ご主人は石巻山に魅せられて調査され、本も書かれている方で、奥にはギャラリーもあり、数々の情報発信をしているようです。少し長めの時間で、ゆっくりした昼食に満たされて出発です。
午後の最初の目的地は豊橋市加茂町にある賀茂神社です。石巻山の北にある賀茂神社は広大な社叢を有していて、境内にある賀茂菖蒲園は有名です。更に境内には神山古墳もあり、かなり古い歴史のある神社です。徳川家康も深い繋がりがあり、再三戦勝祈願に参詣しています。
賀茂菖蒲園から赤い太鼓橋をわたり、鳥居を過ぎて参道を進むと右手に神山古墳があります。かなり荒れた状態で、草が生い茂り、暫く手入れが成されていない感じです。
更に参道を進むと本殿があります。本殿の手前には、「潜みの大楠」と称される樹齢1000年以上と言われる御神木の楠の巨木 があります。
この大楠には、徳川家康が元亀四年(1573)に野田城救援に出撃した合戦の時に、反対に武田勢に追われ、敗走した時、この大楠に身を隠して危うく危地を脱したという、逸話があります。広い境内に末社の粟島神社、貴船神社など鎮座しています。
「本社は徳川時代初期になって隆盛に赴き、他の式内諸社を一足飛びに乗り越えて、三河一宮砥鹿神社と肩を並べる東三河の大社になった。」
とありますので、家康が賀茂神社の何であるかを感得していたと言われています。
祭神は賀茂別雷命、天忍日命、倭宿称命、天照皇大神、豊受姫命、菅原道真、宇気母知命、速須佐之男命です。
所縁は以下です。
「創建年は、孝徳天皇の御宇、白雉元年(650)とする説と、聖武天皇の御宇、天平元年(729)とする説とに別れています。三河國一宮の砥鹿神社とともに、穂の國(三河)鎮護の社として豊川の両岸に祀られたと考えられていますが、『延喜式神名帳』には列せられていません(宮司の話によると、三河は他國に比べ極端に式内社が少なく、朝廷の影響以上に、独自の風土文化を保っていたのではないか、とのこと)。鎮座地付近には複数の古墳が存在しましたがほとんどが滅失し、現在は参道横の神山古墳(円墳)のみ残っています。
神山古墳は、径28m、高さ3.5mの円墳で、内部主体は横穴式石室ではないかといわれています。おそらく5世紀末から6世紀初頭の築造と言われています。この地一帯も北部九州の流れをもった横穴式石室の古墳であったと思われます。この横穴式石室は北部九州の安曇族と呼ばれていた氏族の勢力圏で見られる石室であり、朝鮮半島では全羅道(朝鮮半島南西部)に同様の古墳が見られ、しかも弁天塚古墳とほぼ同時期に作られているのです。つまり、古墳の築造年月から考えて見ると、朝鮮半島南部から北部九州を経てここ、東三河まで続く巨大な海洋国家の存在が浮かび上がってきます。そしてその古墳のあったところに現在では賀茂神社が立てられている。」
本殿前であわ歌なしで以下のお言葉がありました。
「立ちて参られ、ハタを超え行き、
スサを戻して、遥かなる彼の地を目指すは、これこの時。
永きに渡りたる、この身を讃えましょう。
更なる道は、開きたり。
大いに働きてくだされ。」13:02
ハタとは秦とのことです。スサを戻して遥かなるかの地を目指す時とのことです。道は開き、大きな働きを求められています。スサとはスサノウのことでしょうか?