以下の様に紹介されています。
「花巻市高松の平良木(ひららき)地区にあるこの立岩は猿ケ石川のほとりに垂直に切り立った岩場で岩場と周りの木々が作り出す景観がとっても素晴らしい場所。」
雨の影響で猿ヶ石川の水量が増し、滔々と流れています。
写真をみると川底が露出して、イギリス海岸のように見えるものもあります。垂直にそそり立つ立岩は壮観です。
以下のサイトには沢山写真が紹介されています。
丁度昼時でしたので、八福どじょう庵に伺ったのですが、沢山のお客さんで諦めて東和町の道の駅でお昼を頂きました。
お腹も満たされ、次の目的地は花巻市東和町田瀬湖の田瀬大橋近くにある「安倍貞任の隠れ岩」です。その所縁、阿倍貞任について以下の様にあります。
「前九年の戦いにより貞任は、頼義の子頼家に追われ雨露を凌に格好の岩屋があり、そこで隠遍生活をして川魚・山菜・獣肉等を食して長い間住んでおり、その間、後方の砥森連峰中の小砥森山に居城を構えることを計画したが、頼家に発見され北方へ逃げ去ったとされ、以来、阿倍貞任隠れ岩として、言い伝えられている場所です。」
「阿倍貞任(1019~1062)は、古代末期の東北を代表する武将の一人である。前九年の役の抵抗を指導し現地の人達からは「高天の如く」仰がれた。
古代末期の東北辺境に独立を勝ちとっていこうとする戦いは阿倍氏のもと彼においてひとつの頂点を迎え、清原氏、藤原氏に継承され結実するのである。
奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手郡)の豪族阿倍氏は、この地に産する馬と砂金をうしろだてに、胆沢郡衣川に本拠をかまえ、十余の城柵に一族を配してその勢力は強大であった。これを国司として牽制することを源頼義が任命された。
阿倍氏は反抗する意志はなく衝突をさけようと努めた。ところが頼義の任期が切れる寸前で紛争がおきた。
原因は阿倍貞任が、頼義の武将の妹に結婚を申し込んだところ、貞任が蝦夷の子孫だという理由でことわられたことにあった。
戦いは、長い年月にわたり一進一退を続けた。しかし、1062年頼義が出羽の豪族清原氏の応援を得たことにより一挙に終局をむかえることとなり、貞任は13才の我が子千代童子とともに戦死した。」
次のサイトには写真がありますので隠れ岩が良く見えます。
残念ですが隠れ岩は草に覆われてその全容が分りません。途中まで登ったのですが足元が悪く、滑ります。時季を改めて再度訪れることにして引き返しました。
後で気が付いたのですが、ここでトレッキングシューズをサンダルに履き替えたのですが、シューズを片足道路に忘れて来たようです。翌朝、宿を出る時に無いのに気づいたのですが時既に遅しです。何と言うチョンボでした。