2019年5月18日土曜日

1673「南三陸13」2019.5.18

 今日のメインは南三陸で信仰の山として、ツツジの山として有名な霊峰田束山です。歌津口の道を進み、車で頂上近くまで登れるのですが、途中から圧雪です。新雪を車は慎重に上って行きます。獣の足跡だけで今朝は誰もこの道を登っていません。頂上の駐車場は白銀の世界です。不可思議な世界が歓迎して下さったようです。思いがけない雪に皆さん大はしゃぎです。霧氷の様な木々は素敵です。曇りですが三陸海岸、太平洋を見渡せます。頂上への登りは諦めて暫しこの恩恵に浸りました。





この地は以下の様に紹介されています。
 
・田束山・計仙麻大島神社  南三陸町歌津樋の口150
「田束山(たつがねさん)とは宮城県本吉郡南三陸町と気仙沼市にまたがる山である。古くから霊峰として栄え、奥州藤原氏も信仰していたといわれる。そのため多数の経塚をはじめとした遺跡も発見されている。
 標高512mと付近の山の中ではとりわけ高い為、三陸海岸を一望できる。5月に開花する5万本のツツジでも名高く、三陸復興国立公園の飛地となっている。
 安中年間黄金文化を開花させた岩手県平泉の藤原秀衡が深くこの田束山を信心し山頂に羽黒山清水寺、中腹に田束山寂光寺、北嶺に幌羽山金峰寺など七堂伽藍、七十余房を造営、「秀衡の子本吉四郎高衡をして山神祭禮を司さとらしむ」と当時の書物に記載されている。田束山経塚が出土したのはこの為である。
 その後奥州合戦において奥州藤原氏に由来するという事でこの地も荒廃してしまう。聖人であった満海上人はそれを嘆きつつ、自らも弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏(ミイラ仏)となるため入山したのだと伝えられている。また一説には、田束山がキリシタンの焼き討ちにあってまたも荒廃の危機にあった時に、切支丹退散を念じて入定したのだとも伝えられている。
 田束山は僧にとって格好の修行の場であった。現在、田束山に登るには麓の樋の口地区から入山するか払川・上沢地区から入山するか二通りあるが当時は主に樋の口地区から入山していた。樋の口(ひのくち)という地区の名前も元々は「僧が山の入り口なので松明に火を点ける入り口」が由来となっている。その古くからの集落である樋の口から田束山に登拝する樋の口御坂の東の沢を「滝の沢」と呼びが、その沢沿いが「行者の道」として現在整備されている。一帯は「東の行場」と呼ばれる修行場だったと伝えられており、「蜘蛛滝」「穴滝」といった滝が見られる(坊ァ墓もこれに由来)。」

田 束 山 由 緒 
「標高512メートルの田束山の山頂には、平泉時代末期の「経塚」がある。昭和46年の調査では 南北に並ぶ11基を確認(1~5号は本吉町、他は南三陸町歌津に所在する)した。出土遺物は多賀城市(陸奥総社宮から車で10分)の東北歴史資料館に所蔵されている。
田束山は古くは「龍峯山(タツガミネヤマ)」とも記され、また奥州平泉対岸の束稲山(タバシネヤマ)
に山容が似ていることから名付けられたとの説もある。開山は不詳であるが、承和年間(834~848年)に天台宗に改宗したという。」

 駐車場から来た道とは違い、本吉方面に下って行きました。下って直ぐに石像公園ですが、不動明王の巨大石像があります。ここも雪に覆われています。ここでも暫し雪に戯れて楽しみました。