2017年8月26日土曜日

1043「丸太3」2017,8,26

 更に経塚山に
「藤原の伝承はこの山に満ち溢れていて、経塚山は藤原秀衡が納経した山。途中にある胎内岩は秀衡夫人が安産を祈願した場所だという。」
 との記載とその写真がありました。
 今回は確認できませんでしたが以下の様に胎内岩、そして登山口には束稲荒神としてアテルイの像が山中にあるようです。

 胎内岩。

 束稲荒神はアテルイ(阿弖流為)だそうです。

 賢治も経埋めるべき山と記していますが、束稲山なのか束稲山系の中の経塚山なのか。この事に付いて経塚山でないかというコメントがありました。
「平泉を訪れた西行は山家集に『陸奥の国に平泉に向かひて たはしねと申す山の侍に 異木は少なき様に桜の限り見えて 花の咲きたりけるを見て詠める』として
  きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかにかゝるべしとは
の歌を詠んだと記している。
 一方、平泉からは国土地理院の地図でいう『束稲山(595.7m)』の頂上は見えないはず。平泉の人たちは平泉から見える音羽山、経塚山、駒形山などの峰々を総称して『束稲山』と言うようだ。
 とすれば、賢治が「経埋ムベキ山」として選んだ『束稲山』は経塚山(519.1m)の方だ、というのが現時点での私の結論である。(藤原秀衡の納経所であったという由緒ある)経塚山という山の名そのもが「経埋ムベキ山」として相応しいということもあることだし。」
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/e2a2aaa993f22e3e90a88ad45a1ca1ba

 次の目的地は一関市大東町にある「観福寺の巨石群」です。観福寺に付いては以下の様に紹介されています。 
「建久2年、工藤祐経の長男犬房丸が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したといわれている。義経北行伝説・源義経主従が投宿した際、四天王の一人亀井六郎重清が残したと言われる笈を所蔵。また、弘法大師の霊場八十八ヶ所の仏像が一番から八十八番まで安置されており、奇岩怪石の間の小径を伝わって巡礼ができる。」

 義経北行伝説・源義経主従が投宿した際に付いて詳しい記載は以下です。
「平泉から脱出した「義経」は、最初に、佐藤継信/忠信兄弟の父親「佐藤基治」を訪れたとされています。そして、そこから束稲山を越えて、現在の大東町猿沢に入り、「真言宗石清山観福寺」で宿泊したそうです。この「観福寺」には、義経四天王「亀井六郎重清」が、宿泊のお礼として、砂金を入れた「笈(おい)」を置いていったと伝わっており、現在でも寺宝として保存されています
 但し、この寺院は、建久二年(1191年)、「工藤祐経」の長男「犬房丸」が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したと伝えられていますが、それだと北行伝説と、時間的ズレが・・・」

 お盆ですのでお墓参りの方々が沢山居ますが、お墓のほうへ向かわれて私達はゆっくり裏山を散策できました。
 山門を入った正面には、巨石、巨岩が目に入ります。その巨岩の上にお堂が見えます。四方懸崖(けんがい)造りの観音堂です。この観音堂へ登る石段は横からみると石段ではなくて橋になっていて、下は池です。お堂の周りの巨石の破砕の方向がまちまちでどういう造形が成されたのかな、と思ってしまいました。





 観音堂の左手に階段があり、裏山に岩山に登って行きました。上記にある様に、奇岩怪石がそこかしこにあり、石塔も立てられ、小さな霊場です。






 蝉が木に静かに止まっていましたが、そこかしこで蝉が孵化していました。