2016年9月14日水曜日

696「手帳2」2016,9,14

 手帳のエンピツ差しに紙がはさんであります。最初何だろうと想いながらも手帳の中を見ていて最後にその紙を取り出してみると、それにも賢治の文字で、以下の様な短歌が記されていました。
「塵点の 劫をし 過ぎて いましこの 妙のみ法に あひまつ りしを」


「塵点(じんてん)の劫(こう)」とは以下のようです。
「塵点の久遠劫、塵や砂のように数のいちじるいく多いことにたとえた表現で、常識を絶するような長い時間をいう。
 仏教では、横と縦がそれぞれ40里、高さが40里の大きな石を、天女がその天の羽衣で3年に一度ずつ拭いて、その結果その大きな石が摩滅して全くなくなる、そのぐらい長い時間が劫である。」
 それほどの長い時間を過ぎて、今、この妙法蓮華経に出会えた、という限りない喜びを記したものようです。如何に賢治は妙法蓮華経に深く信心していたのか、創作活動の根本にこの精神があるようです。

 1ページ目に以下の文字があります。
 當 知 是 處
 即 是 道 場
 諸 佛 於 此
 得 三 菩 提
 そして3ページは以下の文字です。
 諸 佛 於 此
 轉 於 法 輪
 諸 佛 於 此
 而 般 涅 槃



 これは「道場観」といわれるもののようです。その意味するところは以下です。
「まさに知るべし、このところは、すなわちこれ道場なり。
 諸仏ここにおいて、三菩提を得、
 諸仏ここにおいて、法輪を転じ、
 諸仏ここにおいて、般涅槃したまう」
 今、私のいるこの場所(地上のすべての場所)において、過去、諸仏が悟りを開き、法を説き、涅槃に入られた道場にほかならない。
 この文は、妙法蓮華経の如来神力品(にょらいじんりきぽん)第21にある経文である。「當(まさ)に知るべし 是(こ)の処は即ち 是(これ)道場なり
 諸仏 此(ここ)に於(お)いて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)諸仏 此に於いて法輪を転じ  諸仏 此に於いて般涅槃(はつねはん)したもう」
 国土のあらゆる処、街中まちなかであれ、林であれ、山深き処であっても、塔を建てて供養を行いなさい。」

 と言うことで賢治は、この道場観を手帳の冒頭に記し、その気持ちが日々の活動の哲学だったと伺い知ることが出来ます。

 28と数字が記されたページには
「快楽も ほしからず 名もほしからず
 いまはただ 下賎の廃躯を
 法華経に 捧げ奉りて 奉」
 次のページには
「一塵をも 点じ 許されては 父母の下僕となりて
 その億千の 恩にも酬へ得ん
 病苦必死のねがひ この外になし」



 「雨ニモマケズ」の少し前の部分にある詩ですが、何とも言えぬ強い言葉で、快楽も名誉も拒否し、自戒と共に、己が生を如何に生きて行くのか、病躯にあって法華経に対する宗教的な情熱、父母への報恩の思い、信条、心情が読み取れます。