砥鹿神社の御祭神は大巳貴命ですが、創建等は以下のようです。
「社記では、大宝年間(701年-704年)に文武天皇の時に天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)が派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとする。
現在も砥鹿神社奥宮が鎮座する本宮山は東三河地方では中心的な孤峰であり、山中には磐座、山麓には古墳群の分布が知られることから、古代から信仰対象であったと考えられている。また上記伝承に見える草鹿砥氏は砥鹿神社の旧社家で、同氏は穂別の後裔と伝えることから、かつて当地一帯を治めたとされる穂国造により奉斎されたと推測する説がある。」
奥宮に付いての表記です。
「本宮山砥鹿神社奥宮の創祀は、文武天皇大宝年間以前より鎮座さられた事は、社伝に明らかである(約千三百年以 前)。海抜七八九、二米に位する。
本宮山 の秀麗な山姿と全山を覆う樹林は、昔より東海無双の霊域として神聖視され、殖産の神、護国救人の守護神として広く尊崇され、明治四年の官制より三河国 唯一の国幣小社に列格された、砥鹿神社の奥宮である。
大神の御神徳は弥々輝き、除災招福、交通 安全、等にも広く御神威を垂れ給っている。」
「この奥宮の地には古代祭祀遺跡(磐座イワクラ)が点在し、古くから神祭りが行われてきたことが想起されます。その信仰形態から砥鹿神社の創祀はここ本宮山から始まったと考察されます。」
国見岩、三河湾、太平洋に向かってあわ歌を響かせました。その後のお言葉です。
「生まれ出でくる是よりを、その身は受けて全てを発し、
揺らがぬ大きなる地と成され。
(拍手)
おーーーーーー
ここより海へと120キロ、離れし所の深き40キロ、
どんどんどんと三段になりて、その元なる岩は、移り行く。
その時は、海動きて、走りて、この地へ参る。
しっかりと立ちて、波を鎮めん。
篩いとなる。
この事は、新しきを出だす。
さんだん むつるは、うみ動く。
(拍手)
大義なり。」14:44
何と、ここより海へ120キロ先の遠州灘、深さ40キロの海底は三段になっていてその元岩が動き、津波となり、この本宮山まで押し寄せてくると言うのでしょうか。この山は標高789,2mです。しっかり立って波を鎮めるが篩いとなる。そして新しきを生み出す。驚きの内容です。果たして如何なるや、です。
今日の目的地はまだ1つ残っていますが、中山さんから早めに宿に入って、皆さんにあわ歌拝受をしたいとのことです。今回の巡りを受けて、皆さんが八方に拡げるお役目を頂いているのですから、その真意をあわ歌の響きを通して、皆さんにお伝えくださるのです。
阿寺の七滝はキャンセルして、宿の新城市の湯谷温泉に向かいます。