ホテルの女将阿部様が語る記事がありますので紹介します。
「生き残ったホテル
南三陸ホテル観洋は津波により浸水した部分もありましたが、高台の岩盤の上に建てられ
ていたため、震災直後より被災した住民の受け入れなどを精力的に行いました。
「南三陸ホテル観洋は私の父が創業しました。父はチリ地震大津波を経験していて、その教訓を活かして地震に強いホテルを建てよう、と地盤の強い岩盤の上にこのホテルを建てました。残るべくして残ったホテルだと言えるかもしれませんね」。
津波による甚大な被害
「街の中心部である志津川地区は東日本大震災の津波により8割が被災しました。15m以上の津波が街を襲ったのです」。
震災発生直後、阿部さんやホテルのスタッフは、宿泊客とホテルに避難してきた住民の方々などの対応に追われていました。
「街中から避難してきた人々の話を聞いて、指定の避難所ではなかったのですが『当館は人々の受け入れ先にならないといけない』とすぐに意識しました。」
阿部さんは、ホテルの調理の責任者に、「今ある食材を使ってみんなが1週間しのげるメニューを考えて欲しい」と指示しました。この深刻な状況がどこまで長期化するかわからない危機感をすでに感じていました。
震災直後から、何が出来るかを次々と考え行動に移す中で、「『みんな悪い事をしたわけじゃない。南三陸町は復興のモデル地区になり、そしてホテルはその拠点になる』という、創業者である父の言葉もあり、みんなで力を合わせてこの震災を乗り越える事を誓いました」。
「避難所として住民の方々を受け入れるだけでなく、この場所が新しいコミュニティの始まりと捉え、館内ではボランティアの方々の協力をいただきながら、様々なイベントを開催することにより、交流の場を作りました。その後も、地域の雇用を守ることや、交流人口拡大を目指し、けん引役になるよう努めました」。」
ホテルに早めに到着しました。ロビーでは震災の写真展示がされていました。部屋はオーシャンビューで志津川湾から太平洋を眺望できます。温泉を頂き、ゆったりくつろいで海の幸の豊富な料理の夕食は皆さん大満足です。アワビの踊り焼きは格別でした。
2次会も皆さんと和気藹々楽しい交流が出来ました。
翌朝も雲が厚く覆い海と空が1つの感じです。窓から見える山々には雪化粧です。果たして田束山へは行けるかしら?と不安がかすめました。朝風呂を頂き、ゆっくり朝食を頂きました。
ホテル出発は8時半過ぎで、最初の目的地は南三陸町志津川の荒澤神社です。
以下の様に紹介されています。
・荒澤神社 南三陸町志津川袖浜
「袖浜にある神社で、国常立命、迦具槌命、龍田彦命、龍田姫(クニトコタチノミコト、カグツチノミコト、タツタヒコノミコト、タツタヒメ:国常立はその名のとおり混沌の世界から国の土台を築いた根源の神、迦具槌は火の神での軻寓突智と同じです。龍田彦・龍田姫は元々奈良県生駒にある竜田山の男女一対の神で風を司るといわれています)を祭神としています。この神社はかつて、瀧不動と呼ばれ、村の鎮守でした。瀧不動は、その縁起によると鎌倉時代初期の文覚上人の開基とされていますが、修験の寺として建立され、神仏習合の影響で寺院内に神社が建てられていたものが、明治の神仏分離により、寺から神社に改められたようです。境内には町の天然記念物「太郎坊の杉」が東日本大震災の津波に耐えて残っています」
ここは巨大杉が凄い迫力でした。