斉藤宗次朗氏の「デクノボーと呼ばれた生き方」について次のような記載がありました。
「斎藤宗次郎は教師を辞めてから、朝の3時から新聞配達をして生活し、帰りには病人を見舞うなど続ける中で肺結核を患い、何度か血を吐きながらもそれでも毎朝3時に起き、そんな生活を20年間続けたそうです。
新聞は10数種類、20キロ以上あったと言います。
孫娘・佳與子との往復書簡が残っており、佳與子の誕生日には「どんな事があっても恐るるな、驚くな、失望すな、悲観すな」などの言葉を贈りました。
彼の生き方は、第一に信仰、第二に他の人、最後は自分という生き方でした。
彼は1968年(昭和43年)、90歳で亡くなりました。
多くの人が、あまりの苦難や迫害に合う彼を見て「あのような人にはなりたくない」「あのようにはなれない」と思い、ただ遠くで見ていたことでしょう。
宮沢賢治も、はじめはそうだったかもしれません。しかし、家族や家を失っても信仰を捨てず、聖書を読み、祈り、何ら変わらない生活をし、多くを失ったかのように見えた斉藤宗次郎の人生は、周りの人々からの信頼を得、体が弱かったけれども長寿を得、子や孫に恵まれて神からの祝福を得ました。」
賢治と斉藤宗次朗との交流について以下の記載があります。
「賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれており、一方宗次郎の日記にはお金がなくて、質屋だった賢治の家に金時計を預けてお金を借りたことがありました。そういう姿を見た賢治が、気の毒に思って「80円引替に渡してくれた」とのちに回想しています。賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せていることからもゲラを見せる間柄だったようです。
その日記には宗次郎が新聞配達をしていて集金に行ったとき、農学校の先生をしている賢治の職員室へ立ち寄って、「宮沢先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベンとかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせてもらった」と書かれ、さらに賢治と二人でストーブを囲んでいる様子をスケッチして日記に残しているそうです。
宗教のエッセンスに触れた人間には仏教もキリスト教もユダヤ教も対立はないのです。」
「同郷の出身で日蓮宗(国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた交流があり、1924年(大正13年)の日記には賢治の勤めていた花巻農学校に斎藤が新聞の集金に行くと賢治が招き入れ一緒に蓄音機で音楽を聞いたり、賢治の詩「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたという記述が見られる。また、賢治の散文詩「冬のスケッチ」には斎藤をもじったと思しき「加藤宗二郎」という人物が出てくる。」
「雨ニモマケズ」の後のページには以下の文字が記されています。
「凡ソ 栄誉ノ アルトコロ必ズ 苦禍ノ 因アリト 知レ」
「天來ト 疾苦トハ 猶陰陽ノ 電気ノ 或ヒハ 如ク 夏冬ノ ニ候ノ如シ」
「妄リニ 天來ニ 身ヲ 委スルモノハ コレニ百スル 疾苦 後へニ 随フヲ 知レ」
最後の方に
「窮すれば通ず 窮すれば通ず さりながら たのむは まこと ひとつ」
とあり、一茶の言葉があり、南無妙法蓮華経と南無の菩薩が記されてあります。
賢治は裕福な家に生まれ、その富裕さを嫌った、と言われています。しかし栄誉を求めることなく、病苦の中で自らの心と身体を傷つけながらも、真一念心で大勢の人々の心に残る仕事を成し遂げ、短き一生を終えました。しかし残された多くの作品に貴重なメッセージが記されています。
陸奥、岩手の風土に生まれた大きな先達、アセンデッドマスターです。また改めて出逢いの機会を手帳で頂けました。ありがたきことです。