掘調査が実施されました。その後も、多くの研究者や研究機関により調査・研究が進められ、平成7年に国史跡、平成12年には資料の一部が国の重要文化財に指定されました。
広範囲に広がる貝塚は、大きくわけて、《西貝塚》「台囲(だいがこい)地点」、《東貝塚》「畑中(はたなか)・梨木囲(なしのきがこい)・袖窪(そでくぼ)地点」、《北貝塚》「寺下囲(てらしたがこい)・西畑(にしはた)・里(さと)地点」の3つの貝塚群からなります。里浜縄文人は、数百年~千年単位でムラの場所を移動しながら、各地点に生活の跡を残しました。
里浜貝塚には、4千年以上にも及ぶ、海に暮らした縄文人の営みが、しっかりと残されているのです。」
小さな入り江の里浜はほっこりする時空間で安らぎの世界です。残念ながらここも防波堤工事がなされていて自然美は失われています。暫し散策して縄文にタイムスリップです。