2017年7月20日木曜日

1006「鞍馬・三河8」2017,7,20

 7月1日は雲ひとつ無い快晴です。鞍馬山で天と地を繋ぐ柱をなし、サナト・クラーマのエネルギーを八方に拡げるには最高の日和です。昨晩に到着したIさんも合流して8名全員が集まり、八方に拡げる面々が揃い、準備も整いました。里美八犬伝ならぬ三河あわ歌八人衆です。8時前にホテルを出発してレンタカーに乗り込みました。

 最初の目的地は豊橋市大岩町にある大岩寺の岩屋観音堂です。ここが私にお言葉で現われた「二川 三十三」の三河二川宿、東海道五十三次三十三宿、三十三観音一番霊場です。
 岩屋観音堂に付いては以下の様な記載があります。

「伝承によれば奈良時代の僧行基により、岩屋観音が建立されたという。大岩寺は観音堂の塔頭の6坊のひとつで岩屋山の山麓にあった。6坊のうち大岩寺のみが残り、観音堂を奉仕管理していた。
 伝承によれば天平2年(730年)に、全国を行脚する行基が1尺1寸の木造の千手観音を彫り岩穴に祀ったという。これが大岩寺の境外仏堂岩屋観音の始まりであり、岩屋観音の1坊であった大岩寺の起源とされる。天正13年(1585年)、岩屋山が炎上し、観音堂以下、寺は衰退した。
 天正18年(1590年)、天下人関白豊臣秀吉により神君関八州移封となり、東三河に池田照政(後の輝政)が封じられた。三河国吉田城主となった照政は岩屋観音を信心していたと伝わる。
 宝永4年(1707年)旧暦10月、宝永地震が発生する直前、遠江国白須賀宿に泊まった輝政の曾孫である池田綱政の夢枕に観世音菩薩が現れ、今後起きる地震や津波の難を告げたという。綱政一行は急ぎ、海道を西に上り、三河国二川宿へ入った。マグニチュード8.4とも推定される大地震が起こり、東海から九州にかけて大津波が襲い白須賀宿は南から来た海水の前に飲み込まれて壊滅した。命拾いをした綱政は観音の冥加と考え、岩屋観音に帰依した。綱政が寄進した観音経1巻、絵馬4枚、黄金灯籠1対は、豊橋市の指定有形文化財となっている。
 現在、国道1号の岩屋下交差点の東の小山(岩屋山、78.2m)の上に約2.9m(9尺6寸)の正観音(聖観音)像が立っている。」

 池田公に観世音菩薩が夢枕に現われ、宝永地震、津波を告げたという、この逸話に興味を抱きます。今回、この地を最初に訪れたのもこれから同様な事が懸念され、それを防ぐ計らいなのかもしれません。
 狭い公園の道を進むと岩屋観音があります。駐車場から坂道を登ると、正面に岩山が見えます。左手に観音堂があり、更に奥には岩屋があり、石仏がお祀りされています。







更に奥には岩屋山の山頂に登れる参道があります。そのあたりの巨大な岩の塊りに中山さんは興味を示され、その巨岩に向かってあわ歌を響かせました。
 そこであわ歌を歌い終わって頂いたお言葉です。
「さんげ さんげ さんげ
 道開き、大いなる響きあり。
 その響きに乗り行きて、参られませ。
 あらゆる全ての思いは、共に一つと成し行きて、
 引き受けたり。参られよ。」9:07



 ありがたき始まりです。岩屋観音から次の目的地、牛川波の上稲荷への車中で以下のお言葉がありました。
「ことほぎ  ことほぎ うれしやな。
 ゆう  ゆう  ゆう の 大  大  大
 開きて、参りて、移り行く。
   ひとつと 成りて、遥かなるへ。
   サン  サン  サン の サンタリラ」9:24
 
 「ことほぎ」とは以下の様にあります。
「言寿ぎ・言祝ぎ・寿:言葉によって祝福すること。ことぶき。ことほがい。」
 兎にも角にも、嬉しきこと、ありがたきことです。