2017年7月18日火曜日

1004「鞍馬・三河6」2017,7,18

 出町柳駅から下鴨神社は歩いて直ぐです。下鴨神社の正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。神社の紹介は以下です。
「賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
 本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。」

 下鴨神社の境内、糺の森に入って直ぐに河合神社があります。神社の紹介は以下の様にあります。
「下鴨神社の末社であり、ご祭神は「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」。初代の天皇とされる神武天皇の母にあたる神様だそうで、安産、育児、縁結び、そして女性が一層美しくなりたいという願いを叶えてくれる、いわば女性にとっての総合的な神様とされています。河合神社では「美人の神様」「美麗神」とも紹介されています。」


 そして河合神社は方丈記で知られる鴨長明ゆかりの神社でもあります。境内に鴨長明が住んだと言う復元した、方丈庵があります。
「鴨長明(1155~1216)は平安時代末期~鎌倉時代の随筆家。賀茂御祖神社の神官の家系である鴨氏の出身。長明の父鴨長継は河合社の禰宜から賀茂御祖神社の禰宜に進んだ人物でしたが、長明の幼少期に死別。長明もまた河合社の禰宜の座に就くことを望んだものの一族の反対で叶わず、神職の道を閉ざされ、50歳のときに出家して仏門に入りました。
 以降、大原や日野に住み、こちらのような一丈四方(方丈)の庵に住んだと言います。この方丈庵は解体して持ち運びが可能でした。
 鴨長明の随筆「方丈記」はこの方丈庵から名が取られています。他に歌論集の「無名抄」、説話集の「発心集」など。」



 その方丈庵の前で中山さんがお言葉を発しました。
「立ち昇り行くこの想い、受け取られ
 住家を作られよ。」

 この様な家に住みたいのでしょうか。方丈について以下のように記されています。
「方丈は、1丈四方の面積。「方」には四角形の意味があり、「丈」の長さをもつ「方」ということ。1丈は約1.67間(=10/6間)であるため、1方丈は四畳半程度の広さ。方丈は簡単に構築でき、また簡単に解体する事ができたため、僧侶や隠遁者に愛用される。
 また、『維摩経』に書かれているように、維摩詰の方丈を訪れた文殊菩薩とその一行が、その狭い空間に全員収容できたという逸話から、仏教においては方丈に全宇宙が内在しているという考え方がされ、そこから寺院の住職が生活する建物を、特に方丈と呼ぶようになった。室町時代中期以降は仏像や祖師像が安置されるようになり、本堂の役割を担う建物とされた。現在、日本の曹洞宗においては住職本人のことを方丈と呼ぶ慣わしがある。」


 暫し舞殿の縁側に座り方丈庵を眺めていた後に、地面の小砂石を集めて、なにやら絵を描き始めました。そこで描かれたものを後でノートに記しましたのが以下の様な絵と言葉です。
「サナト クマーラ  絵
 地は受けた、流すは八方揺らぎ行く。」




 サナト クマーラ、天が鞍馬山を通して地と柱となって繋がり、天からの受け流すことで八方が揺らぐということでしょうか。
 実は2017年5月29日に以下の絵が描かれていましたが感じが似ています。
「訪れ来たりたこの時に伝える。
 遥かな大き宮、新しきをここに生む。」